盆の一幕
「あっついなぁ」
俺は大きくうだると団扇を激しくばたつかせた。遠くの夜空で煽るかのように、赤や青の花火がチカチカと爆散してやがる。近くにあったビールを手繰り寄せグイっとあおる。黄色いしずくが大口の中にポタリと落ち、舌の上でシュワっと消えてなくなった。チッと舌打ちし、ポイっと投げ捨てる。台所まで行けば冷えたビールにありつけるのだろうが、熱帯夜という言葉を想起させるこの暑さにやられて、全てが面倒臭くてならない。
世はお盆。ご先祖方々が帰ってくるこのクソ暑い時期の帰省ラッシュに、俺ももれなく便乗。そして炎天下を溶けながら帰ってきたというわけだ。築27年の愛すべきボロ実家に帰ってきたのはいいものの、まさかエアコンが壊れているとは思わなんだ。
「たちあき~スイカあるけど食べる~?」
能天気な母さんの生ぬるい声が、酔った感覚とともにむわっとまとわりつく。
「んぁ~今なんもいらねぇ!」
もう何年前だろうか?こんな感じで、勉強してるの?と怒鳴られていたのは。あの時も、んぁ~やってるって!てな感じでけだるく反応してたっけ…。気まぐれな回想に身をゆだねながら、昭和から生き残ってきたらしい扇風機をけだるく抱え込む。窓の外ではしょーもない花火がドンパチ上がり続けている。少年時代を過ごした四畳半のこの部屋は、花火に祭りを見下ろすにはなかなかな場所だった。
ヒュ~…ドン…バババ………
照らされた硝煙が覇気なく揺れているのがかすかに見える。無理もない。この暑さで火元にいるんだから。夏バテ気味なんだろう。
ヒュ~…ドドンッドンッドン……ザッ…
花火は近くの寺で打ち上げられているらしい。寺のあたりに目を凝らすと、田舎に似合わないカラフルな浴衣が目に映った。軽快な盆踊りのお囃子が聞こえなくもない。こんなに暑いのによくやるよ。
ヒュ~ドンッバババ………ザァ…ザザッ
ふと耳慣れない音が混じっていることに気づく。バッと後ろを振り向くと、見慣れぬ物、いや、先ほどまでそこに居なかったはずの者が目に留まった。酔いと血の気がスーッと冷めていく心地がする。あまりの驚きに叫ぶこともできず、俺は目をカッと見開いてそれをただただ見ることしかできなかった。
そいつは踊っていた。花火が上がる音に合わせて体をゆらゆらと不気味に揺らしている。そのたびに、床に垂れた和服の裾がザザッ…ザァ…と畳の床をこすっている。小学生を思わせる小柄な体つきで、きれいだが古臭さも感じられる少しブカッとした花柄の和服に身を包んだそいつ——その女の子は不気味にぼそぼそと何かをつぶやいているようだが、よく聞き取れない。
突然その子の動きが止まった。バラりと垂れた長髪の隙間からうつろな目がこちらをじっと見ている。心の奥底まで見透かされた気がして思わずぶるっと震えが走った。
ヒタリ…ザァ……ヒタ…ザァ…
その子がゆっくりとこちらへ歩き始めた。両手を前に突き出し、うろんだ目でこちらをひたと見据え、薄気味悪い笑みを浮かべながら相変わらずぶつぶつと何かをつぶやき続けている。
ヒタ…ザザ……ヒュ~…ザザ…ドドン……ヒタリ
俺はピクリとも動くことができなかった。ただ、この状況を理解すべく頭だけがフル回転していた。この家には今お袋と俺しかいないはずだ。ザザッ。俺に姪や従妹の類はいない。この近所にガキはいない。ヒタ。過疎で困ったという話を昼にお袋としたばかりだ、いやどこから来たこの子は、ヒュ~、俺の部屋だぞ、俺しかいないはずだなぜ和服なんだなぜこちらへドドン来ている来るな不気味だなんだこのヒタ寒気はどこから何をしに来たどうし……て……ヒタリ。
すぐ目の前にあの空虚な目があった。こちらの目を、目の奥を、奥底をじっと見つめるように、座りこんだ俺を見下ろしている。畳の、イグサの濃いにおいと線香の独特な香り、和服の黴臭さがツンと鼻をつく。
「…魔…盆と……月…つより様……菱も…」
多少抑揚のついた単語がいくつか聞き取れるが意味は分からない。か細い手がフッとこちらに伸びる。アッとなって思わず腕で顔を覆いギュッと目をつむった。ヒヤリ、とした感触がゾワッと腕に伝わる。
「ヒッ…………………ん?」
特に何が起こったでもなかった。ヒヤリとした感触は身構えた両手にとどまっていた。どうやら両手を握られているようだ。恐る恐る目を開いた。さっきとは違い、潤いのある目がこちらをのぞき込んでいた。
「琴に三味線…笛太鼓…冷たくなりましたか?手は。」
「えッ?はぁ…え、いやぁ…」
あまりに予期せぬ問いに、俺は言葉を詰まらせた。この子は…俺の手を冷やそうとしているのか?は?いや脈絡がなさ過ぎて意味が分からない。確かに、触られている手は保冷材のように冷たいが、俺の手を冷やすことで何が起こるというのか。
俺のどっちつかずの反応をじれったく思ったのか、その子は先より強い力で手をギュっと握った。特に害はないようだし、恐れるような相手ではないのかもしれない。そう思ったとたん、相手をするのが面倒臭く、馬鹿らしくなってきた。
「お嬢ちゃん、君がどこの子だか知らないけどね、ここはおじさんの家だよ?勝手に入っちゃダメじゃないか。」
「柳島…縞の財布に…五十両……冷たくなりましたか?手は。」
女の子は首をかしげながら、小さく震える声でまた同じ質問をしてきた。これだから子供は。話が通じない。
「あのね、そんなことはどうでもいいんだ、おじさんは今君の相手をしている暇がないんだよ、ちょ、母さん!近所の子供が入ってきてるぜ!だから田舎でも鍵かけろって言ってるだろ!、さあほら、さっさとどこかに行きなさい——いって!」
女の子の手を振りほどこうとしたが、存外強い力でつかみ返してきた。もはや小学生なんてレベルの力ではない。そして握られた手の先から凍えるような寒さが腕を伝い這い登ってきた。
「十匁、十匁の鉄砲。二つ玉。冷たくなりました?手の方は。」
女の子は先より大きな声でそう聞いてきた。パッと目を見ると、寒々しいまでに凛とした瞳がこちらを見返してきた。ずっと見ていると体の芯まで凍り付きそうだ。
「こ、こら、離しなさい!いたたっ…くっ…」
凍傷になった時のような痛みが指先から広がる。立ち上がりたくても、握られた力が強すぎて少しも動けない。女の子を中心にして、畳がピシパシ音を立てて凍りついていくのが目に入った。
「大元祖!宗匠の出るのは芭蕉庵!さあ、冷たくなりました?手の方は!」
どんどん声は大きくなり、それに合わせて轟轟と部屋の中に風が押し寄せる。切り裂かれるような痛みをほほに感じあたりを見渡すと、部屋一帯は吹雪のような有様で、雪や雹が激しく宙を舞っている。
「クソッ何なんだ…やめろ!…やめてくれ……頼む…」
「どんちゃんちゃんちゃんやおっかあぁぁぁ冷たくなりましたか手の方はああぁぁぁ!!!」
呪文のようなぶつぶつとした声はいまや轟となり、鼓膜をびりびりと振るわせるほどに大きくなっていた。もはや腕に感覚はなく、寒気は胴にまで至っていた。雷鳴のような彼女の声に気おされ、俺は歯をカチカチ鳴らしながら声を振り絞る。
「あぁ…はあぁ、はいぃ…つつぅつめらくないまひたぁぁ。」
フッとあたりが静かになった。体中に広がっていた痛いほどの寒さもほぼ消えている。彼女は変わらず俺の手を、だが今は優しく、握って微笑みながらきれいな声で囁いた。
「お暮れが過ぎたらお正月、お正月の宝船。手の冷たい人は心が温かいと聞きます。冷たいですよ。いまのこの手は。」
「は?え…あっ……」
彼女はフェードアウトするかのように消えていった。途端に、夏祭りのお囃子と花火の上がる音が耳を打つ。はっと我に返りあたりを見回すが、何の変哲もない四畳半の部屋が映るばかりだった。和服の少女はおろか、先までの寒さの片鱗すら感じさせないほど、夏の暑さが部屋を満たしている。
年季の入った畳に指を滑らせながら問う。何だったんだ、今のは。得られた返答はざらざらと乾いた感触。訳が分からなかった。が、なにか心のどこかを突かれたような気もする。ふと思い出すようにして喉の渇きに気づいた。大きく息をつき台所へ向かう。
「母さん~やっぱスイカ食うわ~」
台所では母さんがちょうどスイカを切り終えたところだった。
「なんねたちあき、さっきは食べんて」
「なぁ母さん、変なこと聞くが和服の女の子知らないか?花柄で、髪がこれくらいの。」
母さんは怪訝そうな目で、身振りを交える俺を見るとフッと笑った。
「なーにあんた、酔っぱろうてからほんにまぁ…ほら、居間で食べるからあんたも来んさい。生け垣がなくのうてから花火がよう見えるんよ。」
母さんは山盛りのスイカをすたすたと運んで行った。残りのすいかに目をやった俺は包丁を手に取る。
「母さんちょっとこれ使うで。」
「え?なぁに?」
「まあまあ。」
パパっと部屋に戻ったが、やはり誰もいないし、何もおかしな点はない。
「たちあき~早よ来んね!」
「……今行くって。」
最後にぐるっと部屋を見渡した俺は、小皿に盛った一切れのスイカを畳に置くと、踵を返した。
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