聞かなきゃよかった


 明かりがないと視界が一切利かなくなってきた時間帯になり、すっかり胃腸も落ち着いた。ついでにあの分厚い資料も読み終わった。疲れ目だろうか、霞む視界を擦りながら、目的もなく部屋から出てみる。

 結局、休んでいる間に少し寝てしまったせいで、普段は眠る時間なのに目が冴えてしまったのだ。なんだこの……孤児院にいた頃からは考えられないこの不摂生感。


(龍族の皆は早寝早起きだから、うるさくしたら怒られるかな)


 もっとも、ヴィルさんやヒュー、今日話したオフィーリアとレオン以外には声をかけられさえしないのだが。陰口たたくくらいなら正面から悪口を言ってほしいとも思わなくもない。……いややっぱりいいやこれ以上バレたくない。


 考えるともなしに頭を回しながら、懐かしい王宮を適当に歩き回る。ところどころに置かれた花は誰の趣味だろうか、壁に飾られている絵画はいつのものなのか。視界に入るすべてのものが月の光と仄かな光源に照らされて、昼間とはまるで違う顔をしている。

 ふらふらと人気のない廊下を彷徨っていると、昔に戻ったような気分にさえなってきた。アナスタシアだった頃も、よく深夜徘徊をしていたし。

 いや、さぁ。こう……ほら。昼間は忙しくて仕方がないのに、やることがなくなると不意に不安になってしようがなかったから。瞼を閉じても、得体の知れない不安、恐怖が足元から這い上がってきて……眠れなかった時はいつも夜の城を歩いていた。

 夜は、落ち着く。私の髪の色が闇に紛れるから。あるいは溶けて、解けて、沈んで。このまま消えてしまいたいような、……消えてしまえるような。静かな気持ちで、半分の月を見上げた。

 青白く夜を照らすそれを見て、ふと、誰かの声が脳裏に響く。言い聞かせるような、宥めるような、穏やかな声だった。


「月が昇るのは、夜を孤独にしないため」


 呟く。なんとなく思い出したその言葉に、自分でも訳が分からなくて首を傾げた。いや、本当に聞き覚えがないんですけど……。なんで急に頭に浮かんだの? 怖いわ。


「――詩人だな」


 一人恐れおののいていると、背後から声がかけられた。月から視線を外して振り向く。


「龍王陛下」


 なんでこんな時間に、こんなところに。私の疑問が分かったのか、レオンは苦笑して近付いてきた。……軽く、苦いような香りが鼻孔をくすぐる。煙草、かなぁ。あまり好きな匂いではない。


「我が夜に歩いていたら悪いか」

「龍族の方は、夜に出歩く習慣がないと聞き及んでおりましたので」


 当然のように横に並んでこられたので、ちょっと考えてからまた歩き出すことにした。レオンは私の横から離れず、同じように歩き出す。一緒に散歩しようってことか、なるほど。さっさと寝なさい。寝て。明日も早いでしょ。


「ああ、普通はそうだな」


 曖昧に首肯して、レオンは少し懐かしむように目を細めた。その深い青の先には、きっと、戻ることのない過去がある。


「だが、我は……夜が好きなんだ」

「変わってますねぇ」


 だんだん態度がぞんざいになってきた私を不快に思う様子もなく、レオンは視線を私に戻した。


「ああ、そうだな」


 その一言が思いのほか優しい響きで、私はちょっと固まってしまう。再会したあの時の膿んだ雰囲気が薄れてきたせいで、どうにも彼の一挙一動に心が騒ぎ出すのだ。もう、二百年なのに。


「龍王陛下は」


 ――まだ、私のことを待っているの。聞きたくなって、でも、聞いてはいけないから呑み込んだ。中途半端に言葉を途切れさせた私を訝しむように、レオンは少し眉を寄せる。


「なんだ」

「どうして、今、私に話しかけてきたんですか」


 代わりに口にしたのは、まったく別の疑問だった。まあ、こっちも不思議には思っていたから。夜の徘徊なんて、一人きりだからこそ楽しいのに。どうして、私を見つけても……声をかけたのか。

 レオンは、少し目を瞠った。想定外の疑問だったから。というか――彼自身、どうして私に声をかけたのか分かっていないのかもしれない。


「……さぁな。我にも分からぬ」


 意識の表層ではない奥深くで私だと察しているとか、そういう怖い話ではないよね。一瞬考えた不穏を打ち消すように首を小さく横に振り、かかとを鳴らして立ち止まる。彼の青と、私の黒が、真っ直ぐにぶつかった。夏の夜の湿った風が、彼の男にしては長い髪を揺らす。

 一瞬だけ、世界がまるで二人きりになったような錯覚があった。ふ、と軽く息を吐き、目を伏せる。そんな、都合のいい世界なんて。有り得ないのに。


「そうですか」


 結局、適当な相槌で流すことにして再び歩き出した。藪を突いて妙なものを出したくなかったのもある。しかしどこを歩こう。……いや、どうせなら。と、頭に浮かんだ場所に向かおうと思って。


「そういえば、私って報酬とか貰えるんですか?」


 ヴィルさんと話したことを急に思い出した。いや、アナスタシアの墓に行こうかなって思ったんですよ。そしたら、花を買えなかったことを思い出してさ。それにしても会話の流れ急に変わりすぎでしょ……私は馬鹿かもしれない。


「は? ああ、そうか。その話か。……きちんとヴィルフリートから聞いている。安心しろ、報酬は元から支払う予定だった」

「それはありがたいです」


 これで、ほぼ無一文状態からは近く脱出できそうだ。わぁい。にっこり笑って礼を言うと、レオンは不機嫌そうに眉を上げる。


「そんなに、金が必要か」

「まあ、ないと死にますしね」


 ヴィルさんに着替えを買ってもらうのはもうしょうがないとして、お礼とかお詫びは必要だし。いや、よく考えると、そこまで多くは必要ないかもしれない。ご飯は食べさせてもらえるし、お風呂や住む場所もある。服くらいじゃん……。

 あまりなくても死なない気がしてきたのはさて置き、レオンの反応が過敏すぎることが気になってちょっと彼の顔を覗き込んだ。そして、その少し冷たい表情を見上げ。


「――人間が、お嫌いですか?」


 軽い調子を心掛けて、そっと問いかけてみた。彼は私の問いかけを聞き、少しだけ愉快そうに口元を歪めてみせる。波のたたない青の目だけは冷たいまま。


「何をもって、その疑問を抱いた?」

「なんとなくです」


 質問を適当にいなし、彼の答えを待つ。レオンは考えるように視線を巡らせ――その一瞬だけ、レオンは瞳をひどく昏くした。光の届かない深海の底のように。


「……そうだな。別に、好きでも嫌いでもない」


 なるほど、と。彼の声の冷たさに少し背を凍らせながら、普通の顔を作って頷いた。


「アナの願いを忘れ、富や名誉を得ることに腐心する者共は皆死ねばいいとは思うが、それ以外はどうでもいいな。アナ以外の人間に興味はない」


 やっだぁ。私ってば愛されてる。この愛の重さは龍族特有の身内びいきだけどさ。さらっと言われた私以外の人間への無関心はさて置き、やっぱりアナスタシアのこと盛大に引き摺ってますね。

 ……アナスタシアの願いっつっても、権力者のせいでそれ以外が不幸にならなければいいな、くらいだったけどね。あと、他の国と渡り合える軍力が必要だったとか。うわぁ、皆私の願いを過大評価しすぎぃ……。


「アナとの約束があるから、この国のものには幸福でいてもらわなければ困るがな」

「それは、……ずいぶんと献身的なことで」


 笑いながら呟くと、レオンは少し気分を害したように眉を跳ね上げた。だろうな。とは思ったが。次の瞬間、なぜかすぐに苦笑を零した。なんだなんだ。壊れたか?


「……貴様のことは、少し気に入ったが」

「趣味が悪いですね?」


 一体どういう心境の変化なのか分からず、思ったままを口にする。……どこに、気に入る要素があったというのやら。少なくとも、私はこんなに無礼な女と王様だったころに話したら、平手打ちの一つくらいはくれてやると思う。


「なぜだろうな。貴様の思ったことをすぐ口にするところは……アナを思い出す」


 そりゃ本人ですからね。とはいえ、そこは気付かれないようにしておきたい。複雑な乙女心を隠し、反論する。


「……なら、余計に気に入るはずがないと思うんですけど」

「いや、まあ……普通はそうだろうが。貴様は、もしかしたら」


 もしかしたら? 聞き返そうとして、その深い青が見たこともない感情に染まっていることに気がついてしまい、口を閉ざした。


「――いや。止めておこう。どうせまだ時間はある」


 彼もまた言葉を呑み込んだようだ。彼は、片目だけを緩く細めて口元を軽く歪めた、変な表情を作る。彼なりの笑顔だった。胸が締め付けられるような感覚に、そっと胸を押さえる。楽しそうで何よりだよ、なんて思うのに。

 

「……龍王陛下は」


 泣きたくなる。本当は分かっていたんだ。私がアナスタシアだということを、伝えるべきだなんてこと。でも、だって、私は弱いから。親の顔も知らないような下賤な貧民が、彼の隣に立てる理由なんてもうないことを知っているから。

 言えない。言いたくない。気づかないで。そう願う理由がどこまでも身勝手な保身だと、自分でもよく分かっていた。

 目的に設定していた場所に辿り着き、扉に手をかける。そのまま開き、彼の方向を見ずに問うた。


「どうして、約束を守り続けているんですか」


 ざり、と。草一本生えていない地面を踏みにじる。アナスタシアの墓標の前で、私は静かに問いかけた。


「人間は忘れますよ。アナスタシアの祈りも、願いも、今の平和がどのようにして育まれたのかも。忘れて、あなた方の献身を当たり前のものと享受して、身に余る力に溺れ。いつかきっと、この国を自ら滅ぼす日が訪れます。なのに、どうして」


 花の匂いがした。私が好きだった白い花の、甘い匂いが。ああ、あの花の花言葉は何だったっけ。そんなことも思い出せなくなってきた。そうして、昔の記憶が薄れていくごとに。……アナスタシアが死ぬごとに、気がついたのだ。

 あの約束に、この国に、そんな価値なんてないなんて。今更。


「俺が」


 『俺』という、ひどく懐かしい一人称に顔を歪める。レオンの瞳はきっと、アナスタシアがいた頃の過去を見ているのだろう。彼は遠くを見るように目を細め、呟いた。


「約束を守らないと、アナが消えてしまう」

「え?」

「約束をしたんだ。この国を、理不尽な暴力や悲劇に晒されることのない理想郷にすると。皆が幸せで、平和で、優しい国にすると」


 そんなこと言ったっけ。全力で思考を回し、記憶を辿る。決闘の前後では、国の守護と監視くらいしか条件に出さなかったよね。うん、出さなかった。強いて言うなら、村から出て人間の国に行くこと? あれは前提だっけか。

 じゃあ、この約束は、一体――。



『わたしね、わたしみたいにきずつくひとがいなくなったらいいなって思うんですよ』


 あ。言った。私は確かに、彼が約束と呼ぶそれを口にした記憶がぼんやりとある。でも、待って。


『りそうきょう……。うん、そうですね。そんなかんじです! わたしは、みんながしあわせで、やさしくて、へいわなくにがいいです』


 これ、言ったの。……決闘の時じゃない。もっと前だ。私がまだ子供だった頃。レオンのことをレオンハルトと呼んでいた頃。彼が、まだ、私と視線を合わせなかった頃。

 下らない夢を、子供特有の理想を詰め込んだ未来を。私は彼に語ったのだ。彼が、私に聞いたから。彼が初めて、わたしとちゃんと会話してくれたから。嬉しくて、たくさんたくさん話したの。


『だって。そしたらわたしはきっと、かぞくをかぞくってよべるようになると、おもうんです』


 レオンは、馬鹿にするように鼻で笑ったけれど。覚えていたのか。まだ、今も。私でさえ忘れていたその夢を、本気で叶えようとしてくれていたのか。約束なんかに縛られて。



「俺が、アイツの理想を叶え続けたら、喜んでくれるはずなんだ。やっぱりレオンはすごいですね、なんていつもの馬鹿みたいな笑顔を浮かべてさ」


 彼は墓標に手を置いた。その表情は、影になっていて見えない。

 私は内心で後悔していた。これは、衝動に身を任せて聞いていいことじゃなかった気がする。その証拠に、レオンの声はまるで――深い穴の底から響いてくるように重くて、息が苦しい。


「魂はきっと、この世界を巡るから。それならいつか、また逢えるはずだ。俺はそれまで約束を守り続ける。アナが望んだ未来がここにあるのなら、それが永遠でも構わない」


 引き摺っているとは思っていたけれど、思いの外引き摺り方が尋常じゃなかった。内心で慌てふためいていると、レオンが顔を私に向ける。その顔には嘘を吐くときの、綺麗な笑顔が浮かんでいて。私は何も言えなくな――。


「だから、貴様の問には是としか答えようがない。そもそも、質問の意図が分からん。何だ貴様、我が人間のことなど気にするとでも思ったか」


 やっぱり偉そうだなこの男!! さっきまでの後悔や感傷がどこかへ行き、代わりに理不尽な苛立ちが込み上げてくる。


「あー、申し訳ございません。そうですよね。英雄王様との約束ですもんね、矮小な人間ごときの感情がどうだろうが関係ないですよね!」


 私は馬鹿だった。イヴリンの言葉がそんな意味を持つはずもないのに、なんでこんなに真面目に質問したんだ。あー、やめやめ。もういいや。


「なぜ怒っているんだ、貴様は」

「怒ってません」


 私の墓の周りには、たくさんの花が供えられている。それだけではなくて、植えられているものもあることに気が付いた。私が好きだった花。龍族の村に咲いていた、花。


「龍王陛下のお話をたくさん聞くことができましたので、この夜は出会えてよかったと思っています」


 白い花。名前のない、花は。


「……レオンハルト」


 墓を眺めていると、なんだか急に名乗ってこられた。ちょっと首を捻って彼の方を見る。なんでそっちが不機嫌になってるんだ。理不尽か。


「龍王陛下のお名前ですね。存じ上げております」

「呼べ」

「は?」


 何言ってんだこの龍王。その感情が表に出ていたのか、彼はますます眉間の皺を深くさせた。


「龍王陛下だと、長いだろ」

「いえそんなことはないですけど」

「長いんだよ。それに、俺は人間にとっての王ではない。敬うな」


 レオンってば、さっきからちょくちょく口調が戻ってるな。あと、最後の言い分は結構理不尽だ。この国で龍族がどんな存在になってるのか知ってるはずなのに。

 ……まあ、いいか。いつもの思考停止を繰り広げ、後に起こるだろう諸問題からそっと目を逸らした。


「…………レオンハルト様?」

「レオンハルトでいい」

「レオンハルト」


 そう呼ぶと、レオンハルトは満足そうに目元を緩めた。その顔が見れたなら、まあ、もういいかな。そう考えて私も笑った。


「じゃあ、私はもう寝ますね。おやすみなさい」

「……おやすみ、イヴリン」


 好きだなぁ。と、どうにもならない本音を心の隅に追いやって、レオンに手を降った。

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