吐きたくなかった


「……貴様は、この国をどう思う?」


 私が吐露した事実には触れず、レオンは次の質問を重ねてきた。私がらしくもなく真面目に語ったのにこの反応、レオンらしいや。思考を切り替えて苦笑する。

 多分、本当に聞きたかったのはこちらだろう。さっきのは、……個人的興味がなにかかな。


「いい国ですよ。私みたいな孤児も飢えずに生きていけて、誰にも平等に学ぶ機会がある。豊かで、平和で、……いい国です」


 誰かさんの理想みたいに綺麗な国だ。そう思う。まあ、こんな国にしてくれって言ったのは私なんだけれど、こう。

 、寒気がする。私が直接的に望んだのは、他国から侵略されないように国を守ることと権力が暴走しないための監視役だけだったのに。子供のように語った理想を、レオンハルトというやたら律儀な男はすべて叶えようとしている。それは、まるで、そうしないといけないと思いこんでいるみたいに。


「虐げられているというのに、そう思えるのか?」


 変なことを言うものだ。私は少し眉をひそめた。


「さっき言いましたよね、憎んでないって。憎くないということは、どうでもいいってことですよ」


 いや、まあ。他から見ればそう思えるはずがないと思われるだろうことは分かるけれど。あれ? 今ちゃんと共通語になってた? 

 まあいいや。なんかこう……ねえ。私が暴走したら皆死んでしまうなんてこと、私を迫害した人達も分かっていたはずだ。だから、もう二度と誰かを犠牲にしたくない私は、耐え忍ぶことを選んだ。

 人を殺すのは、いい気分ではない。その相手がどれだけの悪人でも、どれだけの憎悪を持っていても――吐き気がした。暴虐王と呼ばれていた男の無残な亡骸を前に、空っぽになってもまだ胃液を吐いて。自分がもう二度と無邪気に未来を信じていた頃に戻れないと、絶望した。

 帰れないなら前に進むしかない。そんなたくさんの諦念と、後悔と、絶望が私を英雄王にした。……昔の話だ。今となっては、ただのお伽話。どうでもいい、語られなかった、昔話。


「怯えていたのは、向こうですよ。怖いから怖くないと思うために迫害した。言ってしまえば、お化けがいないことの証明のために肝試しをする子供みたいなものでしょう」


 だから、客観的事実としてこの国はいいところだと思います。横道に逸れまくっていた話を強制的に引き戻し、締め括る。レオンは、灰色の壁の前にいる極彩色のカメレオンを見るような目で私を見ていた。はっはーん。さてはドン引きされたな?

 アナスタシアの頃から倫理観も性格もほとんど変わっていない自覚があるだけに、レオンにそんな目で見られると少し悲しくなる。


「貴様は、……変だな」

「個性的って言ってください」


 思わず零れたようなその言葉に、反射的に文句をいう。と、彼は片側の眉を引き上げて、口元を歪めた。


「……褒めているんだ、喜べ」

「どこが? どうやって!?」 


 あ、この感じ。私がアナスタシアだった頃と同じだ。ちょっと懐かしさに視界が滲みそう。

 私と同じことを思ったのかもしれない。レオンも少し目を瞠っている。気づかれたくないのに、こういうとき嬉しく思う自分が嫌だなぁ。浅ましいなぁ、とか思うけれど。レオンはきっと気が付かないから、これくらい許されてもいいんじゃないかな、なんて。


「……しかし、そうか。貴様にとって、この国は、いい国か」

「はい、紛れもなく」


 少なくとも、アナスタシアが願った未来はこの国が叶えてくれている。だから、レオンがこんなにも悩む必要はないのに。そう伝えることのできない自分がもどかしい。


「いい話が聞けた、礼を言おう」


 すっと軽く頭を下げて、いつの間にか空になっていた皿を持ってレオンは立ち去っていった。レオンがお礼を言えるなんて……! レオンも失礼だが、私も私でレオンに失礼な気がしてきた。





「……で、お前はそれだけで足りるのか?」


 途中から話に入ることなく、空気と同化していたヴィルさんがそんなことを言い出した。それ、と指し示された先には食べ終わった朝食の入っていた皿がある。というか、私が話した事実には一切触れないんですね? まあいいか。その方が都合もいいし。

 空になったそれを見て、胃の部分を押さえて、へらりと笑う。なんだか嫌に重いというか、気持ち悪いというか。


「足りるどころか、食べすぎで気分が悪くなってきました」


 話すのに夢中になっていて自分の胃の容量を忘れていた。食べながら喋るの慣れてないから……。これは言い逃れのできないど阿呆。


「――はァ?」


 おっと柄が悪い。猫被って猫。ジェスチャーで伝えると、二割増で悪くなっていた人相がちょっとマシになった。とにかくさっさと部屋に戻りたい。吐くか吐かないかというか、最早どこで吐くのかみたいになっている。人がご飯食べてるところで吐くのはただのテロだからね? やめよ?


「……吐くので、部屋に、戻りたいです」

「てめぇほんっとうに阿呆だろ……!」


 小声で怒鳴るという高等技術を惜しげもなく使い、ヴィルさんは私を抱き上げようとした。待って俵担ぎは止めて。揺れてヴィルさんに向かって吐くよりも一人で歩いて吐いたほうが被害は少ない。


「歩きます歩けますから人に向かって吐くという汚名を私に被せたくなかったらと言うかヴィルさんが吐瀉物に塗れたくなかったら降ろすほうが無難なんじゃないかなって」

「いいから黙って抱えられてろ! というか本当は元気だろお前」

「喋ってる方が気が紛れるんですよ! ……ゔっ」


 込み上げてくる酸っぱいなにかを堪えながら言い争う。流石に食堂で吐くのは龍族と人間の間に絶望的な隔絶を作る気がするのでさっさと逃げたい。


「――ちょっと、そこの人間」


 無駄な口論を繰り広げていた私に、聞き覚えのあるようなないような微妙な感じの涼やかな声が掛けられた。取り繕うこともできず胡乱にそちらを見る。黒に限りなく近い藍色の髪を一つまとめにした気の強そうな女性が、親の敵を見るような目で私を睨みつけていた。


「……なん、ですか?」

「今の陛下への態度は一体どういうことなの?」


 ヴィルさんが苛立ったように小さく舌打ちを零した。結局横抱きにされた身体に振動が伝わり、嘔吐感が増していく。吐く吐く。腕を叩いたら、少し力がこめられたのがわかった。うぅんそうじゃない。


「陛下がお優しいのをいいことに、人間があの方に馴れ馴れしくしないでいただけるかしら」

「……それは、申し訳ないです。次から、気をつけるので……、今はちょっと」


 吐きそうで何も考えられない。なんか視界も滲んできた。片手で口元を押さえ、私を抱えている腕に縋り付く。


「また、あとで、ききますから」

「――そう言って、人間はすぐに約束を破るじゃない!!」


 ええぇ……。悲鳴じみた叫びに、一瞬吐き気も忘れて呆けてしまった。それと同時に、懐かしい――ひどく古い記憶が蘇る。


『レオンハルト様が許したからといって、そんな馴れ馴れしい呼び方をしないで! 今彼に一番近いのはわたくしなのよ!?』


 この人アレだ。レオンのことが好きでことあるごとに私に突っ掛かってきていた、……オフィーリア嬢だ! 前よりも大人っぽくなってたから分からなかったけど表情と声に面影がある。

 でも、なんで、こんなに。


「おい、オフィーリア嬢」

「なによ、赤い死神」

「その呼び方は止めてくれ……」


 頭がぐるぐるしてきた。もう、口の中には嫌な味が広がっている。食べ過ぎって辛いんだなぁ、って。初めて知った。知りたくなかったわ。


「……この人間は、今、体調が悪いんだ。下手にちょっかいかけて死なせたくなかったら、大人しく話は後にしてくれ」

「――へ? え。いや、やだちょっと本当に顔色が悪いじゃない……! 早く医者に見せに行きなさいよ!」

「いや、お前が引き止めてきたんだがな!?」


 話す余裕もなくなってきた上に人の会話を聞く余裕もない私を、ヴィルさんが横抱きにしたまま動き始める。オフィーリア嬢の声は聞こえなくなっていた。なんか説得できたのかな。なら良かった。


「……とりあえず、吐いたほうが楽になるか?」


 伺うような問いに、首肯で返す。そうか、と軽い返事があって。


「もう食堂からは出たから、吐いて大丈夫だ」


 でも部屋じゃない。ここで吐いたらヴィルさんの服に。そんな言葉も言えないのに、言いたいことが分かっているように背中に手を当てられた。吐くのを促すように、ゆっくりと、熱くて大きい手が背中を撫で――っ。


「ぅ、ゔゔぅ……っぉえ……っ」


 淑女が人前で上げちゃいけない類の音だこれ……。サンドイッチと野菜の残骸と胃液が真っ黒な彼の服に飛び散るのを見ながら、涙目で後悔する。オフィーリア嬢がいなかったら、ヴィルさんの服に向かって吐くなんてことせずにすんだのに。


「……ずみまぜん」

「あー、気にすんな。まあ、服と身体は洗っとくか。お前の分も」


 服とマントで完全に受けとめて貰ったらしく、地面には少しも垂れていない。それはよかったが……いやよくないけど。どんだけ優しかったら人の吐瀉物受け止められるの? 私には無理。


「ゔぅ……。ヴィルさんにこんな迷惑かけるつもりなんてなかったんですよ……」

「知ってる知ってる」


 申し訳なさと情けなさで顔を伏せていると、迷いのない足取りが浴場の方に向かう。なぜか、会話をしている声が楽しげな気がして、ちらりと彼の顔を伺ってみる。


「……なんで笑ってるんですか」

「いや、お前に縋り付かれるのは気分がいいな、と」

「自分に向かって吐かれてるのに、ですか」

「お前のなら別に気にしねぇよ」


 無条件の許しの言葉に、ただ目を閉じた。


「マント、と服。ごめんなさい」

「服もマントも汚れるためにあるんだ、気にすんな」


 流石に人の吐瀉物で汚れるためにあるわけではないだろうに……。優しすぎて、苦しい。胃の不調は、中身を全部出したことで収まったのに。胸のあたりには、新しい不快感が居座っている。


「――服の、替え。私の分、……部屋です」

「分かった、持ってくる」

「……はい、ありがとうございます」


 何も。彼の優しさに、私は何も返せなかったのに。同じようにまた、食い潰すだけで生きていくつもりかと。

 そんな、罵倒を脳内で吐き捨て。――口元だけで笑った。

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