見たくなかった


「月が昇るのは」


 これは、誰の声だろう。言い聞かせるような、宥めるような、穏やかな声は。だけれども、どこか虚ろで――何かが欠けているように思えてならないこの声は。

 優しいのに、何もない。なんとなく、乾いた泉を思い出した。


「夜が、寂しくないように」


 耳に流れ込んでくるそれが、女性の声だと。そこで初めて認識した。閉ざしていた目を開くが、閉じていたのと変わらないくらいに辺りは暗い。何度も瞬きをするが、視界は闇に覆われたまま変化しない。

 声がどこから聞こえてくるのかも分からなくて、少し恐怖を覚えた。子供みたいに、夜の闇に震えるなんて。そんなの、ないと思っていたのに。


「――月が、ない夜は」


 不意に、頬に。頬に、冷たい手が触れた。その瞬間、なぜかその手がひどく恐ろしく悍ましく感じられてしまい、逃げ出したくなる。いや、実際に逃げようとした。なのに、動けない。逃げられない。

 ああ、だって。足に枷がついている。逃さないというように、鎖がじゃらりと鳴った。いっそ暴れようにも、恐怖で竦んだ体は私の思い通りになってくれない。

 ……恐怖? これは、恐怖だけだったっけ。もっと、深くて。歪で。どうしようもない、なにかがあったんじゃ。


(いや、だ)


 思い出したくない。そう思うのに、かつてここにあった現実を。あるいは、記憶を突きつけるように、月明かりが差し込んでくる。それでようやく、今が夜だったことと、ここが幽閉用の塔だったことに気がついた。


「夜が孤独を思い出す」


 声の主と、目があった。そう感じた。おかしいでしょ。だって、真っ黒なインクで塗り潰されてるみたいに顔がみえないのに。目があったと思うなんて。

 思い出したく、ないのに。月明かりがこの牢獄を照らす。血に濡れた壁、錆びた鎖、埃だらけのベッド。――それだけしかないここを。私が五歳まで閉じ込められていたこの場所を。


「――だから、早くお眠りなさい」


 まるで、母親のように。そう囁いた女は。銀色の髪の、琥珀の瞳の、美しかったはずの女は。なんの色も浮かんでいない瞳をゆるりと細めて、無機質な笑みを浮かべる。そして。


 頬に触れた手を滑らせ、私の首を絞めた。


「眠ってしまえば、もう、寂しくないはずだもの。ね?」


 いっそ慈悲深くさえ聞こえる、無機質な声が耳元から流れ込んで。息が。声が。


「……愛しているのよ、本当に」





「――っひ、ぃ……!」


 悲鳴のなり損ないみたいな音がした。全身がじっとりと濡れている。心臓の音が耳元でうるさく鳴り響いている。こめかみが、ひどく痛い。心臓の付近をぎゅっと握りしめ、うずくまる。そこでようやく、さっきの音が自分の悲鳴だったと気がついた。

 ああもう。悪夢を見て飛び起きるなんて、子供じゃあるまいし。苦笑して、服を着替えようとボタンに手を伸ばす。……手が震えていて、うまく外せなかった。夢の中の恐怖が、まだ、心臓の裏側に居座っているような心地だ。


(嫌な夢、だったなぁ)


 ただの夢だ。そう自分に言い聞かせるけれど、うまくいかない。あの恐怖が。悍ましさが。――得体の知れない感情が。現実のものだったと知っているから。

 あれは、確かに。私が五歳の頃、記憶も曖昧な昔。現実にあったことだ。忘れていたはずなのに、何で急に思い出したんだろう。嫌なことは忘れとこうよ。やだ、私の脳みそが謀反を起こしてくる……。辛い。


「……月が昇るのは」


 ずっと昔に聞いたお伽噺。夜の女神は孤独だったのだ、と語る声は夢の中のものと同じだった。月が昇るのは夜が寂しくないように。月は、夜のために昇るものだと。


(ねえ、お母様)


 この話を言い聞かせたのは、紛れもなくアナスタシアの母だった。……『母親』? は、と掠れた吐息が零れる。結局、私はあの人に名前を呼んでもらったことさえないのに。何が母だ。何がお母様だ。

 お母様と呼んだことさえ、ないくせに。


(あー駄目だ。完全に目が覚めた)


 空は、まだ薄ぼんやりとした色をしている。朝日が昇り始めた程度の時間帯だろう。なんて健康的。孤児院にいた頃だって朝日と共に目覚めるなんてしてなかったのに。

 乱れた髪を掻き、首を横に振った。寝不足が原因だろう目眩が襲ってきて。世界が眩む。歪む。滲む。


「っふ、ふふ。ぁははは。――ああくそ」


 らしくもなく、罵声を吐いた。大丈夫だと自分に言い聞かせる。だってほら、笑い飛ばせるの。嗤えるの。こんなのは昔の、終わった話だと理解しているでしょ? だから。だから!


(私のせいで)


 考えるな。


(あの人の心は死んでしまった)


 思い出すな。


(私が生まれてこなければ、何も、狂わなくて)


 龍族の皆が――家族が否定してくれたこと。皆と暮らす日々が優しくて忘れていたこと。アナスタシアが死んで、思い出しかけたこと。人の目の冷たさと私が異質でしかない現実と、ああ。


(私なんて、生まれてこなければよかっ――)


 はっ、といつの間にか詰めていた息を吐いた。そして、呻くように声を出す。


「違う」


 目を強く閉じた。今だけは意識的に、思考を切り捨てるように。

 だって、私は知っているはずだ。私じゃないとできなかったことがある。私が頑張ったことで救われたものが確かにある。だから、私はただそこにあるだけの罪悪なんかじゃない。強いだけの強さは、罪じゃないと。私が言った。私が彼に言った。

 寝間着のボタンに指をかける。今度は、もう、手は震えていなかった。



 逃げていった眠気を追いかけるよりも、時間を有効に使うことにしよう。そう判断して、昨日ヒューと議論した内容を反芻する。


(結局、私の魔力を消費し続けるのは極めて難しいってことしか……なぁ)


 ヒューは悪くない。魔力という一点においてのみは優秀な男であるから、その彼に思い浮かばないのなら他の誰にも無理だろう。龍族で次に魔力や魔術に詳しいのは……レオン? 差が激しすぎる。まあいいや。

 とりあえず。明日からは魔力量の測定と、一定値を超えた段階での術の作動の二つを組み込んだ魔道具の制作をすることになった。ここに私の関与する余地はほぼない。えっと、ないよね? ヒューが自分でできるよね?


 まあ、とにかくだ。しょうがないから、私は一人で魔力の放出方法を考えなければならなくなった。ヒューが忙しいからね。あと、イヴ嬢に思い浮かばないというのに僕に分かるはずないでしょう。とか言われてしまったし。だから私は片田舎の孤児だって。期待しすぎでしょ……怖い……。


「……はぁ」


 重い溜め息を吐き、のそのそと着替える。この朝早くに起きても何もすることがない感じ、あれだ。龍族の村にいた頃と同じだ……。つまり、龍族と関わると私のやることが減っていく……?


 とんでもない事実に震えながら、着慣れているワンピースに袖を通した。昨日みたいなお高い服はちょっと精神に悪いし、このくらいが私にはちょうどいい。アナスタシアだったころはもっと高い服を毎日着てたとかそんな馬鹿な。毎日ドレスで過ごしていた日々はあんまり思い出したくない。

 それは、過去が思い出したくないほど悲しいものだった――とかでは全然なく。ただ単に今との生活の格差に少しだけ、遠い目をしたくなるから。それだけである。お金はない。地位もない。更に言えば友達もいない。……だけれども、不思議なことに。


「今、結構幸せなんですよねぇ」


 困ったことに。本当に、全くもって困ったことに、私はそう思っている。ヴィルさんと前みたいに話せることも、レオンが笑っている顔を見られたのも。ここに来てから、ずっと止まっていた時間が動き出したみたいで。

 ちょっと困るくらい、幸せだ。


(いいのかなぁ、……なんて、駄目だよね)


 不幸になるべきだった。地獄に落ちるべきだった。そんなこと分かっているのに、この日々が長く続くことを願う自分のあさましさが嫌になる。嘆息し、鏡台に顔を向ける。

 鏡に映る私は、笑ってるみたいな怒ってるみたいな、……変な顔をしていた。

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