植木屋

 少年が自らの名を「依光」と認識したのは、名付けてから数日ほど経ったときのこと。自分が呼ぶ声に少年が振り返ったときは、溢れて来る涙を抑えるのに必死だった。と弥兵衛は、一仕事終えて一服する植木屋に語った。


「相変わらず、見栄っ張りですなあ。こらえる必要もないでしょうに」


 植木屋の半次郎は、縁側で煙管を片手に弥兵衛の頑固ぶりを笑った。たしかに感情を隠す理由など毛頭ない。お返しに半次郎が「自分の娘が生まれたときは、年甲斐もなく――」とかましてきた惚気話のように、泣いても良かったのだ。そう心のどこかでは思った。けれど、幼少の頃より頼る者などなかった彼にとっては、自らの感情を表すことは恥にも等しい行為だった。


「依光と言いましたかな。あの小僧の世話をするようになって少しは柔らかくなると思ったら――」


 半次郎が辟易を忍ばせた紫煙を吐いた。弥兵衛は、それが目に沁みて痛いと言わんばかりに渋い顔をする。 


「ときに彼は今はどこにいるのです」


 と聞かれて、弥兵衛は天井を指差す。するとちょうどどたどたと上の階の床をかける音がした。


「この屋敷は独り身には広すぎる故、ああして掃除をさせている」

「そうやってこき使ってばかりいるわけですかい」

「馬鹿を言うなっ。真美子と協力して、美味い飯は食わせている。風呂にも入れているし――」

「そういうところですよ。旦那は遊びというものを知らなすぎます」


 文机に向かって書籍を読むか、仙台から受け継いだ庭園の一部を開拓してまで作った葡萄園、醸造所に出向き、小作人とともに手入れをするかでその日を過ごしている弥兵衛の生活には、半次郎の言う遊びというものがまるでなかった。


「私は先代の頃から馴染みだったから、旦那が贔屓にしてくれるなら何でもやりますがね。ちょっと旦那は生き急いでいるんじゃないかと思うわけですよ」


 花や果実をつけるものの類は、花や果実を適度に間引くことが不可欠だ。咲かせすぎたり、実らせすぎたりすれば、悪いものが必ず出てくる。そして、次の年にまで影響を及ぼしてしまう。と半次郎は語った。


「旦那は、果樹園で住み込みの修業をしていたときに、この話は何度も聞かされたでしょう。何しろ、あの方は私の師匠でありますから」


 弥兵衛はもこのことは耳にたこができるほど聞かされてきた。今更何を、と思うほどである。


「咲かせすぎや実らせすぎが毒だというのは、人間も同じだと思うのです。旦那は、こちらへ戻って来てから、ずっとがむしゃらにやって来たでしょう」


 修業から帰って来た弥兵衛は、この地の農業を豊かで安定したものにしたいという想いを果樹の栽培に注いで来た。そうして救えた小作人からは感謝の言葉を投げかけられたが、このところは安価な輸入品が入って来た打撃を受け、焦りが先立っていた。その始終を、がむしゃらと言われるのは、悔しいが言い得て妙だと思った。


「行き詰まったときこそ、遊び、、に興じるのも悪くないですよ。今までやらなかったことをやってみるだとか」

「しかし、それでは破産してしまう」

「そこですよ。目先で結果が出るものに拘ると、出る芽がすべて出尽くして枯れてしまう。何十年も先に芽が出るようなことは、今は遊びと思えることかも知れないんです。まあ、私はあの少年と同じく、拾われた身で、失う怖さがあまりないので、こういうことが言えるのでしょうが」


 失う怖さがあまりないという言葉で、弥兵衛は自分が先代から受け継いだ庭園の大部分を取り壊して果樹園にすると決意した時のことを思い出した。当時は、出入りしている使用人が十数人ほどいた。「親が遺した庭を捨てるなど持ってのほか」と反発した使用人が殆どだった中で唯一、弥兵衛の覚悟を汲み取って取り壊し作業に加わったのが、今もこうして出入りしている植木屋の半次郎だったのだ。


「さてと――」


 一服終えて、半次郎はすくっと立ち上がり、袂から巾着袋を取り出した。それを揺らすとごりごりと硝子が擦れる音がする。


「旦那、二階に上がってもいいですかい」


 上がってどうするのだ、と問うと「小僧と遊んできます」と笑った。


遊び、、か」


 一人、入側縁に残された弥兵衛は、半次郎の言った言葉をひっそりと反芻するのだった。

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