祈らなかった


 しばらく目を瞑っていたら、知らぬ間にまた寝てしまっていたらしい。いつの間にか、ベッドの横に座っているのはレオンからヴィルさんに変わっていた。一体私はどれだけ寝ていたのだろう。首を捻りながら、口元に笑みを浮かべる。

 

「……おはようございます?」

「今は夜だ」


 あらまあ。生活習慣の乱れが顕著。ヴィルさんは溜め息を吐いたかと思うと、テーブルの方に置いてある皿を指し示した。


「時間はおかしいけど、飯だ。冷めても食えるもの選んどいたから安心しろ」

「それはそれは、お手数おかけしました」


 軽く言いながら、小さく頭を下げる。


「気にすんな。俺がしたくてやってんだから」


 軽く視線を逸らされてしまった。なんだろう。ヴィルさんの様子がどこかおかしい気がして、ちょっとだけ横顔をよく見てみる。顔色が悪いわけではない。し、目だっていつもと変わらない色を湛えている。……だけど、違和感がある。

 ……苛立っているのか? 違う。不機嫌だというよりは、むしろ。


「ヴィルさん、なにか悲しいことがありました?」

「……急に何言ってんだ、てめぇは」


 ……返事が遅かった。これは、動揺したな。その形相はまるで人を殺してきたかのようなものだったが、私には分かる。滅多に見たことがないけれど、これは悲しんでいるときの顔だ。半分勘だったなんてそんな。


「……なんとなく? そんな気がしたので」


 苦笑すると、ヴィルさんは明らかに顔を歪めた。その唇は引き結ばれている。……なるほど、やはり私に言うつもりはないか。軽く息を吐いて、手を軽く振る。


「今は……理由なんて言わなくていいですよ、どうせ言う気なんてないでしょうし。また今度問い詰めます」


 それに、私も考えなくてはいけないことが多々あるから。今ヴィルさんの話を聞いても、集中し切ることができない気がする。そんなのはヴィルさんに失礼だし、レオンにも悪い。

 そう思って言ったのだが、ヴィルさんはどこか思い詰めたような様子で溜め息を吐いた。


「別に、言う気がないわけじゃねぇ。……ただ」

「ただ?」

「てめぇのことは、大事にしたいんだよ」


 さっきレオンに言われたのとよく似た台詞。なんだか苦い気分になって、誤魔化すように視線を逸らす。


「そういう、一方的なのは……あまり好きじゃありませんが」

「だろうな」


 知ってるよね。ヴィルさんは私とずっと一緒だったんだから。分かっていて、私のためにそれを選んでいる。……私のため。アナスタシアの、ため。

 呪いみたいだな、と思った。レオンも、ヴィルさんも、ヒューもオフィーリア嬢もみんな。アナスタシアという人間がかけた呪いにずっと縛られ続けているみたいだと。

 それはきっと、とても……ひどいことだ。だから。


(覚悟を、決めろ)


「私、ね。レオンハルトと話さなきゃいけない気がするんです」


 過去を過去にしなければならない。……ああ、そういえば。ここに来た理由も、そうだったっけな。もう遠い昔のことのようでさえあって、少しだけ笑えてくる。ヴィルさんにとってのアナスタシアを、過去にしたかった。それが最初で、多分一番の過ちだった。


「沢山、沢山……傷つけたから」


 もういいよ。十分だよ。私のことなんて忘れていいんだよ。そう教えたって、どんな言葉だって、届く気はしないんだけど。それでも。


「レオンを、私から、開放したいんですよ」


 あの優しいひとは。私なんかのために損なわれてはならない。だから終わりにしよう。アナスタシアがかけた呪いを。二百年近く続いたこの約束を。……私が望んだ、この未来を。

 壊して、亡くして、終わらせよう。


「お前さ」


 私の万感の思いの籠もった言葉なんて、ヴィルさんはどうでもよさそうだった。まあ、そうだろうね。ヴィルさんはもうどこにでもついてくるだろうなって分かるから、私の覚悟なんて彼には関係ない。それでいい。ヴィルさんは私の家族なんだから、何を決めても決めなくてもこの距離だけは動かない。

 なんて、傲慢かな。


「――アナスタシアのまま、何も変わってないんだな」


 続けられた言葉に、少しだけ眉をひそめる。


「……変わって、ない?」

「ああ。俺としては嬉しいと思ってたんだけどよ、……なんつーか」


 言葉を探す仕草は、ヴィルさんにしては珍しいものだった。視線を彷徨わせては、躊躇うように目を伏せる。しかし、ややあってから……覚悟を決めたように私の目を見つめてきた。強い視線。闇を照らす炎の色。パチ、と脳裏で火花が散る音がする。


「まだ、自分のことは、嫌いか?」


 一瞬だけ、過去が頭に過った。

 遠い遠い昔。ヴィルさんが私に聞いたこと。全く同じ質問。なんだか愉快なような、それでいて苦しいような心持ちになって、口元を歪める。


「……当たり前でしょう」

「そうだな。……ああ、そうだろうな」


 そう、当たり前なんだ。アナスタシアにとって、世界で最も唾棄すべき他人は己だった。

 炎の色を覚えている。燃え盛る『私の世界』を覚えている。笑う女を。愛していると囁いた声を。膨れた腹を。――息絶えたそれを見て安堵した自分の醜さを!

 忘れたふりをしていたかったけど。覚えているんだよ。


「でも、あの頃よりは、ちょっと好きになれた気がします」


 呟いた声は、どんな感情なのか自分でもよく分からないような音色だった。おかしいな。……うん、おかしいや。

 たった一言、ありがとうと。そう言われただけで報われるのなら、私は自分を悲劇と呼ばなかった。でも、確かに。龍族の村で過ごした日々が、この国を救いたいと願った思いが、今ここにある未来が。慰めるように私に寄り添っていてくれた。

 それだけで十分なのだ。


「そうか」

「アナスタシア・エヴェリナ・ダフネという女は、確かに愚かで無謀で無知なだけの身の程知らずでしたが」

「……」

「そんな私でも何かを救えたというのは、きっと、嘘じゃないんですよ」


 色々なものを傷つけて、沢山頼って、前だけしか見なかった。血の繋がった父も母もこの手で殺した。家族と呼びたかったなんて言葉を嘘にして、私よりもずっと傷ついてきた弟に全部押し付けて。

 それでもさ。この国は、私にとって大切だったから。この国を滅ぼすための狂気を排除しなければならなかった。この手を汚しても。何かを捨てても。彼等が人間と共に生きていける未来が、私がレオンの隣にいてもいい理由が。……生きていてもいい理由がほしかった。


「……そうだな。俺も、アナに救われた一つだよ」


 肯定は、ひどく穏やかだった。軽く目を瞠ってから、苦笑を零す。

 何を言っているんだろうね、ヴィルさんってば。


「変なことを言いますね。私の方こそヴィルさんには、救われてばかり――」

「――いいや、俺は、お前に救われたよ」


 否定が早い。断固とした何かを感じる。執念かな? 変なの。私は、ヴィルさんに何かをした記憶なんてないんだけどな。


「きっと、てめぇには分からねーんだろうけどな」

「……あはは」

「それに、分からなくていいんだ」


 私よりも高い体温の手のひらが、頬に触れる。目を細めて受け入れると、なぜかヴィルさんは少しだけ顔を歪めてみせた。


「知らないままでいい」


 ヴィルさんの隠し事はいつだって、私のためだ。ヴィルさんはいつも、私のことを大切にしてくれている。それがいいことが悪いことかは、よく分からないけれど。


「私、ヴィルさんのこと、何も知りませんね」

「それでいいんだよ」


 騎士を辞めた理由も。今何をしているのかも。急用が何だっのかも。結局聞けていないし、まだ聞ける気がしない。ああ、本当に、何も知らない。

 でもそれは、ヴィルさんに限ったことではないのだ。


「レオンのことも、何も知らない」

「……そうか」

「二百年。……いえ、百九十四? 五? 年でしたっけ。それだけの時間、私は全てから目を逸らし続けてきた」


 長い、長い時間。私はアナスタシアを捨てようとして。色々なことを忘れてきた。沢山のことから目を逸らしてきた。龍族の情報が聞こえてくるたびに耳を塞ぎ、そのくせにまだそこに彼等がいることに安堵して。


「私は、私が死んでからの彼等を何も知らない」

「……俺のことも含め、な」

「はい。知らないままでいいと思っていましたから」


 無知とは、希望に満ちた罪悪である。無知なままであろうとするのはなおさら。

 でも、今は。これからは。前を向くために必要なことなら、私は。


「それで? てめぇはどうしたいんだ?」

「……どうしたいんですかねぇ」


 独りごち、足をぶらつかせる。……ところで、私ってば外出着から着替えてるんですが。私を着替えさせたのはどこの誰だ……? 場合によっては逃走を考えるぞ……?


「どうしたら、いいんですかね」

「俺が知るか」


 ですよね。これは、私が考えなければならないことだ。でも、なんかもう考えすぎて飽和状態というか、考えるべき事柄が多すぎて脳が破裂しそう。


「……っていうか、レオンハルトはどうしてほしいんでしょうか」

「あのガキのことなんざ知るかよ」

「可愛い可愛い養い子のために、ちょっとくらい考えてくださいよ!」

「いくら可愛くても、俺が手を出しちゃなんねー領域があるだろが」


 ごもっともで。あーヴィルさんがそこはかとなく突き放してくる……。私のことを考えての言動だって分かってるんだけど寂しい。


「…………レオンハルトに、幸せになってほしいのに」

「てめぇが素直に好きだって言えば全部解決すんだろ」


 そんな馬鹿な。割りかし真剣そうな声で告げられた言葉に、じっとりとした視線を向ける。そもそも、私がレオンハルトに好きだって伝えたことによってややこしくなったのだけれど。


「そんな馬鹿な……」

「避けずに、逃げずに、向き合ってみろ。そうすりゃなにか開けんだろ」


 そう言うと、ヴィルさんは私の頭を軽く撫でた。……また子供扱いか。そう思ったけれど、不快ではないのではにかんで受け入れた。





 遅くなった夕ごはんを食べ終わる頃には、月が真上に登っていた。ヴィルさんは部屋に戻ったけれど、残念ながら眠気は来ない。散々寝たからね。仕方ないね。


 どう時間を潰そうか、と視線を巡らせる。そのとき、白い小さな花束が目に入った。

 今日のデートのときに買った花束だ。誰か――といっても可能性があるのは二人しかいないが――が拾っておいてくれたのだろう。花びらは何枚か散っていて、砂もついているけれど。感謝感謝。


「……ちょっと汚れてるけど、まあ、いいか」


 どうせただの思いつきだ。そう開き直り、花束を手にして部屋を出る。

 ……そう、思いつきなのだ。だから、特に深い意味もなければ理由もない。そこには感情のようなものさえないのだから。だから、別に。


(別に、そう。どうだって)


 昔のことを、少しだけ思い出した。とある人物の墓の在り処を思い出した。だから、それだけのことだし。深い意味なんてないから、本当に、ちょっと思いついただけだから!

 ……って、私は誰に対して言い訳をしているんだ。


 軽く溜め息を吐き、思考を振り払う。そして、なんの気なしに空を見上げてみた。

 闇夜を照らす月の光は、いつだって柔らかくて物悲しい色合いをしている。誰かの孤独に寄り添う人は、その人自身が寂しがり屋なんだろうな。なんて、下らないことが頭に過った。


 ……ああ、うん。本当に下らないな。そうこうしているうちに、目的地のすぐ近くまで来てしまっていた。

 大きな絵画の前で立ち止まる。荘厳な白い鱗の龍と、微笑む黒い髪の少女が隣り合っている、湖の絵。少し奥まったところにあるそれは、結構な埃を被っていた。まあ、そうだろうな。割りと複雑な道順を辿るし、こんな場所に用なんてあるはずもないだろうし。

 つらつらと考えながら、額の右下の壁を押す。がこん、と音が響いて、絵が左にずれていった。


「――なんだ、まだ、あったのか」


 昔々のことでございます。王宮の一角には、王族にしか知られていない隠し通路がありました。

 はい、それがこれです。移り住むんなら確認しといて?


「不用心ですよ、ちゃんとこういうのは消しとかないとさ」


 私が言うようなことじゃないかもしれないけれどね。そう独りごち、魔術で灯りを作り出す。

 ここから先は暗いから、注意しとかないと。足元注意、頭も注意。


(いいですか、アナスタシア)


 少し歩いたら、土の匂いがしてきた。外だ。灯りを消し、目を細める。


(わたし達に救いはないのですよ)


 庭。というには殺風景で、手入れも何もされていない場所。何か石造りの建物があった形跡があるそこに、小さな墓標があった。

 ……いや、私以外の誰が墓だと分かるのだろうか。小さくて、みすぼらしくて、ぼろぼろな。墓。雑草が生い茂っている中にひっそりと佇むそれは。

 私が作った、小さな。


「お久しぶりですね。大体二百年ぶりですか」


 呟いて、花束を投げつける。人が見たら眉をひそめるだろうが、どうせ自分しかいないのでまあいいだろう。 


「白、好きだったでしょう? 私も白い花が好きですから、……これは遺伝ですかね。女の子は男親に似るそうですし」


 手を合わせはしない。祈りもしない。花束だって丁寧に供えたりなんかしない。


「まあ、どうでもいいか」


 伝えたい言葉も。

 聞きたいことも。

 何もない。何もない。何も、ない。


「……ここ、覚えてますか? 私が幽閉されていた塔の跡地ですよ」


 応える声もないなんてこと、知っていたけれど。


「エーファの、お墓も……ここに作ったと聞いていたので。家族は同じ墓に入るものなんでしょう。だから、私が埋めたんです。嬉しいですか?」


 私の声だけが、このガラクタじみた墓標に響いていく。


「墓なんて、作ってもらえないって思いました? もちろん私もそのつもりでしたよ。でもね、……やっぱりなんか、嫌じゃないですか」


 刻まれた名前は、もうほとんど消えかかっていて見えない。だけど、私には分かる。分かってしまう。私が刻んだから。


「アルフレッド・ルーデウス・ダフネ」


 無表情になりそうになったのを堪え、軽く笑う。大丈夫、笑えるよ。うん、平気平気。


「――あなたのことは、そりゃあ憎かったけれど、でも」


 私にとって最も捨て去りたい過去は、ここにある。いっそのこと、私の記憶ごと全部地面の下に埋められたらいいのだけれど。無理か。無理だよね。


「あなたの気持ちも、今はちょっと、分かる気がするんです」


 独り言ですけどね。そう呟いて、墓に背を向ける。なんかこう、何の意味ももたらさないタイプの思いつきだったなぁ。まあいいや。

 少しだけ、過去が過去になった気がするし。


「ひとは救われたことなんてすぐに忘れて、強さを罪と糾弾するのでしょうけれど。その様を醜いと呼ぶのなら、あなたの言った通り世界はひどく醜いのだろうけれど」


 一瞬だけ目を閉じ、思考を切り替える。

 こんな場所も、こんな人のことも、手を汚したことも。今の私にはきっと関わりのないことだから。


「……私は、この国が好きでしたよ」


 さようならと微笑んで、朽ち果てたここを後にした。


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