第二十二話 憂鬱と企み

白蘭宮の外に出ると熱っぽかった身体が一気に冷えた。

 ミスティアもこの湿疹を気持ち悪く思ったに違いない。

 清潔さがないと思ったかも知れない。

『君みたいに綺麗な金髪は他にいないね。それにその瞳もずっと見ていたくなる』

 初めて容姿を褒められて嬉しいと思ったあの日。

 それまで鬱陶しかった社交辞令も異性からの賛辞も肯定的に受け取れるようになった。それからは父譲りの金髪とエメラルドグリーンの瞳はウォークの自慢になった。

 彼女が褒めてくれたからだ。

 しかし今の自分はどうだ。

 彼女が褒めてくれた自分はもういない。

 そう思うと気分が沈む。

 溜息が漏れる。

「戻らないと」

 ユリウスの元に戻らなければ。まだまだ片付けないといけない仕事が残っている。

 庭を歩き、建物の中に入るとウォークは思わず顔を顰めた。

 視覚よりも先に嗅覚が過敏に反応する。

 この通路は駄目だ。

 遠回りになっても別の通路を使うべきだ。

 ウォークは踵を返し、歩いて来た通路を戻ろうとした時だ。

「あら、ウォークじゃない」

 ドクンと大きく心臓が跳ねた。

 遅かったか……。

 変に脈が速く感じるのは悪い意味で緊張しているからだろう。

 近づかなくても漂ってくるキツイ香水の不快な匂い、廊下に重く響くヒールの音、その甘ったるい話し方もウォークにとっては嫌悪の対象だ。

 しかし決して態度には出してはならない。平静を装い、無表情で躱さなければならない。

「お疲れ様です。時計師長」

 ウォークは通路の端に避け、軽く頭を下げた。

 現れたのは時計師長のエリスである。

 その後ろにはノア・アンベラが控えている。

 嫌悪の視線を向けるノアはウォークを嫌っている。

 顔に出来た湿疹を汚らしいと思っているのは以前にエリスとノアが会話をしているのを聞いてしまったので知っている。

 彼女が自分をどう思っていても特に関係はないが汚らしいから近寄るなと言われた日に周りが自分をどう思っているのか気付かされた。

 今も近くにいるだけで嫌悪感を隠さないし、ノアはウォークがエリスに近寄るのも嫌がっている節がある。

「随分と他人行儀ね」

 どうもこの人は苦手だ。

 早くこの人から距離を取りたい、いつもそう思う。

「私達の仲でしょ? そんなに固くならないで」

 顎を掴まれ無理やり上に持ち上げられると長い睫毛に縁取られた薄いブルーの瞳が目の前に現れる。

 目のやり場に困る程開けた襟元は豊満な胸を強調し、スカートに深く入ったスリットから覗く肉感のある脚、くびれは華奢で男ならば視線を奪われる色香を持つ美女だ。

 今も彼女が引き連れている男からは妬ましいと言わんばかりの視線を送られているウォークだが、自分にとっては苦手要素の寄せ集めでしかない。

 ウォークはこの手の女性が昔から苦手だった。

「そう言えば、カフローディア王子が保護した時計師、ミスティアの能力測定をしたんだけど」

「ええ」

 ウォークの脳裏にミスティアの姿がよぎる。

「能力値が一だったの……残念だけど時計師としての責務は難しいわね」

「そうでしょうね」

「でも、何とかこの城に残れるようにしてあげたいと思っているのよ」

 にっこりと微笑むがその笑顔がウォークにとっては薄ら寒いものに感じる。

「まさか! あの者をお側に置くつもりですか⁉」

「可哀想でしょ? いくら手違いでもこんな風に騒がれて……結局は時計師にもなれず、城から追い出されるのよ?」

 ミスティアが王宮警吏に罪人として拘束される場面は多くの市民が目撃している。

 後日に店と近隣住民には王宮から謝罪をしたものの、噂に尾ひれはつき物で根も葉もない悪い噂も広がっている。それは彼女が未だに城から帰宅出来ていなことも大きい。

「あの者には時計師としての能力なんてないのです! きっと、心時計を止めたのだって何かの間違いだったんです! きっとカフローディア様に言い寄って入城するための策だったんですわ」

「時計版の針が動いた。能力はある。力の発動条件の問題だ」

「何ですって?」

「君はその場にいたんでしょ。何を見てたの?」

 興奮気味に主張するノアにウォークは憤りを感じずにはいられなかった。

「随分と生意気な口を利くのね、たかが、騎士の分際で。宰相様やカフローディア殿下に気に入られてるからって調子に乗らないで。ついでに気持ち悪いわ。近寄らないで」

 近寄って来たのはそっちだろうに。

 ウォークは呆れて溜め息をつく。

「貴方はどう思う?」

 エリスがウォークに問い掛ける。

 彼女が言葉を紡ぐ度に、キツイ香りが広がるようで気分が悪くなる。

「恐らくですが、彼女は時計師の肩書がなくても白蘭宮に残るでしょう」

「あら、どうしてそう思うの?」

「どうしてよ!」

 エリスとノアが言う。

 不思議そうに首を傾げるエリスとは対称的にノアは怒りを露わにして今にも掴み掛って来そうだ。

「カフローディア殿下が彼女を大層気に入っております。殿下には婚約者候補はいても実質的な女性はおりません。それに国王陛下は恋愛至上主義。殿下には既に十分な後ろ盾がありますので相手がどんな身分の女性であっても認めるでしょう」

「本当にそうかしら。次期国王の噂もあるのよ?」

「あくまで噂です。殿下にはその意思はない様子ですし、継承順位は低いです。十分な後ろ盾と言ってもあくまで王子として国政に携わる程度の支持者がいるということ。皇太子として立場を確立するのは難しいでしょう」

「それもそうね……どうであっても専任の時計師ではなくなるわ」

 なるほどね、と頬に手を当てて妖しく微笑む。

 見る者にとっては脳も蕩ける女神の微笑みというのだそうだ。

 しかしウォークにとっては背筋が寒くなる笑みだ。思わず一歩引いてしまいたくなる。

「あら」

 そう言ってラルスは細くしなやかな指を伸ばし、ウォークの前髪を摘まみ上げた。

 額と髪の毛の生え際が露わになる。

 生え際に沿って広がるのは赤い発疹だ。頭皮全体に現れ、熱と異常な痒みを引き起こす厄介なものだ。夜は痒くて眠れず、昼間は痒みで仕事に集中できなくなる。汗や頭皮の汚れで発疹は更に酷くなる。なので汚れを落とすために髪を洗うものの洗髪料が酷くしみる。

 白い肌に赤く痛々しい発疹は不摂生なようで醜いと人の気分を害しているだろう。

 この発疹のせいで後ろ指を指され、陰口を言われるのはもう慣れた。

 治療も行わず、醜い顔を放置しているというのはみっともないと言われたことがある。

 優秀な能吏、そんな風に呼ばれる一方で家柄も地位もなく、醜い若者がどうやって宰相様に取り入ったのかとそう思っている者も多い。

 先ほどミスティアに見られた時に感じたのは羞恥心だ。

 これを隠したい、不快な印象を彼女に与えたくないと思った。

 しかし、エリスに対しては近づくことに嫌悪感を覚えるのだ。

「髪が伸びてきたわね」

「……そうでしょうか?」

指摘されたくなかったことを口にされてぎくりとする。

ようやく痒みも赤みも落ち着いてきたと思っていたのに。

「切っていらっしゃい。伸びっ放しはみっともなくてよ」

 その言葉にウォークは押し黙る。

「貴方のためよ」

「……はい」

「良い子ね」

 エリスはちゅっとウォークの頬に口付け、廊下の先に姿を消した。

 ノアは怒りを顔に露わにして身体を震わせていた。

 余計な報告をしてしまったと後ろめたい気持ちになる。

 ミスティアの護衛の状況を後で確認しなくては。

 ノアの目は怒りの炎で燃えていた。

 アンベラ伯爵家は動力石が採れる鉱山で財を成し、国に貢献した一族だ。

 今でも国内の動力石の五割を占めており、アンベラ家の鉱山は国随一の採掘量を誇る。

 皇室も無視できない貴族である。

 長女ノアは十歳ぐらいで時計師の能力が開花し、王宮の敷地内に十二棟ある黄菊の館の女主人だ。

 目上の者には従順にしおらしく振る舞い、能力の高い者には目を掛けて同等に接することを許すが身分や能力が低い者を見下し、容赦のない女だ。

 カフティ殿下に好意を寄せているようだが……。

 ウォークの言葉に身体を震わせるほど怒っていた。

 ミスティアにも火の粉が飛ばないと良いのだけど……。

 ミスティアには十分な護衛が付いているが護衛を増やすよう進言した方が良さそうだ。

 彼女にも口車には乗らないように伝えた方がいいかも知れない。

 いや、必要ないか。彼女はああ見えて警戒心が強い。

 護衛も付ければ彼女の身が危険に晒される心配もない。あとは誰とも接点を持たずに白蘭宮で大人しくしていてもらえれば安心なのだが。

 ウォークは口付けられた頬を服の袖で強く拭って溜め息を落とした。

 自分の伸びた前髪を摘まみ上げる。

 髪が伸びれば根元がまた明るくなってしまう。

 髪が伸びた分、毛先は切り、根本は染料で染め上げる必要がある。

 また気が狂いそうな二か月間が始まるのかと思うと息が苦しくなる。

 この環境から逃げ出したいのに逃げられない歯痒さと誰にも助けを求めれない苦痛がウォークの胸を押し潰そうとする。

『私と会ったことあるよね?』

 そう言って首を傾げる彼女の顔が脳裏によぎったことが不思議だった。

 あの時、久し振りだね、そう言えたのならどんなに良かっただろうか。

「ミスティア」

 小さくミスティアの名前を口にする。

 そうすることで感じたのは縋りつきたくなる衝動だった。

 自分の唇に触れた細い指、鼻孔をくすぐるような爽やかな甘い香り、身体に感じた彼女の重みと柔らかさ、それらが彼女が近くにいることを実感させた。

 すぐ側に感じる彼女の存在に心が震えた。

 何を考えているんだ、自分は。

 ウォークは自分を戒め、情けなく弱い自分の心を押し殺した。



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