会いたくなかった
今日は疲れているだろうから王宮内で好きに過ごしていいって、警備ザルかよ。むしろザルの方が引っかかるところがある分マシかもしれない、じゃあワクか。そんな言葉を飲み込んだ夏の夕焼け。
まあ、分かるよ? 脆弱な人間ごときが龍族に何をできるんだって話だもんね。でもそういう問題じゃない。問題はそこではない。私からは言えないけどさぁ……!
「……はぁ」
溜め息を吐き、思考を切り替える。龍族が人間ごときを警戒するはずがないなんてこと、もう二百年は前から知っているのだ。今更どうこうする必要も理由も義務もない。
ヒューから聞いたのだが、王宮は二つあるらしい。おいどういうことだよと心の中で叫んだのはついさっきのこと。一続きの土地の中に、元あった宮殿とわりかし新しいものの二種類があるらしい。人間の王族が住んでいるのが、新しい方。約束に基づいて住んでいる龍族は、古い宮殿に。私が住んでいた城に。
私は古い宮殿の方に滞在が決まり、今見て回っているのだけれど、少しだけ問題がある。いや、問題というか……こう、なんというか。
視線がさ、痛いんだよね。
黒髪黒目の人の子が滞在するようになる、というのは龍族に周知されていたらしく。私が宮殿内を歩くだけでまあ見られること見られること。悪意はないが好意的でもないやっぱりちょっと悪意がありそうな。言わば異物に向けるような視線。誰も声をかけてこない歪な緊張感に、精神が蝕まれている自覚がはっきりとある。
だって、アナスタシアは彼等の家族だったのに。そう考えた自分をちょっとぶっ殺したい。そういう弱音は駄目でしょ。口にしなくても、考えてはいけないことだ。もう、私と彼等はただの他人なんだか、ら。
「……少し、弱ったなぁ」
呟いて、真っ白に磨き上げられた人抱えほどある大きさの石を見下ろす。墓だ。人間の作るものに近いような少し違和感があるようなそれは、――アナスタシアの、墓碑だ。
ヒューが、どうせここに滞在するんなら一度は祈っておけと教えてくれた場所だ。元あった中庭に作られている。私も好きだった場所だから文句はないけど、一応、国民が祈るためのこれみよがしな塔があるんだけどなぁ。
……そう、塔。墓を通り越して塔を造られた私の気持ちをもっと考えてほしい。絶句したわ。もっと金使うところあるでしょうが。だからなんとなくそっちの塔には行く気になれないのが本音だ。肖像画とか像とかまでおいてあるもん……やだ……。
だから、こう……こじんまりとした墓があるのは嬉しい。参りやすいし。私が祈ってどうするんだとは思わなくもないけれど。まあ、うん。自分の墓参りって冷静に考えるとわっけ分かんないな。
(しかし、私が供えなくても花が多いなぁ)
外に出ていいかは分からなかったので、花はない。勝手に庭の花を取るわけにもいかないし。
そんなことより。この花の量。ここで花祭りでも開催してたの? ってくらいには大量の花が供えられている。ちょっと怖い。しかも私が好きな花ばっかり。なお怖い。誰だよ供えてるの……。いや龍族の皆か。
「でも、ここには誰もいない」
どれだけの花も。祈りも。声も。アナスタシアだった私には届かない。墓の下に私はいない。なんだか不条理な気がして、ちょっと頬を膨らませた。人の気配がないから、少しだけ気が抜けているのかも。
祈りの言葉も思い浮かばないから、組んでいた手を解いて立ち上がる。死者の冥福なんて祈ってやるものか。アナスタシア・エヴェリナ・ダフネ。お前は永遠に苦しむべきだ。そうでしょ?
いっそ美しいまでに誂えられた墓に背を向ける。不意に風が吹いて、その懐かしい匂いに目を細めると。
「――あ、な?」
そんな、呆然としたような声が響いた。少し目を丸くして、声のもとに視線を向ける。
ずいぶんと、懐かしい顔が。絶対に見たくなかった顔が。私の唯一にして最高の親友の、顔が。少しやつれた様子で、いつも溌溂としていた目が少し淀んでいて、でも、私が見間違えるはずのない彼がそこにいた。
私と同じ真っ黒な髪は、少し傷んでいた。元から感情をあまり表に出さないようにしていた瞳は、ずっと暗い色になっている。焦燥した、その、『龍族の王であるレオンハルト』らしくない有様を見て。
――吐き気が、した。
「アナスタシア、なのか?」
手が伸びてくる。『アナスタシア』だった私ならきっとなんの疑問もなく受け入れるその手のひらを、丁寧に退けた。そうするしかなかった。
呆然と、幽霊でも見たような顔で私を凝視する彼に向けて、笑う。大丈夫、ちゃんと笑えた。でしょう。
「いいえ、私は、英雄王様ではございません」
そう伝えた瞬間に、空気が張り詰めた。ああ、そうだ。そうだった。この不器用な親友が、私の前でだけは威圧感を出さないように心掛けてくれていたと、私は知っている。その気遣いが嬉しくて、愛しくて。大好きだった。
だから、もう、いらない。
「……そうか。ああ、そう、だろうな。何を言っているんだか、俺は。アナがここにいるはずがない、もう、どこにもいないというのに」
自嘲の色を隠さない暗い声は、苛立ったように零された。抜き味の刃を突きつけられているような圧迫感の中、私はぼんやりと考える。
(別の人みたい)
いや、人じゃなくて龍族なんだけど。そういうことじゃなくて。私が知っているレオンハルトというひとは、なんというか、こう、強いという言葉の擬人化みたいな存在だった。
迷うことなく、悩むことなく、振り返ることのない。それこそ、人が語る『英雄』みたいな。
「貴様は、ヴィルが連れてきたとかいう黒髪黒目の人間か」
「はい。イヴリンと申します。孤児ですので、家名はございません」
硬質な、なんの感情も籠められていない声に、淡々と返す。この偉そうな態度、懐かしいなぁ。
「……どうでもいい。さっさとどこぞへ行け、不愉快だ」
この、くっっそ偉そうな態度、懐かしいなぁ! よく思い返してみると、初対面は確かにこんなんだった。腹が立ったのでちょっかいをかけまくったあの頃が懐かしい。もうそんな気力はない。いやぁ、あの頃は若かったなぁ。五歳児は若いじゃなくて幼いか。あっはっは。
――絶対昔より性格歪んだわこいつ。そっちから聞いておいてどうでもいいとか、私がとんでもなく温厚じゃなかったらブチ切れてるところだよ。そして返り討ちにあって死ぬまでがワンセット。人間脆弱すぎぃ……。
「はい、畏まりました」
しっちゃかめっちゃかな思考をよそに、丁寧に一礼をして場をあとにする。思考と表情、態度を切り替えるすべは、アナスタシアだった頃に磨き上げたものだ。どんな感情も、笑顔の下に隠せる。だから笑え。
そのまま背を向けた私は、彼がどんな顔をしていたのかなんて知らない。
「――」
龍が泣いた声も。もう、聞こえない。
夢を、見ている。過去の風景をぼんやりと眺めながら、ああこんなこともあったなと思い返してみた。
五歳のアナスタシアが、龍族の男――ヴィルさんに拾われてから、全ては始まったのだったか。よく分からないけれど、あのとき私を抱き上げた腕の熱さは、なんとなく覚えている。ヴィルさんは、私の命の恩人だったっけ。
龍族の村で人間の子供は物珍しかったらしく、私はすごく構われていた。構い倒されてきた。子供を慈しんでくれる大人なんて関わり合いになったことのなかった私は、その度に怯えて逃げ出していたっけな。
「ねえねえ、レオンハルト。それなんの本ですか?」
「……うるさい」
そんな中、大人になりきれていない彼は私にとって最も安心できる存在だった。いや、向こうはいい迷惑だったろうけど。とにかく、最も年若い彼に私は懐いた。自分と同じ黒髪なのもあって、シンパシーを感じていたのかもしれない。今となっては分からないが。今だからこそ考えることだ。
「わ、わぁ、むずかしい! 何これよめてるんですか!? レオンハルトすごく頭がいいんですね!」
「……これくらい当然だ」
鬱陶しそうな顔ばかり見ていた。呆れたような声と、嫌そうな声ばかり聞いていた。それでも、彼は――あの城の人たちとは違って、私を罵ったり殺そうとしたりしなかったから。
私は、彼のことが『大好き』だった。
「レオンハルト見てください、おかしです! いっしょに食べましょう」
「お前、甘いものが好きなのか?」
いつから、というのはなかった気がする。気がついたら、ずっと本や遠くを見ていた瞳が私を見るようになっていて。追いかけていたはずの歩調が合うようになって。一方的だった言葉が、会話になっていった。
「レオンハルトは、甘いものがすきですか?」
「……嫌いじゃない」
「ふふふ、私は知ってますよ! レオンハルトの『嫌いじゃない』は、大好きってことだって!」
「うるさい黙れ!」
彼の、真っ直ぐな目が好きだった。深い蒼は空よりも海に似ていて。でも、私は海を見たことがなかったから、いつか一緒に見に行こうなんて約束をしていた。
彼の、力強い声が好きだった。私のなんてことない言葉一つ一つを丁寧に拾い上げて、不器用に返してくれる言葉全部が。愛しくて愛しくて大切だった。
彼の、何もかもを。――愛していた。
「レオンハルト、レオンハルト」
「……なあ、アナスタシア」
約束をしたのだ。彼の秘密の場所だという湖を、いつか二人で見に行くと。その時が来たら、告白すると――決めていたのに。
「レオンで、いい」
「じゃあ、私のこともアナでいいですよ」
心残りなんて、本当に、数え切れないほどある。あれから百九十五年もたっているのに、こんな夢を見るくらいには後悔を重ねてきた。
「レオン、私は、人間の国に生きている人を幸福にしたい。そのために、あなた達の力が必要なんです。……ごめんなさい、ごめんなさい。恩知らずで、ごめんなさい……!」
アナスタシアは、弱かった。よく笑いよく怒りよく喋り……よく、泣いていた。最近の私はとんと泣くことがなくなったから、少しそこは羨ましいかもしれない。
泣くことができるというのが幸福だと、私は今更知ったから。
「こんなに優しくてよく滅びませんでしたね龍族!!」
「こんなに脆弱でよく滅ばなかったな人間!!」
こんな幸福な悪夢、もう見たくはないなぁ。見たくなんて、ないな。
独りぼっちで流す涙は、冷たいから。
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