変わりたくなかった


 悪鬼羅刹も裸足で逃げ出すような形相で、彼は私に顔を近付けてきた。子供なら泣くだろうし、大人でも泣く。私が私じゃなかったら恐怖で逃げ出してたと思う。


「で、だ。どういうことだよ。おいこのド阿呆が」


 言い逃れは許さないと言わんばかりの迫力で、ヴィルさんはそう切り出した。ヒューの研究室から出たすぐそこで待っていたことにもびっくりしたけれど、そのまま手を掴んでそこらの部屋に放り込んで鍵を締めて防音の結界を張ったことにはもう驚きを通り過ぎて感心したね。

 扉を背に立ったまま、ほど近い距離で黙っていると、手に力が込められる。折れる折れる。というかこの態度チンピラかよ。


「い、え。いえいえいえ。何を仰っているのかちょっと解りかねますねヴィルフリート様」

「あ"あぁん!?」


 あーこれは誤魔化せませんねぇ。往生際も悪く言い逃れをしようとしていた私は、勢いよく白旗を上げた。


「……ごめんなさい、実は私にはアナスタシアだった頃の記憶がありまして。ちょっと人生十回目だったり?」


 てへ。と、軽く聞こえるように白状する。瞬間、彼は顔を盛大に歪めた。ひぇえ。ヴィルさんは態度や顔や口調に似合わず割と優しさの塊みたいな人だから、急に殴ったりはしてこないだろうけど。迫力がすごい。怖い。

 はぁあー、と。盛大に溜息を吐く音がして、手を引かれる。拳骨くらいはされるかなぁ。やだなぁ。ヴィルさん手加減下手だから。


「へ?」


 想像していた痛みはなく、ただ温度だけを感じた。

 ああ、抱き締められているのか。そう分かったのは、背に回された手が痛いほどだったから。首筋に当たる吐息が泣きそうに濡れていたから。

 ずっと昔に手放したはずの、熱いくらいの体温が、私の身体を包んでいる。目元がひどく熱くなった。……でも、泣けない。唇を噛み締めて、目を閉じた。


「アナなんだな……!!」


 そんな、感極まったような声を聞き、身体の強張りを解く。震える彼の身体を抱き締めるには小さすぎる腕を、恐る恐る、その背に伸ばした。


「え、っと。ヴィルさん?」

「てめぇは本当に、馬鹿だな」

「ヴィルさんは私のことを罵りすぎじゃないですか……?」

「本当のことだろうが」


 感動の再会なんて私と彼には似合わないけれど。少しずつ、長い隔たりを壊すように、彼は言葉を紡いでいく。


「ずっと、探してたんだ」

「私を?」

「……ばっかみてぇだろ。アナが死んだって分かっているはずなのに、心がついていかなかったんだ」


 自嘲の色を隠さない声に、思わず抱き締める力を強くした。いや、どちらかというとしがみつくの方が近いかもしれない。私とヴィルさんの体格には、それくらいの差がある。


「似たような背格好の娘を見る度に、アナなんじゃないかって思って面影を探した。ずっと、ずっと、百九十五年。俺はお前のことを探し続けていたんだ」

「あ、はは。そんなに愛されてたなんて、知りませんでした」

「ああ、愛してたんだよ。家族みたいにな」


 その言葉が。私にとってどれだけの奇跡なのか、彼は知らないだろう。それでいい。それでいいのに。

 この体温が懐かしくて。与えられる言葉が嬉しくて。まるで、そう。アナスタシアだった頃の自分が救われたような気分になった。


「……わたし、本当はね、怖かったんです」

「何がだ」

「アナスタシアだって、認められないんじゃないかって」

「ばぁか」


 ひどく優しい響きの罵倒だった。痛いくらいだった腕が緩められる。


「何も変わってねぇよ、お前は」

「見た目、とか。声とか。身分とか……変わりましたよ」

「でも、中身はアナのままだ」


 そうかなぁ。


「俺の目を真っ直ぐに見るところも。本当に大切なもの以外なにが傷つけられても頓着しないところも。無鉄砲で身の程知らずなところも、ド阿呆なのも」

「さてはあまり褒めてませんね?」


 もしかしたら。ふ、と軽く息を吐く。久しぶりにちゃんと呼吸ができたような気がして、なんだか胸が苦しくなった。

 私はずっと、認められたかったのかもしれない。アナスタシアだったことを踏まえて。ちゃんと、私は私として生きていると。誰かに言ってほしかったのかもしれない。


「……お前はお前だよ、アナ」


 その一言を。馬鹿みたいにずっと、望んでいたのかもしれない。


「ヴィルさ……っ」

「だから、一つ残らず教えてくれるよなぁ?」


 ちょっとらしくもなく感動していたら、不穏な声色に現実に引き戻された。思わず体を離そうとするが、やたら強い力に引き戻された。わぁい。これは不味い気がする。


「アナスタシアが死んでから、どうして、何も教えてくれなかったのか」

「え、えへへ……」

「なぜ、俺にも隠そうとしたのか。今までどうやって生きてきたのか。十回目ってどういうことか」


 背に回っていた腕が離れる。これ幸いにと逃げ出そうとしたが――腕を掴まれて阻止された。だよね。分かってた。

 伺うように笑みを浮かべて、彼の顔を見上げる。ヴィルさんは笑っていた。それはもう輝かしいくらいに綺麗な笑顔を浮かべていた。これは多分怒ってますね。

 怯えている私の耳元に口を寄せ、背筋が凍るほど低いくせに甘ったるい声が囁いた。


「――教えてくれるよなぁ、可愛い可愛い俺のアナ」

「ひ、一つ残らず詳らかにすることを誓います!!」


 なお、私とヴィルさんの力関係は、アナスタシアだった頃からこんな感じだ。





「そもそも、私だってヴィルさんに会おうとはしたんですよ?」


 引きずり込まれた部屋はヴィルさんの自室だったらしい。シンプルイズベストみたいな、機能美と言ったら聞こえが良すぎるか。最低限生活に必要な物しか置いていない部屋には一つしかないソファーに二人並んで座り、出されたお菓子に口をつけながら呟く。

 龍族に伝わっている、魔力回復効果のある果実を砂糖に漬けたものだ。私が好きだったのを覚えていた、んだろうなぁ。ヴィルさんは甘いものが好きだったわけじゃないから。私のためか。照れる。頬が緩む。


「えっと、百八十年前? くらいですかね。私が学園に通っていた頃なのでそれくらい前かな。ちょうど王都に来ていたので、ここまで来て会いたいって伝えたんですよ」


 魔力を持っている子供なら無償で学園に通うことができるようになったのが、ちょうどアナスタシアの次の人生のときだった。例のごとく途方もない魔力を持っていた私は、迷うことなく決断して――親のない子供に対する世間の冷たさにちょっとまいってしまった。

 まあ、それ以降一度も会おうとしなかったのは事実だけれど。私だって、ヴィルさんやレオンハルトに会いたかったのだ。会って、話したかった。だけれども。


「……門番が。龍族は、今や王族よりも貴い存在なのだから、お前のような金も親もない薄汚い下賤の者が会えるはずないだろうって」


 それを聞いた瞬間、見えないけれど確かな壁ができていたことに気がついた。自分はもうアナスタシアではないと。お前はもう英雄王ではないと。突きつけられたのだ。アナスタシアは死人だと。私はその亡霊ですらないと。

 だから、逃げ出した。龍族の皆がアナスタシアをどれだけ大切に思ってくれていたか。愛していてくれたのか。知っているのに分かっているのに、……だからこそ! 私は、自分がもう『そう』じゃないことを彼等にさえ言われてしまったらと、怖くなったから。


 まあ、弱いだけだ。向き合えないだけの弱さを、ここまで引きずってきただけのこと。


「へぇ?」


 と、私が懐かしい記憶に浸っていると、それを打ち砕く冷たい声が落とされた。ヴィルさんの声だ。たったのニ文字なのに、人の心臓を止めそうなくらいには冷たい。


「それ、言った奴って誰だ? ああいや、名前なんか分かんねぇよな。特徴……いや、いつのことだったかだけでも教えてくれるか?」

「え、ぇえ? ちょっとヴィルさんってば怒ってます?」

「怒ってねぇよ。ただ、ちょぉぉっと、この世界の間違いを正しにな?」


 ヴィルさんが訳の分からないことを言い出した。どういうことなの……。


「百八十年前のことですよ? もう死んでるに決まってるじゃないですか」

「ちっ。……ああそうか、わりぃな、そりゃそうだよなぁ」


 舌打ちしたよこの人柄わっる。今更取り繕うように笑みを浮かべたヴィルさんに苦笑しつつ、砂糖漬けをもう一つ口に入れる。喋りながら食べるのは行儀が悪いけれど、ことヴィルさん相手のときには気にしなくていいだろう。


「その後は、なんかこう……。さもありなんって思いまして、じゃあ関わらずに生きていくかなーってふらふらしてたら百八十年経ちました」


 話を締め括る。実際、あのあとは大して事件もなく生きて死んでを繰り返してきた。捨てられて拾われて偶に虐待されて稀に愛されてよく迫害されて、まあそんなもんだよなって思いながらぼんやりと。


「てめぇはそういうところだよ……!!」


 考えを巡らせていると、ヴィルさんがそんなふうに吐き捨てた。そういうってどういう。眉をひそめた。


「そこで諦めるからてめぇはアナなんだよ!」


 この国を救った英雄王の名前を罵倒として用いるとは、中々に斬新なお方だ。なんとなく感心して、それからちょっと首を捻る。


「諦めた、わけではないです。……怖くなったんですよ」


 結局そこに戻るのだ。アナスタシアだと認められないことへの恐怖が、私の足を縫い止めた。前に進むことも戻ることもできなくなり、私はただ淡々と生きて生きて死に続けることに決めたのだ。贖罪のように。


「まあ、ヴィルさんにそんな繊細な乙女心を理解しろとは言わないので安心してください!」

「はぁあ!? 乙女? 誰が!」

「私以外の誰がいるんですか?」

「どっちかっつーと乙女じゃなくて覇王だろ……」

「は? この可憐な顔が見えないんですか? どこが覇王だっていうんです?」

「可憐なのは顔だけだろーがよ」


 あれ? 今、顔は可憐だって認められた?

 思わず口を噤むと、ヴィルさんは気勢を削がれたかのように口を閉じた。妙な沈黙が流れる。いや、だって、ほら。顔を褒められたのは初めてだし。別に見るに耐えない顔じゃないとは思ってたけど。えっと、え?


「――は、はは。はははっ」


 混乱していると、急にヴィルさんが笑いだした。ちょっと更に混乱させるのやめてよ、と、文句を言おうと思って。……目を疑った。

 ヴィルさんは、泣いていた。笑いながら。心底愉快そうに、体をくの字にして笑い声を上げ、そのまま涙を流していた。


「くっそ、嬉しいなぁ。こんな会話、二度と、できないって」


 諦めてたんだ。ポツリと落とされた声は、彼らしくもなく掠れていた。私は、呆然とその光景を見つめている。だって、ヴィルさんが泣くところなんて、初めて見たの。

 大人は泣かないって、思い込んでいただけなのかもしれない。レオンハルトは私の隣を歩いてくれたけれど、ヴィルさんは私の手を引いてくれたから。その顔をちゃんと見たことは、なかったのかもしれない。なんだか私まで泣きたい気分だ。


「アナ。……なあ、俺の可愛いアナ」


 顔は見えない。でも、表情は手に取るように分かった。分かってしまった。今ここだけ、時間が昔に戻ったみたいに。


「陛下には、どうするつもりだ?」


 そして、普通の態度で私の一番痛いところをついてくるのも変わらない。私が固まったのが分かったのか、ヴィルさんは深い溜め息を吐いた。


「えっと、……今はまだ向き合いたくないなー、なんて」

「言っておくが、陛下はまだ引き摺ってるぞ。俺よりも盛大に」

「知ってますよ見ましたもん!」


 でも、あと九ヶ月で死ぬ前提でレオンと話すのは御免被りたい。また私が死んだら泣くじゃん。ヴィルさんにバレたのはもう不可抗力としても、ヒューに気付かれたのもまあいいとしても、レオンだけには。

 否定されたら、私が壊れそうだし。私がまた死んだら、レオンが壊れる。そんな確信がある。嫌な確信だ。


「……まあ、アナの好きにしろ」

「……え?」

「俺はそもそも、あの糞ガキは好きじゃねぇ」


 陛下ー、背信! 謀反! 今日はレオンがよく裏切られる日だなぁ。頬を引き攣らせながら、ヴィルさんの言葉を待つ。


「俺よりもアナに好かれてる辺り、腹立たしいしな。……黙っといてやるよ」

「ヴィルさんありがとうございます大好きです!」

「おう、薄っぺらい大好きをありがとうな」


 誰よりも強力な理解者を得られたことで、浮足立った私はそのままの勢いでヴィルさんに抱き着いた。おっと、と軽い声と共に片手で抱き止められて、体幹の強さに慄く。そんなところも好き。大好きな私の……家族だ。呼べないし呼ばないけれど。私にとって、ヴィルさんは、父親そのものなのだ。しかもそこには理想の、と枕詞がつく。


「……これで、短命の治療方法探しに集中できますね」

「よかったな。……ったく。俺の養い子は二百年たっても変わんねぇなぁ」


 抱き止めたのと逆の腕で私の頭を撫でて、ヴィルさんは独りごちた。よかった。お怒りは収まったらしい。私を詰問する気分でもなくなったようだ。よしよし、しめしめ。


「人間、そう簡単に変わりませんよ!」


 満面の笑顔で、腕に力を入れた。

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