かえりたかった


 アナスタシアという少女は、己の過去を意識的に忘却していた。その事実を私は誰よりもよく理解しているし、その理由もまた理由している。……結局、私は弱いだけだ。知ってるさ、そんなこと。

 しかし、名前をつけるなら悲劇に相違ないその過去は。――それでも確かに、私を形作るすべてだった。


 母のこと、使用人のこと、私を恐れ蔑み閉じ込めたすべて。ずいぶんと昔の記憶なのに、まだ色々と引きずっている自分が滑稽に思えて仕方ない。

 人の視線が怖いのは、私が異質だと突き付けられている気がするからで。自分が化け物だと思い出してしまうからで。ああでも、最初に私をそう呼んだのは、誰だったか。思い出せないな。いいや、思い出したくもない。

 ……それに。敬語は、元々誰の口調が移ったものだったっけ。封じ込めた何かが綻んでしまった過去の中、今も思い出せないままでいるたくさんのこと。全部殺すみたいに、笑みの下に閉じ込めた。




「それでですね、うっかり毒を飲んじゃって三日間意識を失ってたんですよー。あれは大変でした」


 デートはまだ続いていた。今は、ちょっとした思いつきのために花屋を覗いてきたところだ。小さな白い花束を胸に抱えながら、談笑を続ける。ニコラスの浮かべている笑みは、最初のときよりも若干柔らかく見えた。


「軽い調子で言うことではないよね? そして僕に対しての警戒心はどこに消えたの?」

「あはは、なんかもういいかなって」


 軽く笑い、視線を街並みに向ける。夕方。赤く染まる街。帰り道。話し声。


 この国はきっと、犠牲の名なんてとっくに忘れてしまったのだ。それでいいよ。そうなるしかなかったの。アナスタシアという名前の英雄は、英雄としてしか生きる理由を見いだせなかった。生きていい理由が、見つけられなかった。

 ゆえに、これが正解、大団円。ほら拍手ー。この国は恒久の平和を手に入れた。踏み躙った地面の下にある祈りの亡骸なんてもう見えないのだから。日常を謳歌し、平和を享受し、幸福を食い潰せ。


「君はさ、ちぐはぐだね」


 沈みかけた思考を振り払い、ニコラスの顔を見上げる。お綺麗な顔をしているな、とだけ思った。女の子の夢を集めたみたいな、甘くて綺麗な顔。

 ちぐはぐ、か。


「ちぐはぐ、ですか」


 私に向けられる言葉としては初だな。しかし嬉しくもなんともない。首を捻り、こちらを見下ろす甘い色の瞳を見つめる。


「うん、君は……普通の人間よりも賢しいけれど、賢くはない。優しいけれど慈悲深くはない。なにより、人の感情に敏感だけど、鈍感だ」

「確かに、ちぐはぐですね」


 軽く笑い、肯定する。しかし、ほぼ初対面の相手に対してこの言い草。いっそ惚れ惚れするわ。


「話していると、ね。その違和感がよく分かる。感情の揺れ動き方が人間らしくなくて――いや。むしろ、そこが人間じみてるのかな」

「人の心を勝手に読まないでください」

「読めないから安心して」


 いや、読もうとするなよ。じっとりとした視線で見上げるも、彼は気にした様子一つなく立ち上がった。


「どうかしたんですか?」

「もう、夕方だ。そろそろ君を連れ出したことが気づかれる」


 気づかれるのは駄目なのか。その理由がいまいち理解できないが、この男にとってはそうなのだろう。まあ、私としても、ヴィルさんに黙って出てきたことが今更ながら気になるし。


「帰ろうか、イヴリン」


 当然のように手を握られて、フードの下で顔を歪める。不愉快とかじゃなくて、ただ単に女慣れしている感じが気に食わなかっただけだ。なんとなく、アナスタシアだった頃、そういう男を見かけた記憶があるような気がする。……本当にそんなことがあったのか、なんて記憶は曖昧になっているけれど。

 軽く嘆息し、手を握り返す。しっかし、帰る……。帰る、かぁ。何も間違ってないのに何かがおかしい気がするのはなぜだろう。……感情の問題か。


「……私の名前、呼べたんですね」

「呼ばれたくなかった?」

「いえ、どちらでも」

「つれないなぁ」


 名前なんて、十個目だしね。ベンチから私も立ち上がり、さて帰ろうかと一歩踏み出した。


 瞬間。


「――イヴリン」


 風が、吹いた。目を見開き、声の主を凝視する。深い深い青が、静かに、しかし苛烈な何かを灯してこちらを見ていた。

 ひゅ、と嫌に高い音がして、自分の呼吸が引きつっている事実に気がつく。それほどまでに動揺したのだ。

 レオンハルト。と、声に出さずに唇だけで呼びかける。どうして。どうしてここに。どうして、今。混乱して何を言うべきなのか、どうするべきなのかが分からない。でも、ただ一つだけ。


(……この状況は、駄目だ)


 そんな気がしてならない。レオンが一歩前に進み、地面を踏み躙る音がやけに大きく耳に届いた。


「どうして、こんなところにいるんだ?」


 穏やかな声。いつもと同じ平静な表情。なのに、寒気がした。レオンハルトは、多分、怒っている。理由も原因も全然分からないけれど、すごく怒っている。やだ……怖い……。

 縋り付くように手に力を込め――あ、そういえばニコラスと手を繋いでいたっけ。お願いだからなんか言って。この状況を打破して。無言で訴える。と、少ししてからニコラスは一歩前に出て、口を開いた。


「れ、レオンハルトは、……どうしてここにいるのかな?」


 勇気を出して問いかけることができたニコラスを称賛してあげたい。手も声もガッタガッタ震えてるけど大丈夫かな? 尋常じゃない手汗を感じながら、そっと手を離す。

 レオンの視線が、私とニコラスの手に注がれていたからである。視線めっちゃ痛い。


「オフィーリアに聞いた」

「そ、……そっかぁ」

「貴様らが話していたと、教えてくれたんだ」

「……そっかぁ」


 にっこり、と。レオンが輝くような笑顔を浮かべてみせた。嘘を吐いている顔、ではない。これは、自分の感情を覆い隠そうとしている顔だ。っていうか目が怖い。

 ニコラスはもう完全にレオンの醸し出す威圧感に負けている。すごく帰りたそうな顔。私も帰りたい。どっちかっていうと孤児院の方に。


「なあ、こちらからも聞いてよいだろうか」


 一歩。レオンがこちらに近づいてきた。深海の底のような青い瞳は、いつもよりもずっと昏い色をしている。


「なぜ、貴様は、ニコラスと共にいるんだ?」

「……あ、私ですか」

「貴様以外に誰がいる」


 ……しかし、一週間避けていたとは思えない空気感だ。引きつった頬を自覚しながら下手くそな笑みを作り、一歩下がる。


「――色々あって、ちょっと……色々と」

「ほお?」


 声が、冷たい。更に一段階温度が下がった気がする。

 こいつぁどうにもなんねーな。諦めるしかない。何を諦めるのかもよく分からないけれど、今のレオンは確実に様子がおかしいのだ。ここで殺されてもおかしくないような雰囲気だし。


「まあいい、帰るぞ」


 そんなふうに様子を伺っていたら、レオンに手を掴まれた。……レオンめ、力加減が若干できていないじゃないか。手首の痛みに顔をしかめ、ニコラスの方をちらっとだけ振り返る。

 ……僕を巻き込むな、みたいな顔をしていた。いやいや、大体お前のせいだろ。他人事みたいな雰囲気を醸し出すな。何だ、このデートをしていたとは思えない態度。

 ニコラスは役に立たない。ここは自分で切り抜けないと。とにかく、レオンが何に怒っているのか聞かなければ。


「レオンハルト、ちょっと、話を――」

「イヴリン、少し黙れ」


 わぁ、にべもない。思いの外強い調子で遮られ、少し鼻白む。

 あんまり強く引っ張られると、転びそうで怖いのだけれど。人間の脆弱さをあまり忘れないで。簡単に折れるから。骨とか。文句の一つでも言ってやろうと口を開く。


「レオ――っ」

「……黙ってくれ」


 瞬間、一際強く手を引かれた。ガクッとした浮遊感と、景色が切り替わる嫌な感覚。

 ――転ぶ。目を閉じ、衝撃に備え身を固くする。


「…………?」


 が、予想していた痛みは来なかった。恐る恐る目を開く。わぁ、目の前に黒い生地が。そして、私の墓の匂いと同じ甘さが鼻をくすぐった。あの、花の匂いだ。あるいは、レオンの匂い。

 抱き留められたのだ、と。気がついたのはその一瞬後。ほっと軽く息を吐く。流石にこんな往来で転びたくはない。転んだら、間違いなくフードが取れてしまうだろうし。


「ありがとう、ございます」

「……違う」


 何が違うんだ。ちょっと眉をひそめ、レオンの顔を見上げる。

 その時、風が吹いたのか勢いが良すぎたのかはわからないが、不意に視界が開けた。……開け、た?


 ……フード、が。

 頭から。落ち――!


「――っぁ」

「っ!」


 やだ。駄目。嫌。

 もう、いやだ。


「ぃ、や――!」


 さっきからの修羅場もどきのせいで、人の目は割りとこっちを向いている。だから、視線が。駄目だ、見られてしまった。髪が、目が、この黒が。暴かれた曝された見つかってしまった。

 レオンの手を振り解いて、フードを深く被り直す。どうしようどうしようどうしよう。思考はぐるぐると同じところだけを回っていて。吐き気が込み上げてきた。視界が歪む。


 顔を上げられない。動けない。化け物だと罵る声が。死ねばいいと蔑む声が。視線が。ああいや違う今は何も聞こえない。耳を塞いでいるから? でも、聴こえるはずだ聴こえるんだ。だって何度も何度も言われてきたことなんですから。


「……い、……?」

「ご、ごめんなさ、い」


 迷惑だ。生きているだけで迷惑だ。間違いだ。生まれてきた事が間違いだ。死ねばいい殺せばいいあんな化け物早く早く早く殺してしまえ。火を放て。塔ごと。燃やしてしまえ。あの悍ましい化け物を、その痕跡ごと。殺せと。

 そう、言ったのは、誰だったっけ。


「ちが、私、……ぃや」


 二人並んで歩けるのが嬉しいと。そう思ってくれていたのは、けっして自惚れじゃなかったよね。ああ、あの時は幸せだったなぁ。私は、民を狂気の王から開放した英雄で、化け物なんかではなくて。誰にも私を罵ることなんてできなくて。だから堂々と、髪も目も晒して外を出歩けた。幸福だったね。幸せだったよね。

 もうどこにも、そんな未来なんてないけどさ。


「もう、迷惑なんて、かけたくなかったのに」


 帰りたい。

 帰りたかった。

 ずっとずっと、帰りたかったのは。王宮の塔でも、孤児院の部屋でもなくて。……龍族が隠れ住んでいた、あの小さな村の、赤い屋根をした家だ。

 朝起きて、ヴィルさんと朝ご飯を食べて。レオンに会いに行って、一緒に本を読んだり下らない話をしたり。そしたら、たまにはヒューのところにも遊びに行こう。彼は村の外れに独りで住んでたけど、私のことを大切な友達だって思ってくれていたはずだもの。オフィーリア嬢も、たまには会いに来てくれるかな。


 ……なんて、帰れないか。知ってたよ。知ってるよ。捨てたのは私。捨てさせたのは私。都合のいいように未来を捻じ曲げたのは、私だ。


「……イヴリン」


 私が悪い。私だけが悪い。違う。私が頑張ったから救われたものもあったって。言ってくれた。聞いた。語り継がれるものはある。

 ……ああ、でも、それなら、なんで。


(まだ、この世界は、私のことを化け物だと断ずるの)


 悪いことなんて何もしていないのに、どうして。あのとき、私みたいな悲しい思いをする人が居なくなればいいと思った。嘘じゃない。本当に、そんな世界になってほしいって願ったはずなのに。叶わない。祈りは届かない。願いは。

 たった一つの細やかな願いさえ、世界は叶えてくれない。


「イヴリン」


 どうして、私だけが、赦されないんだ。


「しっかりしろ、おい、……なあ」


 痛いのは嫌だ。

 怖い思いはしたくない。

 罵られるのも、本当は、辛いんだよ。


 全部嘘だ。嘘にさせて。辛くなんてないんだと笑っていられるように。私はひどく弱いから、強いふりだけさせてよ。


「俺が悪かった、だから、こっちを見てくれ!」


 かつん。

 音がした。視線をゆっくりと地面に向ける。拳大の石ころが転がっていた。


「――っ」


 息を呑む音は多分、私の喉からしたのだろう。脳裏に映像が過る。ああ。……以前。石を投げつけてきた子供がいた。頭に大きな傷ができた。血が目に入って、ずっとずっとじくじく痛む頭を押さえて蹲っている私を見て、笑う子供が。

 なんて、ここにはいない。いない。いないよ。


「イヴリン」


 頭を押さえる。おかしいな。今は痛くないはずなのに。痛い。……きっと、ただの頭痛だ。だから大丈夫、平気、問題なんてない。いつも通り。


「イヴリン」


 痛いのも、苦しいのも、ひどい言葉も。慣れたんだ。人は慣れる生き物だから。いつもそうだったんだもの。慣れたよ。もう、いつものことだって笑えるはずなんだ。そうじゃないと駄目なんだ。


(わたし、ばかだから)


 それ以外のやり方が、分からない。


「――アナ」


 視界が闇に覆われる。慣れた、少し低い体温が。包み込むように私を抱き締めてくれた。は、と息を吐いてようやく呼吸の仕方を思い出す。ずっと震えていたことにも、ようやく気がつけた。それだけのことだった。


「ごめん、少し……眠っていてくれ」


 音が遠くなる。声が霞んでいく。私を抱き締めるその腕が震えているような気がして、その震えを止めたかったのに。

 ――私の意識は、急に、闇へと沈んでいった。

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