第十話 時魔

*ちょっとグロ、ホラーな描写があります!

苦手な方はご注意下さい!


「流石にしんどいな……」


 膨大な量の過去の新聞からミスティアが狙いを定めている四年間分の新聞を探すだけで二時間以上掛かってしまった。


 探しやすいように年代ごとに印を付けといて欲しかった。


 どこからどんな順番で並んでいるかがもう分からず、適当に端の方から年代を追っていたらこんな時間だ。


四年間の新聞記事と言っても新聞社は複数あり、各新聞社ごとに四年分の記事があるのだからとてつもない量がある。ミスティアは国の経済状況から祭事や行事、起こった事件など幅広く記事にする新聞社と貴族や女優などのゴシップを中心に記事にする新聞社の二つに的を絞った。


 そして二社の新聞記事四年分が手元に揃ったのが探し始めて数時間後のことだった。


 一つずつ慎重に読み進めていかないと。


 後で一から捜し出すのは相当手間だし気力を要するためやりたくない。


 手元には花の本と城内の分かりやすい地図も置いておく。

 誰か来た時の自然な言い訳も準備済みだ。


 さて、やりますか。


 自分自身に気合いを入れて早速、一番最近のものから読み始めることにした。


 人の隠し事を勝手に調べるようなことは人としてどうかと思うが。


 だって、あれは絶対教えてくれない。


 会ったことあるか? それだけの問いにも彼は答えなかった。


 頷くわけでも首を横に振る訳でもなく、何も言わなかった。


 彼はミスティアの知る彼ではないけれどやはりミスティアの知る彼なのだと思う。


 一体何故、ミスティアの知る彼ではなくなったのか、それを知りたいのだ。


 一つ一つが保存するために綺麗に綴じられた新聞だが紙の端が黄ばんでいたりするのを見ると、たった四年前の出来事も随分と遠いもののように感じる。


 ミスティアは一面の小さな見出しから大きい見出しまで一通り眺め、全く関係なさそうな記事は省いて読むことにした。


 成人式でバカ騒ぎ、公園の花、肥料と間違えて除草剤で枯れる、こんなのはきっと関係ないだろう。


 読み物にしては面白いが今はそんな記事まで読み込んでいる余裕はない。


 早く、知りたいのに。

 何かあるでしょ、きっと。

 彼のことを知る何かが。


 見出しを分別しているだけでも相当な時間が掛かるし、一面読み込むだけでもかなりの時間と集中力を要する。自分との集中力との戦いになるだろう。


 何? これ?


 見出しには時計師、不慮の事故か? 時魔に襲われ時計師死亡、 時計師、病に伏す、など時計師に関する記事も多い。


 ミスティアが思っていた以上に時計師に対する世間の注目は大きいのかも知れない。


『時計師の不審死』というカフティの言葉が頭をよぎる。


 彼が言っていたのは本当なんだ。


 儀式のようなものを行った形跡、失踪した時計師も事件に巻き込まれたのでは、あれこれ推測するような記事が並んでいる。


 読んでいるうちに寒気がしてきた。


 記事には遺体が見つかった場所や殺された時刻、遺体の様子が詳細に書き込まれており、図解してある記事もあった。


 儀式の中には多数の遺骨を用いたものもあったようだ。どこの誰だか特定できない大量の女性の遺骨が発見されたと記事に記してある。


 酷いことをする。


 一体、誰が、何の目的でこんなことをするのか。


 それに関しての記述もあったが悪魔を呼び出すだの、不老不死の薬だの、現実味が無さすぎてミスティアは思わず鼻で笑ってしまった。


 でもそういう事を信じている異常者が犯罪を起こす場合も多いんだよね。


 そしてこの国には時魔が存在する。この死を象徴する存在を蔑むのと同時に時魔に魂の再生を期待させる存在として考える者もいる。


 まぁ、死者は決して黄泉がえりはしない。心臓が止まれば死ぬ。生き返ることはない。


 作業を繰り返しているうちに特に目ぼしい記事もないままあっという間に四年前の春先の記事まで読み込んでしまった。


 流石に目が疲れてきたな。


 もう今日はこれぐらいにしておこうかな。


 そう思った時、一つの見出しが飛び込んできた。


『王家に仕える貴族、死者蘇生の実験に関与』


 何、これ?


 記事の内容は王家に仕える子爵家が死者を蘇生させるための実験をしていたという趣旨のものだった。子爵の名は伏せられているが、そこには王宮警羅隊として国に仕えていた豪傑とある。


「まさか……」


 悪い予感がする。


 ただ文字を視線で追っているだけなのにこんなにも心臓が大きく跳ねる。


 血の気が引くような寒気もあり、気分が悪くなる。

 これ以上は読んではいけないと心のどこかで警鐘が鳴るのにミスティアは読むのを止められない。


 記事の最後には貴族は逃亡し、行方不明になっていると書かれており、それ以上の情報はなかった。


 名前はない。だが時期としては一致する。


 彼が彼ではなくなった理由がここにあるかも知れない。


「もっと詳しいものは……」


 読み進めていくと逃亡した貴族が一連の事件に関与しているのではないか、捕まらない限り事件は続く、様々な憶測が書かれている。


 そもそも死者蘇生って何? 馬鹿なの?

 死者が生き返る訳ないだろ。

 そんなことは子供でも分かることだ。


 だがその実験をしていた、関与していたと記事にはある。


 まだ確定ではないし、そんな風に思いたくはないが彼の父親が記事にある貴族だとしたら……。


 ミスティアがそんな風に考えているとガタガタっと音がする。


 まるで強風が窓ガラスを揺らすような音だ。


 風が強いのだろうか? 


 ミスティアは休憩を兼ねて一旦、新聞の記事を元の場所に戻し、一番近くの窓に歩み寄った。辺りはすっかり暗くなっていて、窓ガラスには明るい室内と自分しか映っていない。


「そんなに風が強い感じはしないけど……」


 窓の外にある木の枝は揺れているだろうか? 

 風の強さはどの程度なのだろうか?


 そう思ってミスティアは自分の顔を窓ガラスにくっつきそうになるぐらいまで近付けて外を覗き込んだ。


 暗くてよく見えないな……。


 調べ物に眼球を酷使し過ぎたかもしれない。

 ミスティアは目元を擦って、今一度、窓の外を見ようと目を凝らした。


 しかし視界に入って来たのは綺麗に手入れをされた樹木ではなかった。


「きゃあぁぁっ」


 それが何なのか一瞬では理解できなかった。だが、それが何者なのか理解するより先に身体が後ろに飛び退いた。


 ミスティアは驚きと恐怖で尻餅を着く。


 ゾッと背筋が凍るような感覚と足が震えて力が入らない。


 窓の外からこちらを覗き込む異形の影がある。べったりと窓に顔を寄せて舐めるようにミスティアを見ていた。


「じ……時魔……なの?」


 震える声で疑問を口にする。


 その疑問に答えるかのように時魔は口元に大きな弧を描いた。


 背筋が再びゾクッと冷える。


ひいぃぃっ! 片目がないぃぃ! 指が欠けてるし!


 肌は腐食しているようで室内からだと青黒く見えており、普通ならあるはずの身体の部位は欠損している。


 それにここ一階じゃないし!


 今いる場所は二階で、外からこちらを覗き込んでいる時点で人間ではない。


『時魔は人を襲う。同じ人間でも時計師を好んで襲い、礼騎士を嫌う』


 カフティの言葉が脳裏に蘇る。


「もしかしなくても私を狙ってます……?」


 時魔はミスティアから視線を逸らさない。一つの目玉がこちらをじっと見ている。


 ますで捕食者や獲物を前にして涎を垂らしているかのようで、ミスティアは身震いした。


 落ち着け、私。まず、時魔は建物の中には入って来れないんだから。


 建物内には結界が張ってある。この国にある建築物のほとんどは礼士が作り出した結界石が出入口に設置されたり、飾られている。その結界石により時魔の侵入を防ぐのだ。


 この目で確認した訳ではないが、図書棟の入り口にも結界石があるはずだ。


 アロンも結界が張ってあるって言ってたじゃん、大丈夫、大丈夫。


 自分を落ち着かせようと心の中で呟く。


「どうしよう……誰かに助けを……」


 しかし、ミスティアは外部との連絡手段を持たない。時魔がうろついているのに自分一人で外には出れない。


 私がいないことに誰かが気付いてくれればいいんだけど……。


 けれども時魔がいる夜に自分を探しに来てくれるか怪しい。


 とりあえず、廊下に出よう!


 時魔の強烈なアイビームに耐えられない。

そう思ってミスティアは這いつくばるように廊下を目指す。


 廊下に出て扉を閉める頃には脚の震えも収まってきた。


 最悪の状況を考えるとこの図書棟で一晩を過ごさなければならないかもしれない。


 廊下に出ると自分がいた部屋以外の明かりが消えていることに気付いた。


 窓の外を見れば辺りも暗いが雲の切れ間から覗く月だけは明るく美しかった。


「あぁ……明るいうちに戻れば良かった……」


 ミスティアは後悔した。調べ物に夢中になって時間を気にしていなかったことを悔いた。


 今更遅いのでとりあえず一階に移動することにし、灯りの消えた廊下を壁つたいに歩き出す。


 ってか、どうして灯りがみんな消えてるわけ?


 灯りは動力石という鉱物資源を利用した電気だ。動力石から発生するエネルギーを電気に変えて利用している。城の中は電源を切らない限り夜も廊下の灯りは明るいままだ。


 電気消すなら言えよ! 信じられない!


 酷すぎやしないか、と内心毒づきながら壁に手を添わせながら廊下を歩き、階段を降りて行く。


コツコツと自分の靴音だけが廊下に響いて、ここには自分しかいないことを思い知らされるようでとても虚しい。


「はぁ……なんてこった」


 元はと言えば、夢中になり過ぎて時間を忘れていた私が悪い。


 今の自分にできることは先ほどの時魔から身を隠してジッとしていることと、誰かが助けに来てくれた時にすぐに気付ける場所を見つけることだ。


 図書棟の入り口近くにあって、時魔の視界に入らない場所を探さないと。


 足元が暗いので慎重に一段ずつ降りていく。階段をのぼった時には何とも思わなかったが降りている今はやけに長く感じる。


 ようやく階段を降りて一階に辿り着く。

 とりあえず、エントランスまで行こう。


 図書棟は出入口の扉をくぐると広々としたエントランスが広がり、すぐに右側に大きな階段があり、二階へと続いている。

正面から奥へ進むと小さな階段を降りれば自分を取り囲むように本が並んでいる。中央は三階分ぐらいまで吹き抜けで、天井から床のぎりぎりまで本でぎっしりだ。

エントランスの左右に通路があり、ミスティアは左通路から進んだ先にある階段から二階に上がったので、その通路を引き返す。


 新聞記事や雑誌などの定期的に増える文書については別室に保管される。ミスティアがいた別室も十分な広さだが中央ホールには及ばない。


 昼間に見た時は空間を埋め尽くす本に圧倒された。

 昼間は人も見かけたが今の時間は当然だが人の気配はない。


 本当に建物内の電気を消す前に教えて欲しかった。


 ミスティアがいないことは誰かが気付いてくれると思うか、時魔が現れる闇夜の中、ミスティアを探しに来てくれるとは限らない。


 ふと、思い浮かんだのはウォークの姿だ。


 ないない。そんな都合のいい展開は。 

頭を振り、すぐにその姿を打ち消した。


けれども誰かが来てくれる可能性もある。誰かが気付いてカフティや礼騎士に伝えてくれるかも。


「そう言えば、リーズさんって人が夕食後に来るって言ってたような……」


 それであれば、助けに来てくれる可能性も高い。


 ミスティアの心が少し明るくなる。


 どうせ、時魔は結界で建物内には入れないし、最悪の場合は床で寝て明るくなるのを待てば良いのだから。


 そんなに怖がることはない。


 前向きに考えて未だに震える腕を抱いた。

 歩きながら玄関のある図書棟のエントランスに辿り着いた。


 鼻を抜ける空気に不快感が混ざることに気付いた。


「うっ……この匂いは……」


次第に不快感が高まり、そちらに向かってはいけないと頭の中で警鐘が鳴る。


 しかし確かめなければならないと思えば、足が動く。


 ドクンと心臓の鼓動が大きくなり、鼻に抜けるのは鉄が錆びたような匂いと生肉が放置されているような悪臭だ。


 ミスティアは吐き気が込み上げる胸を押さえてゆっくりとエントランスを通り、図書棟の中央ホールに向かう。


 中央ホールの方から微かに物音がすることに気付いた。


 水溜まりを歩くような、水が跳ねるような音に混ざり、獣が獲物を引き千切り、咀嚼するような音が聞こえてきた。


 嫌な予感がする……。


 暗くてよく見えないが複数の気配が蠢いている。


 一体、何が起きてるの……?


息を殺して中の様子を探りたいが、冷や汗が止まらない上に、手足も再び震えていた。


 ミスティアは怖くなり、それ以上進まず、隠れるように柱の陰に身を寄せて中央部分に目を凝らした。


 タイミングよくホールの天窓から月明かりが差し込んだ。


 視界に映った光景にミスティアは唖然とした。


 かつては人だった者達が獣のように何かを貪り、食い荒らしている。

 本棚に無造作に置かれた身体の一部、階段下に横たわる人の身体は欠損部があり、かなり損傷していて、床は血の海だった。


 悲惨な光景に恐怖が膨れ上がるのは一瞬だった。


「うそ……何で、時魔が……」


 脳裏に幼かったあの日の光景が蘇る。


 光のほとんど入らない薄暗い部屋、床に転がる屍と広がる血の池、耳を引き裂くような時魔の奇声、あの日の状況と今の状況は酷似していた。


 逃げなきゃ……気付かれないうちに、外へ……。


 そう思った時、水溜りに足を突っ込み、ビチャっと大きな水音を立ててしまった。


 はっとした時にはもう遅く、複数の時魔がミスティアに気付いた。


 時魔達の意識がミスティアへと集中するのが分かる。それと同時にミスティアは駈け出していた。


 ヤバイ! ヤバイ! ヤバイ!

 早くここから出なければ!


 震える足を無理やり動かして、全力で玄関の扉を目指す。


 暗くても廊下の窓から入り込む月明かりがミスティアを玄関の扉の前まで導いてくれた。


「ちょっ、何で⁉ 何で開かないの⁉」


 押しても引いてもガタガタと音を立てるだけで扉は動かなかった。


 手が震えてなかなか力が入らないから開かないのだろうか?


 扉に命一杯、力を加えているつもりなのにビクともしない。


 後ろを振り返ると寸での所まで時魔の腕が伸びていた。


「きゃあぁぁっ」


 ミスティアが身を捩って避けるとミスティアを目がけて突っ込んで来た時魔が激しい音を立てて扉に衝突した。身体の一部がぐちゃっと潰れて腐食した肉片が飛び散った。


「ひっ」


 ミスティアは扉からの脱出を諦めて、再び駆け出した。


 振り向けば、先程とは別の時魔が二体ほど追いかけて来る。


 潰れた時魔は動けなくなり、動けなくなった時魔を別の時魔が引き裂いているのが視界に入り、ゾッとした。


 嫌な汗が額から噴き出し、縺れる足を動かして階段を上がり、気が付くと調べ物をしていた資料室に戻ってきてしまった。無意識に明るい方へと誘われたのか、足が自然とその部屋を目指していた。


 ミスティアは灯りのついたままの部屋に飛び込み、扉を閉めて内側から押さえた。


 扉が動かないように力一杯に内側から押さえた。


 扉を破ろうと体当たりでもしているのだろうか、ドツン、ドツンっと大きなものがぶつかる音と振動が伝わる。


 お願いだから来ないで!


 内側で必死に祈りながら、向こう側からの振動に耐える。


 そして頬を掠める冷気に背筋が冷えた。


 冷たい外気を肌に感じ、ガクガクと足が震え、諦めにも似た感情が大きく膨れ上がった。


 エントランスと中央ホールの惨状を目の当たりにして、時魔に追い駆けられ、逃げることに必死でミスティアは失念していた。


 そもそもこの部屋を出たのはこの部屋の外に現れた時魔から身を隠すためだった。


 時魔が建物内にいたということは、結界は正常に機能していない。


 外にいた時魔が窓を破って室内に侵入している可能性を何故考えずに戻って来てしまったのか。


『ハァァー』


 まるで吐息のような音が聞こえた。


 卵が腐ったような腐敗臭が冷たいと共にミスティアの顔に纏わりつく。


『イタイィィィ、目ガアアァ……カエセェェェ』


 掠れた声のような音が耳に触れる。


 先ほど見た、目のない時魔だとすぐに分かった。


 すぐ背後に感じる気配に恐怖し、心臓と肺が潰れそうなほどの息苦しさに襲われる。


 もう私死ぬの? せっかく命拾いしたのに?


 店に王宮の騎士達が乗り込んできた時、カフティとウォークがいなかったらミスティアは牢獄にいたかもしれなかった。


 また会えたと思ったのに。


 脳裏に浮かぶのは眩しい金色の髪を掻き分けて、優しく微笑むあの日の彼だ。


 今、私を殺すなんて……。


「絶対恨んでやる……! 神様……!」


 神様なんて信じない! 生まれ変わっても絶対信仰してやらんからな!


 心の中で決意をし、無意識に頭と心臓を守ろうと、きつく目を閉じて身体を丸めて縮こまった。


 ドガアァンっとけたたましい音と共に扉が突き破られた。


 まるで雷が落ちたような轟音で細い煙のようなものが部屋をくゆる。


 木製の扉の破片が辺りに散乱していて、驚くべきことに扉はミスティアがいる内側から破壊されたということだ。


「え、やば……」


 物を焦がしたような匂いで腐敗臭は完全に掻き消され、不快感が払拭された。


 一体何が起こったの?  


轟音と共に扉が破壊され、時魔の姿も消失している。


ミスティアのすぐ背後にいたはずの時魔も、扉の外にいたはずの時魔さえも姿が見えない。


 もう何が何だか分からない。


 今の状況が理解出来ず、ミスティアは混乱していた。


「怪我は?」


 すると、座り込んだミスティアの頭上から声が掛けられた。


 彼はすぐさまミスティアの前に跪いて、ミスティアの顔を覗き込んだ。


 ふわりと騎士服の上着の裾が揺れて、彼より遅れて床に着地する。


 自分の目に彼の姿を捉えた瞬間に安堵で身体中の力が抜けていく。


 滲んだ視界の中で彼は少し困ったように笑みを浮かべて言った。


「よく頑張ったね」


 優しい声が心地良く耳に響く。

 不安と恐怖からなる緊張が解け、彼の言葉が心に沁み渡る。


 ミスティアのきつく握りしめていた手にそっと触れる。


 手の震えが収まるように強く握って欲しいぐらいなのだが、触れることにためらいがあるようで控えめなのが彼らしいと思った。


 それでも大きな手がミスティアの手を包み込むと、その温もりにようやく生きた心地がして、自分が生きていることを実感できた。それと同時にもう大丈夫なのだと安心できた。


「気付くのが遅くなってごめんね」


 頬を流れる雫を振り払うように首を降った。


 謝るのは私の方だ。こんな風に迷惑をかけるつもりじゃなかった。


 貴方のことが知りたくて、少しでも力になりたいと思っただけなのに、かえって仕事を増やして迷惑をかけてしまったことが恥ずかしい。


 注意を受けて、それを守らなかったのは自分で、それでいて危険な目に遭うなんて馬鹿みたいだ。


 それでも彼はミスティアを責めない。


 それが逆にミスティアをいたたまれない気持ちにさせるのだが、それより先に言わなければならないことがあるのに、なかなか口に出来ない。


 ボロボロと零れ続ける涙がなかなか止まらず、嗚咽まで出てくる始末だ。


 彼の腕が背中にまわり、遠慮がちに背中を撫でてくれた。


 その手のぎこちなさがまた彼らしく、伝わる優しい温かさに胸が締め付けられる。


「気付いて……くれ……てっ、ありが……とう……」


 息を整えて、震える声を絞り出すようにミスティアは言葉を紡いだ。


 あの時もそうだった。


 彼が気付いて助けてくれなければどうなっていたか分からない。

 近づいたことで香ってきた彼の匂いが懐かしい思い出を呼び起こした。


 あの日と同じ彼の優しい香りはミスティアの心をこれ以上ないぐらい安心させてくれるのだ。


 もうウォークだろうがキースだろうが名前なんてどうでもいいのでは?


 普通に考えてよくはないのだが、一度に色んなことが起こったのでミスティアの脳内はかなり混乱している。


 大事なのはあの時の『彼』が、今の『彼』であるということだ。


 ミスティアはふらつくフリをして彼の身体に少しだけ寄り掛かった。


 その際、彼は少しだけ緊張したように身体を強張らせたのが分かった。


 女慣れしていないのも変わらないらしい。


 何か……前より悪化している気がするんだけど……。


 しかしそれすらも懐かしくて、今も彼の近くにいられることが嬉しいと思えた。


「……どっちだって構わないわ……」


 ミスティアが小声で呟くと聞き取れなかった彼が首を傾げた。


「今、何て言った? 聞き取れなかったんだけど……」


 もしかして、どこか痛い? と控えめに言う。


 その声にはミスティアを気遣う様子が見て取れ、その瞳は心配そうに揺れている。


 ミスティアは何でもないと首を降る。


 ウォークだろうがキースだろうがどちらだって構わない。


 あの時もそうだった。この人の力になれたら、なんて思ったことがあったっけ。


 胸の奥が疼くような感覚にミスティアは既視感を覚える。


 今度こそは……私が力になりたい。


 そっと彼の頬に唇を寄せた。


 私にとっては今、ここにいる優しくて頬を真っ赤に染める『彼』があの日の優しくてちょっと意地悪な『彼』に違いないのだから。


 気付くと廊下が騒がしくなっていた。


 廊下を駆ける足音に人間の精気のようなものを感じてほっとする。


 名前を叫ぶ声がすぐ側まで迫ってきているのを察してミスティアは目元を拭った。


 何か言いたそうにしている彼を無視して廊下に向かって叫ぶ。


「フェルナンデス様と私ならここにいます!」


 先ほどまで恐怖で震えていたとは思えないほど大きな声が廊下によく響いた。




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