想っていた


『……今日もお勉強ですか』


 床の上には、本が散らばっていた。埃だらけのベッド上に座り、読んでいないものを探してみる。『本棚』がほしいな、と思った。実物を見たことはないけど、本を入れるためのものらしいから。それがあったらきっと、こんなに散らかったりしないんだろうし。


『あなたは、賢い子ですね』


 話しかけられたので、顔を上げる。

 明かりはあっても暗い夜の闇の中では、その人の顔はよく見えなかった。でもきっと、いつもみたいに空っぽな笑顔を浮かべているんだろうなって。そう思う。


『だからこそ、分かるでしょう? この世界はあまりにも醜いのです』


 きっと、そんなことはないよ。首を横に振った。それと合わせて、足の鎖がじゃらりと鳴る。醜くなんて、ない。でも、私はここしか知らないから、そう思うだけなのかな。そんなの見えてないみたいに、その人は笑う。


『……だからね。外に出てはいけませんよ』


 頭を撫でる手は、ひどく冷たかった。生きてないみたいに、すごくすごく。でも、なんとなく。この人の手が冷たいのは、寂しいからなんじゃないかなって。

 ……思うんだけど、どうかなぁ。分かんないや。


『――ああ、それ』


 不意に、その人は床に落ちていたうちの一冊を手に取った。絵本だ。ここにある内では珍しく、ただの絵本。魔術書ではないもの。


『夜の女神の神話、ですか』


 馬鹿にするみたいに、鼻で笑いながら呟く声。ちょっとむかついたので、本を持つ手をパチンと一度叩いた。多分ちょっと目を大きくしてから、その人はまた笑ったんだと思う。


『……すみません、あなたはこの本が好きでしたか』


 痛くも痒くもなさそうな顔で本を開き、その人は目をちょっとだけ細くした。月の光が差し込んできて、表情が見えるようになる。

 やっぱり、想像したのと同じ、なんにもなさそうな顔だ。


『月が昇るのは、夜が寂しくないように。夜の女神が孤独にならないように』


 読み上げたと思ったら、すぐに放り捨てる。このお部屋が散らかってるのは、多分この人のせいだ。私よりもこの人が悪い。本とか物とか、すぐにそこらへんに放り捨てちゃうんだもの。ほっぺたを膨らませて、もうこちらを向いていない目を睨む。


『――でもね、覚えておきなさい。アナスタシア』


 不意に呼ばれた名前に、泣きたくなった。アナスタシア。私の名前。

 この人しか呼ばない、私の。


『この世界に、神なんていないんです』


 囁く声は、低くて、冷たくて。でも穏やかで宥めるような――。


『いるはずがない。いてはならない。だって、そんなものがいるのなら、どうして』


 その声は、まるで、呪詛だった。世界のすべてを呪うみたいな。何もかもを憎むみたいな。悲しい、哀しい。そうだ。あなたはいつも哀しそうだった、ね。

 黒い黒い瞳を見上げた。月のない夜の色。私の目と同じ色だ。

 だけど、髪の色だけはわたしと正反対の銀色で。


『どうして、俺達のような悲劇がこの世界にあるというんだ』


 ああ、あたまが、いたい。



 ――さよなら、もう二度と。



『いつもいつも着いてくるが、貴様は俺が怖くないのか』


 レオンハルトは、いつも難しいことを言う。私は馬鹿だから、もっと簡単に分かりやすく質問してほしい。彼のことは好きだけど、そういうところはちょっと嫌。


『どうして、わたしがレオンハルトを怖がるんですか?』


 びっくりした顔はやめてよ。まるで、思っていなかったことを聞かれたみたい。ほっぺたを膨らませて、レオンハルトの手をぎゅっと握る。私よりもずっと大きいその手は、でも、私を叩いたり払い除けたり殴ったりしないの。だから怖いはずないのにね。変なの。


『……龍族の持つ力の大きさは、その魂によって変化する』


 まーた難しいことを言い出したよこの男は。


『魂は巡るんだ。龍族は特に顕著に、すべての記憶を持って在り続ける。変わらず、動かず、永劫に同じ生を形だけを変えて生き続ける。……その中でも俺は特殊でな』

『とくしゅ?』

『ああ。話したことはなかったな。龍族にとっての王とは、人間にとっての王と意味合いが違うと』


 王。王様。国で一番偉い人のこと。あの人みたいなやつのこと。だけど、龍族には国がないから、違うのかな。


『龍王は、始原の魂より定められた、神に最も近い存在としての役割である』

『……?』

『龍族の王は、強さ。……いや、その力こそが意味であり価値だ。国だの権力だのとは関連しない。この身には、指先一つで万の命を奪うような、世界を敵に回しても勝ってしまうような圧倒的かつ暴力的な――』


 そこまで言ってから、レオンハルトは言葉を区切った。私がよく分かっていないことに気がついたらしい。

 その通りだ。言いたいことはなんとなく分かるけれど、具体的に何を言ってるのかはよく分かんない。ほんっとうに分かんない。


『……要するに、だ。俺は、強く在ることを世界に定められている』


 かなり簡単にまとめてくれた。これなら私でも分かる。だけど、レオンハルトが強いことなんて、ずっと前から知ってたのにな。


『? そうですね。レオンハルトは、だれよりもつよいです』

『ああ、だからこそ。……強すぎる力は畏れを生む。強いだけの強さは、恐怖の対象になる』


 青い目が、ぐっと深い色に染まる。風が吹いて、少し甘い花の匂いが届いてきた。


『貴様は、自分の目の前にいる存在が、指先一つで国を滅ぼすことができる力を持っていると知ってなお。怖くないと言えるのか』

『言えますよ』


 言い切る。まったく、変なの。レオンハルトは私よりずっと頭がいいはずなのに、たまにちょっと変なことを言う。なんでなんだろ、分かんないや。だって。……だって、さ。


『レオンハルトは、つよいだけですから』

『だけ、――って』


 そう、強いだけ。力を持っているだけ。強いとか弱いとか、そういうのって、それだけじゃ意味がないでしょ?


『よわくても、ひとはころせますよ。大きな力なんてなくっても、何かをこわすことなんてかんたんです。せかいをこわすのはいつだって、むりょくなぐんしゅうですから』


 私を化け物と呼んだのは、きっと、私よりもずっと弱い存在だ。だけど、私は私よりも弱い彼等の方が、レオンハルトよりも怖い。弱いってことを免罪符にして振り翳す暴力は、ただ在るだけの強さよりもずっと恐ろしいから。


『レオンハルトは、その手でわたしをころしますか?』

『――そんなこと! する、はずがない』

『なら、なんでわたしがレオンハルトをこわがらなくちゃいけないんですか』


 レオンハルトの手は、私の頭を撫でてくれる手だ。優しく繫いで歩いてくれる手だ。だから、怖くなんてないよ。大丈夫だよ、と。



 もっと綺麗な言葉で伝えてあげたかったのに。





「……ぁぁあ"ー」

「――!?」


 目を覚ました瞬間、清潔なベッドの上で蹲り、顔を両手で覆った。あー、なんかすごい醜態を晒した記憶があるなぁ! 夢かな。夢だったらよかったのになぁ。夢じゃねーわあれ。

 人の視線が苦手だって自覚は多少あったけど、あそこまでぐずぐずになる程じゃなかったはずだ。なのに、私は一体どうしたんだろう。自分の心が謀反を起こしてくる……。本当にやめて……。冷静になった今ちょっと死にたい気分だから。


「起きた、のか?」


 恐る恐る問いかけてきたのは、レオンの声だ。きっと、フードが脱げただけで様子がおかしくなった私のことを心配してくれているのだろう。レオンも大分様子おかしかったけどね。お互い様にしとかない? ……駄目かぁ。


「まだ起きていません」


 まだ起きていないことにしてください。感情の整理ができてないから。あと、話すのはちょっと気まずいので。

 少しだけ、溜め息になり残ったような呼吸の音がして、ベッド横に腰掛ける男の気配が近づいた。まだ起きてないから。顔を覆っているのは寝相だから。そんな無理やりな主張を受け止め、レオンは多分いつもの平静な顔をしているんだろう。


「そうか、なら……まだ寝ていればいい」


 頭に、手が触れる。低い体温。だけど、夢の中の手のひらよりもずっと温度があった。

 ……夢の中? 浮かんだ考えに違和感を覚え、一瞬だけ息を止めた。夢の内容は、よく思い出せない。なのに、いい夢ではなかったことだけは覚えている。嫌な夢だった。思い出せないけど、とても嫌な夢。


「俺は、お前のことが大事なんだよ」


 躊躇うように頭を撫でる手に、少しだけ安心する。この手のひらは、私を傷つけないから。殴りも、叩きも、何もしない。だから平気。

 ――いや、いやいや。待て私。思考がおかしい。最近、昔の夢をよく見ていたせいなのかもしれないけれど、意識が過去に引っ張られている気がする。これは多分、悪い兆候だ。死人の感覚に引っ張られてどうするというのか。やめて。アナスタシアは死にました。それ以外の八人も死にました。ここにいる私はイヴリン。それ以外の何者でもない。死者は蘇らない。


「お前が願うなら、何だってする」


 ……そこまでは、求めないよ。そもそも、私だってレオンのことが大事なのだ。レオンが願うなら、叶えてあげたい。幸せだって笑っていてほしいし、悲しい思いなんてしてほしくない。

 ちゃんと、想っているのに。


「欲しいものがあるなら手に入れる。してほしいことがあるなら何でもする。嫌なものは消すし、お前を傷つけるものも近づけない」


 ……。

 龍族特有の愛情の重さ、そろそろどうにかしようよ。何でなんだっけ。同族の数が過去から未来にかけてずっと一定だから、同族内での絆が強いっていうのは知ってる。それから、番に対しての執着の強さも聞いた。

 でもよく考えたら私どっちでもないな。同族じゃないし、番も違う。でも、龍族は身内に対して甘いから。私のことを家族って呼んでくれたから。……それだけだって思いたいだけかな。


「だが」


 私は彼に何も望まない。もう、私は何もいらないから。幸せになってくれればそれだけでいいのに。うまくいかない。なんにもうまくいってくれない。駄目だなぁ。


「お前を一番傷つけているのが俺なら、どうしたらいいんだろうな」


 自嘲の色が滲む声に、思わず声を発しそうになった。違う。逆なのに。傷つけているのは、傷つけたのは、私だったじゃないか。いつだって、そう。

 あなたは私に、沢山の幸福を、歓びを、優しさをくれたのだ。


「……分からないんだ」


 ずっと撫でていた手が止まる。


「あのとき、俺はただ、お前が外に出ることを怖がってないか……心配していただけだったはずなんだ。オフィーリアから聞いて、街に降りたのもそれだけの理由で」


 そういえば、迫害されてた話したっけ。それでか。まあ、アナスタシアだった頃も最初は外怖いって言ってた気がしなくもないけど、多分今は関係ない。


「なのに、なんでだろうな。ニコラスと手を繋ぐお前を見た瞬間、そんな考えは飛んでいった」


 彼は、私が弱いことを知っていたのだ。


「怒りを覚えたんだ。お前を心配していたのに、それなのに、俺は」


 ……そっか。


「……身勝手だな」


 身勝手なのは、私だ。

 あなたのために、あなたの幸せを願って、なんて。馬鹿か私は。いつだって眩くて、強くて、ひどいくらいに優しいこの男は。

 ――きっと、私みたいなちっぽけな存在では、救えない。


「俺は避けられているのに、アイツがお前に触れたから。なんて、言い訳にもならない」


 もう一度だけ軽く頭を撫でて、手が離れていった。


「寝ていてくれ、イヴリン。……起きたらまた、避けるのなら。このままでいてくれ。触れることを、側にいることを、赦してくれ」


 ……私が本当に寝てるわけじゃないなんて知ってるくせに、馬鹿だなぁ。わたしも馬鹿だからちょうどいいか。馬鹿ばっかり。

 レオンは私みたいに頭が悪いわけではないのだから、もっと賢く生きていけるだろうにね。


「お前のためだけに、祈るから」


 あーあ。いい加減、話をしなきゃ、いけないのかな。

 したくないなぁ。できないのに、な。だけど、きっと、このままじゃ駄目だ。そんなことずっと分かってたのに、逃げてしまっていた。


 あんな約束、本当に。いや、本当は、忘れてくれてよかったのだ。私の記憶が悲しいだけのものなら、全部捨ててくれて構わなかったのに。幼かった頃の馬鹿げた理想さえ大事に抱えてくれるこのひとはきっと、何一つとして捨ててはくれない。


 いつか。

 いつかきっと、私のことがただの記憶になって。長い時の沢山あった物事の中に埋もれてしまって。痛みも哀しみも何もなく、ただの事実として語れる未来が来て。

 ……なんて、無理だよね。


(このまま全部なあなあにしていいわけがないのにさ)


 目を強く瞑る。瞼の裏にある深い闇に溶けていくように、また私は。


(このまま消えたら、また、傷つけるだけなんだから)


 何が一番正しいのか、もう、分からない。

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