大井紀子という女

 弥兵衛が葡萄の品種改良を決心したのは、六月でちょうど葡萄の開花時期と重なっていた。品種改良のために、どの株と株を交配させるかの判断を早急に行う必要があった。幸い、品質に尋常ならざる拘りを持っていた弥兵衛は、すべての株の実り具合、味の特徴などを事細かに分析していた。しかし、その蓄積を以ってしても膨大な数の組合せの交配をしなければならなかった。

 果樹園で働く小作人たちは、戸惑った。葡萄園で生産されるワインの売れ行きに翳りが見え始め、赤字が続くようになった頃に博打もいいところの投資をするのかと。しかも、数代は遺伝系の確立のために犠牲にしなければならない。


「品種改良にあたり、今生産している葡萄酒の量は減らすことになる。昨今は安価な葡萄酒ばかり注目されているが、その潮流に便乗するのではなく、最高の葡萄酒を生み出せる品種を開発してこそ変革をもたらすことができると思っている」


 弥兵衛が小作人たちに説いたのは、葡萄酒づくりにおいて高級志向を徹底してきた、自身の意地であった。交配する株の組み合わせの選定は自らが率先して行い、開花したものから随時交配作業に取り掛かった。僅か数日の間に、百を超える組み合わせの交配作業を行った。

 その真剣さが結実し、品種改良の事業に懐疑的だった小作人の信用を得るに至った。しかし、親戚からは心配の声が上がった。そんな事業にうつつを抜かして、川上家の財産を食いつぶすつもりか、と。特に、庭園の一部を取り壊す際も猛反対していた母親の態度は冷ややかなもので、彼女が入院している病院から、「葡萄のことよりも川上家のことを考えなさい」との旨の手紙が毎日のように届いていた。


 このことに頭を悩ませていた弥兵衛は、依光の面倒を見に来ていた真美子に相談した。 


「そりゃあ兄上の真剣さは、お母様も認めてのことでしょう」


 苦笑する真美子の視線の先で、依光が文字を書く練習をしている。


「でも将来のことも少しは考えなさいと」

「私は――」

「葡萄園ではなく、川上家のことですよ」


 言いきる前に真美子が反論したものだから、弥兵衛はむくれた顔をした。


「お母様は跡取りのことも言っていたでしょう。お見合いの話が放りっぱなしだと嘆いていましたよ」

「華族の地位を返上した家の女など財産目当てに決まっているだろう」


 今度は真美子が、わざとらしくむくれた顔をして弥兵衛を睨みつけた。


「兄上は、葡萄のこととなると勝算のない事業でも躍起になるのに、お見合いとなると会う前から決めつけるんですね」

「何を――」


 一瞬逆上しそうになった弥兵衛だったが、確かに真美子が言うことは一理あると思い直した。


「一度会ってみるだけでもどうですか。それで少しはお母様の小言も減るかもしれませんよ。それに、良い気分転換じゃないですか」

「それもそうか」


 弥兵衛は真美子の言葉の前半部分にだけ同意した。親族以外の異性に会うのは緊張してしまう質の弥兵衛にとっては、見合いは気分転換になど到底ならないのだ。


  ***


 病床に伏している母親の代わりに、叔父が世話人をすることになった。叔父が手配した店は、市街地にある牛鍋屋であった。牛鍋屋など、弥兵衛が上京していた頃の東京には五百軒を優に超えるほどあったが、この地域にはその店を含む数軒だけであった。

 相手の大井紀子は、矢絣やがすりの着物に身を包んで、日除けに和傘をさしていた。


「おお、来たか。こちらも今しがた着いたところだよ。こちらがお相手の大井紀子さんという方だ。今日はよろしく頼むよ」


 叔父に紹介されて紀子は、静かに礼をしてから傘を閉じた。年のころは二十歳はたちを過ぎたばかり。真美子よりも下だ。薄化粧で桜色に染まった頬、白く透き通るような肌。彼女は見ているだけで涼しくなるような女性だった。


「よろしくお願いします」


 そして、育ちの良さを伺わせる落ち着いた声をしていた。


「さ、立ち話もなんですから、中に入りましょう」


 叔父に連れられて二人は中に入る。弥兵衛は東京の牛鍋屋には何度か足を運んだことがあるが、近くにあるこの店には入ったことがなかった。

 牛鍋屋の内装は、周辺の日本家屋とそう変わらない佇まいとは裏腹に、洋風の物が目立つ。硝子扉のついた棚の中に洋皿が飾られていたり、壁に西洋絵画がかけられていたり。弥兵衛は初めて入る店内の装飾を頻りに見まわしていた。それは二人が個室に置かれたマホガニーの食卓についてからも続き、「緊張してらっしゃっるのですか」と彼女の方から声をかけられるほどだった。


「いえ、内装を見ていただけです」

「近くなのに来たことないのですか」

「あまり道楽という道楽をこっちに来てからしていないのでね」

「東京にいた時から勤勉な方でしたものねえ」


 口元を隠して笑う紀子。

 弥兵衛は聞き流しかけたが、彼女の言葉に違和感を覚えた。


「なぜ、私が東京にいた時のことを知っているのですか」

「私、東京にいたころに、貴方にあったことがあるのですよ」


 驚く弥兵衛の顔を見て、彼女は再び笑った。


「初めて、お堅い顔が緩むところを見られましたよ」


 そんなことを言われたものだから、弥兵衛は咳ばらいをして再び堅い表情を作り直す。

 彼女は、ばれないようにひとつため息をこぼしてから、自分が幼い時に東京の街中で迷子になって途方に暮れていた時に助けてもらった過去を話した。もとより化粧で色づいていた頬が、さらに朱を強めていた。


「こちらに戻ってからのことも聞いておりますよ。朱水しゅすいも幾度となくいただきましたわ。葡萄の香りが他のどんなものよりも豊潤で――」


 朱水とは、弥兵衛の葡萄園で醸造された葡萄酒の銘柄である。日露戦争の際には兵隊への献上品ともなった、葡萄園の主力商品だった。


「それはそれは、ありがとうございます。昨今は安価な葡萄酒が市場を沸かせていますが、うちの葡萄園は品質に拘り続けていく所存です。近頃はさらに葡萄の品種改良の事業にも着手しまして――」


 彼女が葡萄酒の銘柄に触れたところから、弥兵衛は饒舌になった。

 仕事の話は次第に弥兵衛自身の身の上の話に移り、食卓に牛鍋が到着してもなお続いたが、彼女は興味津々に耳を傾けていた。


「しばらくこちらでお見掛けしていないと思ったのですが、そのときは山梨の方で修業されていたのですか」


 二人は互いに牛鍋に舌鼓を打ちながら談笑していたが、会話の量は圧倒的に弥兵衛の方が多かった。やがて、つゆだけになった鍋が取り下げられ、見合いが終了しても彼女の身の上はほとんど語られることがなかったほどだ。


 個室を押さえていた時間が残り僅かとなり、世話人の叔父が二人を迎えに来た。牛鍋屋の店先には、彼女の親類らしき男も待っていた。

 簡単な挨拶を済ませた後、叔父は弥兵衛とともに家路についた。


「どうだい。紀子さんは、なかなかに器量の良い人だろう。会話も盛り上がっていたじゃないか」

「ああ」


 弥兵衛はおざなりな返事をする傍ら、心中では「次の面会の申し出は、向こうからはないだろうな」と考えていた。せっかくのお互いを知る機会をほとんど自分語りに費やしてしまったのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る