なれなかった
「……もう、動いて大丈夫なのね」
ヒューとあまり実りのない議論を交わした帰りのことだ。階段を登りきった先の扉を開けた瞬間、待ち構えていたようにオフィーリア嬢が声をかけてきた。
私がこの扉を使うと知っていたのだろう。なんで待っていたのだろうか、なんて考えつつ笑顔で頷く。
「はい、もう元気です」
「そう。……よかったわ」
空の色をした瞳が、安堵で緩んだ。ああ、綺麗な人だ、と不意に思う。感情的なところも、素直だと言い換えれば魅力だし。顔立ちも品があって美しい。私が男だったら彼女に惚れていたことだろう。
「あの、ヴィルフリート様を見かけませんでしたか? この時間なら来ておると思ったのですが」
しかし、ヴィルさんはどうしたのか。問いかけながら軽く周囲を見てみるが、彼の姿は見当たらない。
視線を戻すと、オフィーリア嬢は少し嫌そうに手を振りながら。
「……あの男は、急用で出かけたわ。このわたくしが代わりに迎えに来て差し上げたのよ、光栄に思いなさい」
そう答えてくれた。……急用ってなんだろう。朝、私が彼と離れたくないと言ってあんなに嬉しそうだったのにすぐに離れるところ、流石ヴィルさんだなって思う。
「あらら、そうでしたか。これはお手数をおかけしまして、申し訳ございません」
騎士を辞めてから何をしているのか、そういえばちゃんと聞いてないな。そんなことを考えつつ頭を下げると、慌てたような気配がした。
「頭を上げなさい! わ、わたくしはあなたと話すのは嫌いではないし、迎えだってこちらから申し出たのだから気にすることはないのよ!」
「はい、ありがとうございます」
いやぁ、可愛い人だなぁ。さっきの評価を翻し、へらりと笑いかける。オフィーリア嬢は、私の笑顔を見て少し驚いたように目を瞠った。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、いや……。気のせい、よね。なんでもないわ」
本当にどうしたのだろう。今の私と彼女はほとんど他人だが、かつて友だった記憶はある。分かりやすく動揺されてしまうと、少しだけ……どうしたらいいのか分からなくなったり。
黙り込んでしまった彼女を見ながら、少し考える。もしかしたらバレてしまったのかな、なんて……いやもうバレてもいいんだけど。向こうが気づいてしまったならもう気にしないけど。そうじゃない気がした。
「オフィーリア様」
声をかけ、手を握る。得体の知れない人間ごときに触れられたくはないだろうが、そこは堪えてもらおう。本気で嫌だったらオフィーリア嬢は振り払うだろうし。
「私、あなたと友達になれたらいいなって思うんです」
もう一度、あなたと。そう内心で付け加え、微笑みを浮かべる。真っ直ぐに彼女の瞳を見つめると、私の黒を捉えた空色が、小さく揺らいだ。
「……どうして?」
彼女の口から零れた問いかけは、らしくなく小さく震えていた。私はちょっとだけ首を捻る。嫌だとか、そういう負の感情ではなく。なんだか、不安のほうが大きそうな声だったから。
「理由なんてありませんよ。強いて言うなら、ほら、あなたが話しかけてきてくれたから」
私がアナスタシアだった頃も、今も。彼女は陰口をたたくのではなく、ちゃんと真正面から私に文句を言ってきてくれる。その真っ直ぐさに敬意を払いたい。
あなたと友達になりたい。
「嬉しかったんですよ、結構」
照れ笑いながら、手を握る力を強くする。オフィーリア嬢は、何度か深く呼吸をして――不格好な笑みを浮かべた。
「人間は、すぐに、死ぬのよ」
そうだね、特に私はすぐに死ぬ。
「友達になっても、すぐに……いなくなるくせに」
そうだね、あなたと友達になったアナスタシアは、すぐにいなくなってしまった。
「――いやよ。あなたと、友達になんて、なりたくない」
ふ、と笑う。彼女は笑みを浮かべていたのに、なぜか泣いているように見えたのだ。だから、なんだか可笑しく思えてしまった。
「そうですか、じゃあ、しょうがないですね」
手を離す。龍族にとって、二百年は短いものだということを思い出した。アナスタシアが付けた傷は、彼女の中でまだ疼いているのだろう。馬鹿なことを言ってしまった。軽く後悔して、一歩踏み出す。
「ごめん、なさいね」
「いいえ、私こそ……変なことを言ってしまってごめんなさい」
笑え。こんなこと、どうってことないんだから。私よりもずっと傷ついたような顔を見上げ、口角を上げる。
「……そうですよね、龍族と私では、時間の流れが違いすぎる」
たとえ、私が人間として十分長生きできても。彼等にとってその人生は瞬き程度の時間でしかない。そうだったと、思い出してしまった。
もう、私が彼等の側にいていい理由なんてどこにもなかったと。
「わたくしは、……っ」
私に向かって、何かを言おうとして――オフィーリア嬢は、堪えるように口を噤んだ。それに、ただ苦笑する。
「気にしないでください。……いえ、そう。こんなこと、忘れてくださって結構です」
調子に乗っていた私が悪いのだ。なんだか、自分が昔にかえったような気分だったから。何もかもが上手くいくような錯覚が、妄想が、驕りがあった。反省しろ、イヴリン。
「イヴリン、わたくしは……あなたのことが嫌いな訳じゃないの」
「存じております」
オフィーリア嬢が私を嫌っていないことなんて、態度からよく分かっている。それでも、私と友達になるのは嫌だって。怖いって。そういうことでしょ。分かってるよ。
だから、泣きそうに歪んだ水色を真っ直ぐに見つめ、届くように口を開く。
「……喪うと分かっているのに大切なものを増やすなんて、恐ろしいに決まっていますから」
とん、と踵を鳴らした。流石、王宮。床に使われている石も音の反響からして高級だと分かる。いや、私が住んでた頃と同じ材質なんだけどね。あの頃の私にそんなところを考える余裕なんてなかったし。
「だから、ごめんなさい。私はきっと、オフィーリア様にひどいことを言いました」
すぐにいなくなる友達なんて、いらないに決まってる。押し付けがましいにも程があるわ、まったく……嫌になる。
「……ああ、もう! そうやって何度も謝るのはやめなさい!」
自省していたら、叱り飛ばされた。思わず瞬く。オフィーリア嬢は、傷ついたような顔をしながら――でも、いつものように張りのある声を出す。
「あなたはわたくしと友達になりたいと言った、わたくしはそれを断った! それだけのことでしょう、それで終わりでいいじゃない。……それに、悪いのは、弱い私よ」
……強い、人だ。眩しくて目を細めた。その表情を見て、彼女はふんと胸を反らす。
「なによ、なにか文句がある?」
「いえ、……いえ。私が男だったら今頃求婚しているなーと思いまして」
茶化すと、オフィーリア嬢は顔を真っ赤にさせて固まった。ああ、そういえば。彼女は気が強いせいで褒められなれてないんだったか。知ってたけど。
「――な、なにを、馬鹿なことをいって……っ!」
可愛い、人だなぁ。頬を緩ませながらも、彼女が私から少し距離をとっていたことには、気がついていた。開いてしまった一歩分の距離が、そのまま今の私と彼女との距離だけれど。それでいいかな、とも思う。うん、そう。まあいいや。
いつの間にか、部屋の前についていたので、もういいよと伝えようとして。
「……お前はなぜオフィーリアを口説いているんだ、イヴリン」
――想定外に、声をかけられた。振り返ると、訝しむように眉を寄せたレオンが立っている。……私、別に口説いてなんかないんですけどね。
「――っ! あ、え、えぇと……。え? レオンハルト様!?」
反論しようとしたところで、オフィーリア嬢が奇声をあげた。分かる分かる。龍族の最高権力者が急に声を掛けてきたらそんな反応するよね。どちらかというと、私が冷静すぎた。
でも、今更動揺する気にもなれないし。結局、普通に微笑んで挨拶をすることにした。
「こんにちは、レオンハルト様」
一礼して顔を上げる、極めて不機嫌そうな顔が目に入った。さっきは普通だったのに、この一瞬で何があったというのか。
「……おい」
「はい」
「貴様、もしや鳥か何かだったのか」
……直訳すると、『この鳥頭め!』みたいな感じかな。どうして急に罵られなければならないのだろう。首を捻る。
「本気で私が鳥に見えるというのなら、レオンハルト様はとても愉快な視力をしていらっしゃいますね」
「貴様の記憶力もなかなかに愉快だがな」
少しカチンときたので嫌味で返すと、レオンも同様に返してくる。オフィーリア嬢が顔を青くさせたのが分かった。この数分で寿命が縮んでしまったんじゃないだろうか。大半が私のせいながら、可哀想になってくる。オフィーリア嬢ってば、龍族の割に倫理観がまともだから……。
「我が昨日言ったことを忘れたか」
「だからちゃんと名前で呼びましたよ」
「は? 様をつけるなと言っただろ馬鹿か」
人前で呼び捨てにしろと……? 一瞬顔を歪めたが、慌てて取り繕う。そうだった、この男に人目を気にするなんていう繊細な心遣いができるはずがなかった。そして、まるでこっちが間違っているみたいに。
いつもそう、だったなぁ。結局、最後に折れるのは、私の方で。
「……えっと、え? イヴリン、あなた、え?」
ああ、オフィーリア嬢が混乱の極みにいる。まあそうか。昨日よりも距離がえげつないくらい縮まってるからね。でも、私は悪くないです。全部レオンのせいです。
心の中で誰にともなく言い訳をして、オフィーリア嬢の方を振り向く。
「きっと」
彼女はきっと、怒るだろう。いつかみたいに、私に向かって剣を振るったように。私の浅慮を断罪するのだろう。けれど。
私は、その揺らぐ水色を真っ直ぐに見つめ、いつものように笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ、繰り返しませんから」
あるいは、自分自身に言い聞かせるように。しばしの静寂。
「………………はぁー」
私の覚悟を籠めた一言を、盛大な溜め息で返されてしまった。オフィーリア嬢が溜め息を吐くなんて珍しい。
なぜか、重い重い溜め息のあと、彼女はどこかすっきりした顔になる。
「そんな気は、してたわ」
……オフィーリア嬢の心が強くて優しくてしなやかで、なんかもう胸が苦しい。こんな優しい人を傷つけておいて知らん顔してる自分が、ド外道に思えてくる。
「えっと、ごめんなさい」
「あなたの謝罪は軽いから、いらないわ」
軽くいなされてしまった。しかし、その表情はどこか晴れやかな呆れ顔で。私のよく知っている強い意志のこもった水色が、そのままの流れでレオンの方を向く。こうして見ると、オフィーリア嬢は私よりずっと背が高いんだな。なんて、今更なことに気がついた。
「――レオンハルト様」
「なんだ」
私とオフィーリア嬢の会話が終わるのを待っていてくれたのか、壁にもたれていたレオンがこちらを向く。そういうさりげない優しさは発揮できるのに、どうして名前を呼ぶことに対する配慮はできないのだろう。激しく疑問だ。
「……わたくしには、それがいいことだとは思えませんわ」
言い捨てて、オフィーリア嬢は歩き去っていった。彼女がレオンを否定するとは珍しいこともあるものだ。レオンを見上げると、妙なものを見るような目でオフィーリア嬢の背を見ている。
「貴様、オフィーリアと仲がいいのだな」
一体どこからその感想が出たんだ。
「振られちゃいましたけどね」
肩をすくめ、苦笑した。彼の視線がこちらを向く。オフィーリア嬢の瞳の水色よりもずっとずっと深い青の真ん中、私の黒が映り込んだ。
「……それで、何か用でも?」
「いや、用はない。姿を見かけたから、なんとなくな」
そんな気はしていた。ふぅん、と軽く流し、扉のノブに手をかける。
「では、もういいですね」
だったらもう部屋に戻っていいかな。今日のほぼほぼ無駄だった議論について考えたいし。
素っ気ない私に向かい、レオンは口を開く。今度は、どこか躊躇うように。
「……俺は、基本的に、いつも昨日と同じ時間に散歩をしている」
「左様で」
「気が向いたらでいい、覚えておけ」
言いたいことは言い切ったというように、レオンが背を向けた。その後ろ姿を見て、なんとなく。……本当に、なんとなくだけれど。彼の名前を呼びたくなった。
「……レオンハルト、あなたが望むなら、忘れませんよ」
あ、駄目だ。なんか恥ずかしい。顔が赤くなる。レオンが振り返ろうとしたので、それより早く部屋の中に入り扉を閉めた。
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