覚えていたくなかった
抱き締める腕の温かさとか。頭を撫でる手の優しさとか。できたてのクッキーが美味しいこととか。怖い夢を見たときに飲むホットミルクに安心することとか。そういう。アナスタシアが知らなかった、イヴリンが知っていること。そんな幸福な思い出が増えるたびに、ふと死にたくなるときがある。
英雄には英雄の責任があるのに。それらすべてを放棄して、こんなふうに笑っている自分がひどく穢らわしくて矮小で死んだほうがいい人間に思えてしまうとき。私は、
(ああ、息が、しにくいなぁ)
心の中で呟いて、夜空に浮かぶ細い月を見上げる。この世界は、私なんぞが生きるには少しばかり綺麗になりすぎたのだ。あの怨念渦巻く王宮が、誰も信じられなかった敵ばかりの頃が少し懐かしい。皆が膿んだ目をして、絶望に身を浸し、口先ばかりの甘言だけを綺麗な振りで誤魔化した地獄が。……懐かしく思えてならなかった。
それなりに長い話し合いの結果、私は王宮で過ごすことになった。まあ、なんてことない。龍族の中でも魔術に精通した者たちが王宮にいるから、そこで研究をしたいというだけのことだ。だから、別にレオンに会うこともないだろうし。いいよね。大丈夫だよね? ね?
「では、これから長い付き合いになるだろう。改めて、俺はヴィルフリートだ。よろしく」
「はい、これからよろしくお願いしますね」
覚悟を決めろ。そう言われている気分だった。彼にはそんな気など毛頭ないだろうし、何も知らないとは分かっている。だけど、王都は。これから向かう王宮は、……アナスタシアとあまりにも関係が深すぎる。
目を逸らすような瞬きの間に、赤い髪の青年が雄大な龍の姿に変わった。以前は見慣れていたはずのそれに、少しだけ目を見開く。
いや、龍族が人の姿と龍の姿を自由に切り替えられるの走ってるけどそこじゃなくて。ヴィルさんの龍の姿ってこんなに大きかったっけ、と。もしかして、二百年弱の間に成長している……? しない方がおかしいか。納得した。
「背に乗れ。王都まで運ぼう」
「これはこれはお手数をおかけいたします」
横乗りよりも跨って乗る方が安定しそうだ。ワンピースで、青年だと分かっている相手の背に跨るとか。そういうことを考えていたら龍に乗せてもらうことはできないので思考から意図的に消しておく。下心とかないって知ってるから。どうも、ヴィルさんに乗せてもらうのはだいたい二百年ぶり三回目です。
体勢を少し低くしてくれたので、ありがたく跨がらせてもらう。そして、心配そうな顔をしているシスターに笑いかけた。
「イヴ、……健康には気をつけてくださいね。あなたは自分の身体の丈夫さを過信するきらいがありますから。あと、手紙も書いてください、私も書きますから。それから、ええと………」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、シスター」
「イヴは、心配してもし足りないくらい自分に無頓着ですから」
そう呟くと、シスターは頬に手を当ててほうと溜め息を吐いた。いやはや申し訳ない。思えば、赤ん坊の頃からずっと心配をかけ続けてきた自覚がある。なかなか泣かない赤ん坊だったし。我儘を言わない子供だったし。たまに訳の分からないことは言うし。
……いやぁ、シスターは本当に慈悲深いな。こんな薄気味悪い子供をここまで愛してくれるなんて。
それが万人に振りまかれるような慈悲とか慈愛じゃないことを、私は知っていた。だから。
「シスター」
私を愛してくれた。母のように、本当の家族のように慈しんでくれた。その恩を返せないままなのは申し訳ないけれど、いつか、帰ってきたら。帰ってくることができたのなら――できる限りの恩返しをしよう。
愛しているのだ。きっと、嘘でも偽りでもなく。イヴリンの本心として。
「いって、きます」
「いってらっしゃい、イヴ。尊き命の子」
手を振った。龍の巨体が空へと飛翔する。懐かしい感触にいっそ泣きたくなり、風を受けて荒ぶる髪を押さえながら、目を閉じた。
(ねえレオン。あなたは私が死んだあと、どれほどの涙を流したのだろうね。……本当にさ、知りたくないし向き合いたくないんだよ、そんなこと)
こんなことを考えている私は、自分の弱さを許せないまま、きっとどこまでも落ちていくのだろう。
「今日から、ここに住んでもらうことになる」
「分かりました。いろいろとお世話になってしまって申し訳ございません」
気にするなと言わんばかりに、彼は首を横に振った。
龍族の村――ではなく、王都にある巨大な宮殿の前に下ろされ、軽く目眩を覚えながら礼をした。この目眩は精神的なものも肉体的なものも含まれている。風を受けて空を駆ける感覚は気持ちがいいものだったけれど、流石に王都は少し遠かった。酔った。ふらつく頭を押さえながら、笑う。
「城の中にイヴのための部屋を用意した。……明日は、いろいろと話を聞くことになるだろうから、今日のところは休んでおけ」
「はい、お気遣い感謝いたします」
いやぁ、しっかし。来てしまったよ王都。来てしまったよ、龍族の住む宮殿。私とアナスタシアの類似性に気づかれてしまうかどうかは甚だ不安だが、来てしまったものはしょうがない。せめて、レオンハルトにさえ会わなければどうにかなるだろう。
……どうにか、なりますよね?
夢を見た。起きたらすぐ忘れるような、淡い夢を。王様でもなんでもないただの一人として生きていた、あの頃を。何もなかったけれど。何も持っていなかったけれど。私は、確かにあの頃幸福だった。そこがたとえ沢山の誰かの屍の上だったとしても。
アナスタシア。アナ。誰でもなかった私の名前。誰かになりたいとも思っていなかった愚かな少女の名前。泣き虫で、弱くて、いつも何かに怯えていた子供は。
……いつから、この国を愛してしまったのだろう。
寿命に関する研究に携わるということで、一人の男を紹介された。長い緑色の髪を複雑に結っているその龍族は、私を見て陶酔したように頬を緩める。うわぁい、すごく見覚えがあるぞ。やっぱりなんか呪われてるでしょこれ。
私が心の中で神様に文句を言っていると、やたら勢いよく近づいてきた緑色の男――ヒューバートは、私の目の前で跪いた。
「お初にお目にかかります、人族の子……いや、イヴ嬢。ああ、その宵闇よりもなお黒い髪と深淵を覗いたかのごとく深き色をした瞳! なんと神々しく美しいことか。このような美しい黒は私の人生で二度目……いや、初めてでございます! あなたのように美しい人族の子と出会うことができたこのわたくしは誰よりも幸福な龍族なのでしょう、ええ、ええ!!」
「うわぁ」
うわぁ……。アナスタシアの頃にもこんな反応をされた記憶はあるけれど、久々に見ると強烈すぎる。私がアナスタシアじゃなかったら、今頃悲鳴を上げて逃げているところだ。
私が冷静なのは、彼が別に私の顔や姿形を見て褒め称えているわけではないと知っているから。私自身に興味があるわけではなくて。彼が見ているのは。
「ああ、美しい。それになんて素晴らしい魔力の量! その質!」
はい。そういうわけですね。彼は単に魔力の強いものを崇拝……信仰? しているだけだ。ずいっと近寄られたので、そっとそれ以上距離を取る。近寄りたくはないです。
魔力狂と真面目に話そうとするだけ馬鹿を見るのだ。それなりに距離を取っておきたい。
「私の名前をご存知なのです、ね?」
「はい、ヴィルから聞き及んでおります。……しかし、ああ! お声まで澄んでいて美しいなど、人族にしておくには本当に勿体ない。だってあなた様は分かっているのでしょう、理解しているのでしょう? その深淵を覗いた瞳でならば人間の愚かさをよくよく見通せるはずですから!!」
一瞬だけ、その瞳が剣呑な色を灯す。視線を逸らし、そっと溜め息を飲み込んだ。ヒューバート、もといヒューは、人間が嫌いらしい。まあ、人間って基本的にほとんど魔力持ってないしね。魔力の量とか質(質の良し悪しは私には分からない)が他者の評価の基準である彼にとっては、致し方ないことなのだろう。
「……あ、あの」
ぴたり、と。声が止んだ。底の見えない深緑は、私のことをじぃっと見つめている。静かな目だ。
「あなたの名前は、なんですか」
「ヒューバートと申します、是非ヒューとお呼びくださいませ!」
返事が速い。なんですか、のかの部分でもう口を開いていた。……あれ? アナスタシアだった頃と対応が違う気がする。いや気のせいかもしれない。私の記憶もそろそろ曖昧だから、気のせいだってことにしておこう。
「ヒューさん?」
「ヒュー、と」
「ヒュー」
そう呼んだ瞬間、彼が妙に嬉しそうに笑うものだから、私も思わず苦笑した。自分が勝手に捨てたものを拾い上げたいと願うのは、愚かなこと。分かっているから、私は沈黙を貫くと決めたのだ。
「ご存知のようですが、私はイヴリンと申します。ぜひ、イヴとお呼びください」
「では、イヴ嬢と呼んでも大丈夫でしょうか」
「お好きにどうぞ」
もしかしたら、突き放したような声色になっていたのかもしれない。彼は、少し驚いたように目を瞠ったから。私が思っているよりも冷たい言い方だったの、かも。
「イヴ嬢は、死ぬことが怖くありませんか?」
「……唐突ですね」
ほんのちょっとした反省は、彼の急な質問に掻き消された。死ぬことが、怖くない……か。
「黒髪黒目は短命だと、そう言われても反応しなかったと聞き及んでおります。そして、今も……あまり焦ってはいないようですので」
言葉を聞き、少しだけ考える。どうせまた死んでも生まれ変わるだけだろうから、というのはまあある。でも、それを除いても、きっと。私は、自分の命にそこまで頓着しないだろうとも予想がつく。
アナスタシアが死んだとき。暗く重く何もない終焉に落ちたとき。私はきっと、全て置いてきてしまったのだ。あの、レオンハルトと過ごした――私が英雄王だった頃に。全部全部、私のすべてを置いてきた。
だから今ここにいる私は、私の亡霊のような。抜け殻のような。絞りカスのような……そんな、価値も何もない存在なのだと思う。思うからこそ、命とか私の未来とかそういうものに執着できないのだろう。分かっていてもどうしようもない。これは私の心の問題だ。
「そう、ですねぇ」
呟きながら、言葉を探す。流石にこんなことを赤裸々に話せるほどに人生捨ててないから。なんとか誤魔化してしまいたい。
「……そもそも、死ぬのって、怖いですか?」
質問で返す。彼は、面食らったような顔をして私を凝視した。おっと、龍族に対してこの質問は馬鹿だった。
「ああいえ。龍族の方にとっては怖くないに決まっていますよね、変なことを申しまし――」
「怖いですよ」
食い気味に。どこか必死にも見えるような様相で、彼は断言する。深い緑が揺らいだ。なのに、私の心は揺れない。私というのはなんてひどい人間なのか。心の中で自嘲した。
「それは、なぜ?」
「百九十四年前、彼女が没した瞬間、わたくし共は理解してしまったのです」
ああ、そう。そう、……そうか。あれから、もう、百九十四年たったのか。具体的な年数を出すことをどこかで恐れていた私の弱さを、まるで知らない顔して暴かれた気分。
「死者とは、二度と、会えないことを」
「ずいぶんと遅い理解ですね」
は、と。嘲笑う声は彼の耳にどう届いたのだろう。どうでもいいか。
「ええ、もっと早くに気がつくべきだった。もっと、はやくに、理解するべきだったのです」
ヒューは両の手で顔を覆い、下を向いた。初対面の相手の前でずいぶんと無防備なことである。
「――でも、人間が脆いと思い出すには。アナスタシアは、あまりにも、鮮烈すぎた」
「でも、彼女は人間だった」
そう分かっていて、受け入れたのではなかったのか。責めるような口調になりそうで、口を閉ざす。彼の顔は見えない。見たくない。
「人間が語る英雄に、相応しすぎたのです。彼女は、人格を捨てて一を切り捨てて国のことを取ることができる人だった。いっそ痛ましいくらいに、彼女にとってアナスタシアは無価値だった!」
王様になりたくなかった。英雄になんてなりたくなかった。そう言ったら、レオンハルトは笑うのだろうか。そう思ったときがある。もう終わった時間の話だ。
実際。私は、そんなものにはなりたくなんてなかった。でも、私にしかできなかったから。私がやるしかなかったから。国が亡くなっても構わないと思えるほど私は生きるのが上手くなかったから。だから。……間違えた。
出会うべきではなかったのだろう。頼るべきではなかった。私は、王宮から追い出された瞬間に死ぬべきだった。今となってはそう思うから、私は私を許せない。
「死ぬのが怖い、ではないんです。人と関わるのが恐ろしい。人間の死は、あまりにも、ひどく、残酷だ」
「じゃあ、私のことも怖いんですか?」
「とても、怖いです」
その言葉を聞いて、私は笑った。きっと、笑顔の成り損ないのような歪な顔だろうけれど。笑ったのだ。
「――だったら、捨ててしまえばよかったのに」
聞こえないように呟く。私との約束なんて、忘れてくれてよかったのに。こんなふうに縛り付けたくて……誰かを不幸にしたくて、あんなことを願ったわけじゃない。
ただ、長く停滞していた龍族の皆が少しでも世界が綺麗だと思い出せたならと。初めは。最初の願いは。それだけの。
(なんで、英雄なんかになってしまったのか)
もう、本当は、分からない。
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