無駄だった


 生まれてこなければよかった、と。そう囁く声を覚えている。怨嗟でも呪詛でもない、単純に事実だけを述べたようなその声。今でも私の心の一番深いところに居座っているそれは、母の声だった。


 生まれてこなければ、よかったの。あなたなんて。私の名前さえも呼んでくれないその人に、それでも愛されたいと願っていた頃もあった。昔の話だ。昔も昔。私としては思い出したくもないような、嫌な過去だ。夢にも見たくないような過去。

 首を絞める手の白さも。息が苦しくなって世界が狭まっていく、今の私がよく知る『死』の感触も。琥珀色の瞳がほんの少しの哀しみを溶かして揺れたのを、私がどうにかして慰めたいと思ったのも。

 ――腹立たしいことに、忘れられないままでいる。記憶の奥底に閉じ込めて、封じ込めて、なかったことにしても。覚えている。


 あなたを母と呼びたかった。姉を、弟を、家族を家族と呼びたかった。幼い私の最初の願いなんて、そんな細やかなものでしかなかったのに。


 英雄にも。王様にも。本当は、なりたくなかったよ。でもさ、私がやるしかなかったの。私以外の誰も、この国を『どうにか』しようとはしなかった。人を殺したくなんてなかったし、人を導くなんて柄じゃないし、英雄なんて呼ばれるのも気味が悪かった。

 化け物って呼んだくせに。死ねばいいって罵ったくせに。都合がいいことだって。本音なんてそんなものでしかないし。

 でも、頑張った。頑張ったよ。私、ちゃんとできた。出来損ないでも。生まれてこなければよかった子でも。ちゃんと、誰かのために。


「――アナスタシア・エヴェリナ・ダフネ」


 ああでも。私みたいなのが頑張っても、やっぱり……無駄だったかな。


「あなたは、贖わなければならなかった」


 本当は、さ。分かっていたんだよ。皆幸せになれるような頭お花畑な未来なんてあり得ないって。まだ幼い私でも分かっていた。だから、一つ一つ。着実に。自分にできることを。

 ――私、馬鹿だからさ。それくらいしかできなかった。もっと賢かったら。もっと強かったら。もっと、もっと。頑張れたんじゃないかなぁ。誰かに押し付けたり、しないで。この国を。


「あなたは、償わなければならなかった」


 馬鹿げた人生だった。私は幸福だったけれど、その幸福のためにどれだけのものを踏みにじってきたのか。分からぬはずがない。だのに、私は無知なふりをして誤魔化した。


 私は、贖わなければならなかったのに。


「忘れているはずが、ないでしょう。その罪を」


 ――お母様を殺した罪を、贖わなければならなかったのに。


「アナスタシアは、……私は、忘れてはいけない」


 あの白い肌が赤く染まるのを。あの琥珀色の瞳が暗く淀んでいくのを。私は見ていた。朦朧とする意識の中、彼女の命が潰えるのを見て、安堵した自分を多分一生許せはしない。

 愛していた。愛している。何度も呪詛のように繰り返された言葉が鎖のように重くて、生まれてこなければよかったなんて言葉は心の奥底に沈殿して。


 黒い髪と黒い目の、膿んだ瞳をした子供が、闇の中から私を見上げていた。アナスタシアだ。五歳の、あの頃の。アナスタシアが。……私が、恨むような目で私を見つめて、無機質に嗤った。


「わたしは、ばけものだ」


 無知で愚かな子供の手で、あの人を殺したのだと。私は忘れてはいけなかったのに。




「――ゆ、め?」


 うたた寝をしてしまっていたらしく、空はもうとっくに暗くなっていた。鈍く痛む頭を押さえながら、身体を起こす。……もう、このまま寝てしまっていいかな。なんて怠惰な考えが頭を掠めた。


「いやなゆめ」


 ぼんやりと霞む思考のまま、呟く。嫌な夢。今朝もそうだったけど、最近夢見が悪いなぁ。……精神が不安定になっているのかもしれない。原因が分かりきっているだけに、どうしようもないな。と、溜め息を吐いた。


(昔のことと向き合えって深層心理? それとも、単なる情緒不安定?)


 考えても分からないか。ちょっとだけ空を見上げて、大きく欠けた月を眺める。夜の孤独を癒やすのが月の役目だと、あの人はなぜ私に言い聞かせたのだろう。ふ、と疑問に思って、でも答えが出るはずないことが胸に突き刺さった。

 あの人を、家族と呼びたかったのは、嘘じゃない。


 は、と軽く息を吐いて、目を閉じる。このまま眠ってしまおう。また嫌な夢を見る気がするけど……きっと、それはそれで必要なことなんだとも思う。

 そんな矢先、扉を控えめにノックする音が耳に入った。


「……起きて、いるか」


(――は?)


 声を漏らさなかったことを誰か褒めてほしい。そのくらい呆気にとられたし、訳が分からなかった。なんで、レオンが私の部屋まで来るんだ。いや、なんか昨夜も来てたけど。昨夜と今夜では状況が違う。

 私しかいない部屋が緊張で満ちる。身じろぎ一つできないまま、私はただ扉を凝視した。それしかできなかった。


「寝ているのか。それならそれでいい」


 起きている、と。昨夜の言葉が、今夜は言えない。何を言えばいいのか分からない。ただ、私のそんな混乱なんてどうでもよさそうに、レオンはただ勝手に言葉を続ける。

 ……変わらないなぁ。


「イヴリン、お前は、龍鱗花のもう一つの花言葉を知らなかったな」


 うん、知らなかった。アナスタシアだった頃も、聞いた覚えがない。


「アナ、にもな。照れくさくて教えられなかったんだ」


 ……そう。それで、アナスタシアは知らなかったの。


「お前が聞いていないときにしか言わない俺を、卑怯だと責めてくれてもいい」


 それはこっちの台詞。何も言わずに起きてる私を、卑怯だと罵ってくれても構わない。


「あの花の花言葉、はな」


 うん。


「――生まれ変わってもあなたを愛する、だ」


 それを聞いた瞬間、なんだかちょっと泣きたくなった。レオンが、海みたいに優しくて深い声でそれを伝えてくれたからかもしれない。泣きたくなんてないから、枕に顔を押し付ける。


 ああ、なんだ。そうか。……そっかぁ。

 だから私、あの花が好きだったのかな。


「だからさ、お前が知らなくても、忘れてても、……本当はどうだったとしても。俺はどうでもいいよ」


 扉が小さく揺れた。私の肩も小さく揺れる。なんか、こう……私にとって非常に都合の悪いことを言われているような気がしてならないのですが。いかがなさったので?


「あのとき、引き留められなかった分。今度はちゃんと引き留めるから」


 その声は小さかったのに、嫌に大きく耳に届いた。


「――愛しているよ、お前を。たとえ、何もかもが変わってしまっても」


 来る時には聞こえなかった足音が遠ざかっていく。それを聞きながら、私は枕を抱き締めた。


(なんて、え? レオンは今なんて言った!? 愛している? わた……え、私とアナスタシアの魂が同一ってそこまではっきり確信されてたの!?)


 衝撃の発言を投下され、頭が冴えてしまった。……今夜はもう眠れそうにない。

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