第15話 葵祭

 葵祭と言えば、路頭の儀だろう。平安時代の宮廷装束に身を包んだ約500人の行列が、京都御所から上賀茂神社まで練り歩くのだ。

 路頭の儀は、御所から下鴨神社までの前半と、そこから上賀茂神社までの後半の二つに分けられる。当日は交通規制が行われるので、予定通りに進むことが多い。

 行列は10時30分に京都御所を出発する。御所を出ると、丸太町通りを東へ行って、そのまま河原町通りに入り、そこを北へ進む。そして、鴨川に架かる出町橋を渡って、11時40分に下鴨神社に至る。

 そこで社頭の儀を行ったあと、昼食と休憩を取って、14時10分に下鴨神社を出る。そのあと、下鴨本通りを北へ向かい、北大路通りに入る。そこを西へ進み、北大路橋を渡って、鴨川沿いの賀茂街道を北へ街道の終わりまで進む。それから、御園橋を渡って、15時30分に上賀茂神社に到着すると、路頭の儀は終了となる。

 

 結局、稲宮は清川を泊めることにした。

 自分だけ授業に行くのは忍びなかったので、同じように授業をサボり、表面を撫でるような時間を彼女と過ごした。深く入り込むのは怖かった。彼女と育んできた大切な何かが崩れそうだったからだ。

 今、彼の目を引いているのは、新緑の木々に飾られた賀茂街道を左右に二人ずつ並んで歩く、騎乗した六人の男だ。彼らは乗尻という列の先頭役で、右方の乗尻は黒の装いを、左方は紅い装いをしている。その後ろには鮮やかな色の流れがずっと続いている。

 稲宮は近づいてくる美しい行列を、周りの見物客と同じようにじっと見ながら、隣に立つ清川へ、

「本当は香山さんと来る予定だったんだ」と言った。

「香山……」

 清川は、数秒、口を閉じると、

「あぁ、前、光が話していた人のことね……。どうして、彼と行かなかったの?」

 言おうか言わざるか迷ったが、

「……死んだんだ」

「そうなの……」

 会話が途切れる。稲宮は彼女も自分と同じように、香山の死を悲しんでくれただろうかと不安に思った。

「ほんまに静かな祭やね」誰かの話す声が聞こえる。

「そういう祭やからね。天下泰平と、五穀豊穣を、下社、上社にお上が祈る。他のどんちゃん祭とは違う厳粛な祭なんや。平安京のころ、祭といったら、葵祭を指したくらいや」

 平安の流れが稲宮の前を進んでいく。

 十二単姿の斎王代の乗る輿が来たとき、清川の表情が救いを求めるような感じになって、

「でも、よかったじゃない」

 稲宮は怯えながら、

「……なにがよかったの?」

「香山さんが死んで」

 稲宮の心を悲しみが刺す。彼は清川の手をそっと握り、

「文……」と彼女の横顔を見つめる。彼女は握り返してこない。

「だって、光の話を聞く限りでは、香山さんは光に恋愛感情を抱いていたようだし。光も災難だったね。でも、これで解放されたのよ」

「文、少し話すのをやめてよ……怖いよ」

「ああいう種類の人間には、何をやっても許されるの。だから、光に僅かの罪もないよ」

「……そんなこと言っても、文が寺山さんの感情を自己の欲望のために利用した事実は消えないよ」

 言ってしまってから、稲宮はハッとした。

 清川が唇を噛んで、彼を睨んでいる。

「あなたに千代の何が分かるっていうの……あれが千代の幸福なのよ」

 稲宮は希望が完全に失われたのを悟って、手を離す。

「……僕、先に帰ってるね」

「勝手になさい」

 清川が行列の方に顔を向けると、稲宮は泣きたい気持ちを我慢しつつ、歩き出した。


 稲宮がアパートに戻ると、香山の部屋の前に二人組がいた。二人ともドアの方を向いている。一人は黒いシャツにブラックデニムを穿いた、背の高いすらりとしたポニーテールの女。彼女は黒いトートバッグを肩に掛けている。もう一人は車椅子に乗って黒のパーカーを着ている。小柄でフードを被っているため、性別はよく分からない。

 稲宮は香山の知り合いだろうと考えて、

「香山さんに御用ですか?」

 女が振り返る。

 冷たいものが稲宮の心に走った。

 彼女の瞳が清川と同じような琥珀色で、その容姿も彼女と非常に似ているような気がしたからだ。だが、雰囲気は清川より少しだけ大人びている。

 女の煌めく大きな瞳が稲宮の方をじいっと見る。

 その視線から稲宮は目を逸らして、

「香山さんは……もう……」

「死んだのよね」

 驚いて女の方を見ると、そこにはうっすらと笑みが浮かんでいる。

「ニュースで見たんですよ。刺されたんでしたっけ? 怖いですね」

 どこか楽しそうな彼女は車椅子のハンドルをつかむと、稲宮の方に正面を向ける。

 それに乗る人の顔はマスクとサングラスで隠されていた。左足は膝から下がなく、ズボンもそこまでとなっている。

「そのニュースを見たこの子が、香山の部屋に行きたいって言ってね。まともな言葉を発したことなんて久しくなかったから、私、びっくりしちゃった」

 稲宮は沸き起こる恐怖を抑えようとしながら、

「鍵は持ってますか?」

「えぇ、大家からもらいました。あなた、名前は? ここに住んでいるんでしょ?」

「はい、香山さんの隣の部屋に。稲宮光と申します」

 女は歯を微かに覗かせて笑むと、

「そうなの……香山とは親しかったの?」

「……よくしてもらってましたよ。髪を切ってもらったりして。今日の葵祭にも、香山さんと行く予定でした」

「へぇ……葵祭に。誘ったのは、香山から?」

 頷く稲宮。

「やっぱりね……迷惑じゃなかったら、香山の話を聞かせてもらっていい?」

「……僕なんかでよければ」

 女は車椅子の人に顔を向けると、愛おしそうに、

「よかったね、宮くん、香山の話が聞けるよ」

「宮くん……」稲宮は、宮くんと呼ばれた無反応の人を見た。

 女は稲宮に不気味な笑みを向ける。

「もしかして香山は、あなたのことも同じように呼んでいた?」


 香山の家に、彼の生活はもうなかった。

 廊下に沿ったキッチンには、かつてはウイスキーやワインの瓶が美しく並び、綺麗に拭かれたワイングランスや白皿が食器立ての中で光っていた。廊下の突き当たりにある六畳の和室には、かつては白木の円卓、ベッド、本棚、厚手のカーテンなどがあった。

 だが、今は何もない。窓からの強い日差しが、そんな寂しげな部屋をむっとさせている。

「もう清掃が入ったみたいね」

 部屋に入った女はそう言って、宮くんに肩を貸すのをやめると、彼を部屋の中央辺りに横座りにさせる。

「……それにしても、この部屋は暑いわね」

「カーテンもなくなっちゃったみたいですしね」

 稲宮は壁にエアコンのリモコンが掛けられているのを見つけると、

「クーラーをつけましょうか?」

「早く涼しくしてちょうだい」

 リモコンを取って電源を入れると、冷風が稲宮の首を撫でていく。

「ありがとう」

 女は宮くんの隣に座ると、手提げ鞄から白いハンカチを取り出して、彼と自分の首回りを心地よさげに拭いた。

 稲宮が無言で女の前に座ると、彼女はハンカチをしまって、改まった調子で、

「自己紹介がまだでしたね。私、荒川文(あらかわふみ)といいます。東京大学大学院で心理学を学んでいます。香山とは高校からの知り合いです。隣の宮くんには、私やあなたのような名前はありません。そういう名前と彼の左足は私が奪いました」

 稲宮は質問をしようと口を開いた。だが、荒川は彼が言葉を発するより早く話を再開する。

「さっ、香山とあなたの関係を話して。ただし……ゆっくり、はっきりとね。この子の耳はあまり聞こえないから。……嫌なら話さなくてもいいよ。だけど、そしたら香山はひどく悲しむんじゃないかな……この子に自分のことを知ってもらえなかったことを……」

「……と、言うと?」

「薄々分かっているくせに」

 荒川は、「ふふっ」と清川によく似た笑い方をすると、

「香山は、宮くんに恋愛感情を、より詳しく言うなら、マゾヒスティックな恋愛感情を抱いていたということよ。あと……あなたが話してくれるなら、私と香山、それに宮くんとの関係も話すわ。隅から隅まで、余すことなくね……」

 

 稲宮は香山について深いところまでは明かさないつもりだった。

 だが、荒川の、「話はそれだけじゃないでしょう」というような眼差しに、自分が知っている香山の最深の情報――例えば、香山が少女じみた少年のような女と乱暴に交わることを好んでいて、そこにはどうやら自分が関係しているようだということ――まで気づくと告白してしまっていた。

 稲宮の話が終わると、荒川は勝ち誇ったように声を上げて笑って、

「なるほど! あいつはあなたをこの子の代替としていたのね! あなたもまれに見る少女的な容姿をしているものね……」

 荒川は幸福そうな表情で鞄から写真を取り出して畳に置く。

 木々を背景にして、可愛らしい容姿をした笑顔の少年と、彼の足元でぐったりとしている顔の潰れた猫が写っている。

「この子の写真よ。綺麗でしょ? だけど、今はね……」

 彼女は宮くんのマスクとサングラスに手を掛ける。彼は嫌がる素振りを見せたが、彼女から耳元で何かを呟かれると、抵抗をやめる。

 覆いが取られて素顔が明らかになる。

 稲宮は、「ひっ」と顔をゆがめた。

「やっぱり宮くんの顔は醜いみたいね」と荒川は楽しそうに宮くんへ囁いて、稲宮の方に顔を向ける。

「知りたそうな顔をしているね」彼女の目が誘うように細くなる。

 溶けた皮膚が宮くんの顔を覆っていた。

 唇は半分ひっつき、鼻は抉れたようになっている。瞼のない右目から覗くのは濁った黄色い塊。

 だが、彼の左目だけは写真と同じように大きくて整った形のままだ。

「この子はね、薬品が大好きで、趣味はそれで小動物を虐めたり、殺したりすることだったの。私も彼が喜んでいるのを見るのが大好きでよく隣で笑っていたわ。だけど、虐めてきた猫みたいに自分がなるとはこの子も思わなかったでしょうね……」

 稲宮の目を荒川はじっと見つめる。

「宮くんは悪い子でね、色んな女を取っ替え引っ替えしていたの……自分のサディスティックな欲と、あいつのマゾヒスティックな欲のために……」

 荒川の表情が険しくなる。彼女は顔を俯けると、

「どうしてあいつだったのかしら……ずっとこの子といたのは私なのに……。あいつは高校になってからふらりと宮くんの前に現れただけじゃないの……」

 沈黙が訪れる。

 稲宮が黙り込んだ荒川を見ていると、突然、彼女はその視線にはっとしたように顔を上げる。

「言っている意味がわかるかしら……。宮くんは、香山に嫉妬と身を切るような辛さを抱かせることで快感を得て、香山は彼からそのような仕打ちを受けることに快感を得ていたのよ」

「……何故、彼らにそのような関係があったと言えるのですか。二人に聞いたのですか」

「宮くんは、猫を殺したり、私を抱いたりするときよりも興奮していたわ……自分と誰かの情事の話を聞かされた、香山の辛そうな顔を見ているときね……。そして、彼といるときが最も幸福そうだった」

「でも、香山さんの方は……」

「香山の方はあなたももう分かっているでしょう。さっきの写真を見たでしょう? 写真の宮くんと、あなたはよく似ていると思わない? 香山はあなたのことも宮くんと呼んでいたんでしょう?」

「……何もわからないです」

 稲宮は嘘をついた。

「だって、もし香山さんが宮くんのことを好きで、さらに僕を彼の代替にしようとしていたのなら、僕の部屋の隣で僕に聞こえるように交わったりするでしょうか?」

「少女じみた少年のような女と乱暴に交わるのよね。どうしてそのような人ばかりなのでしょうね、しかも乱暴に」

 荒川の顔に気味の悪いほほえみが浮かぶ。

「それは、香山がこの子に深い罪の意識を感じていたからよ……私のせいでね」

 彼女は一瞬、宮くんに顔を向けると、

「風がすごく強かった。だから、任せることにしたの……この子をどうするか」

 宮くんの爛れた顔に稲宮は目を向けて、唯一綺麗な左目がきょろきょと忙しなく動いているのに気づいた。

「あの日、私はいつものように宮くんの遊びに付き合うため、彼の家へいったの……。宮くんは電気も点けないで自分の部屋の片隅に座っていた。じっと床に顔を向けていたわ。私はどうしたらいいか分からなくて、ただ見ていたの。しばらくすると、不意に彼は顔を上げて、『今日は猫を探すのはやめよう』と言った。不安になって、『どうして』と尋ねると、彼は真剣な表情で、『なんだか最近、秀に悪いような気がするんだ』と言ったの……。その瞬間に、私は自分が敗北をしたこと、それどころか勝負にすらなっていなかったことに気づいた……嫌だった、辛かった、彼を私だけのものに、所有物にしたかった……だから、私は風に任せることにしたの」

「風……」

「その日は朝から打ち付けるような風が吹いていた。宮くんが手洗いに行った時、部屋の棚に並んだ薬品の瓶をなんとなく見ていると、その風に任せようという気持ちが起こったの。私はその棚から腐食性の薬品を取ると、瓶の蓋を緩めて、ベッドのそばの窓枠に置いた。そして、窓の鍵を開けると、彼が戻ってくるのを待った……。それから、家に帰って夜を待ったの……。もし風がやんでいたら行くのをやめよう、もし鍵が掛かっていて瓶も取り去られていたら、何もしないで帰ろう、そんなことを思いながらね……」

 稲宮が荒川の顔を見ると、彼女はニコリと笑って、

「でも、暗くなっても風はごおごおしていたし、行ってみると、鍵は開いたままで、瓶も相変わらずそこにあった。私は、宮くんの家の庭で放置された脚立を見つけると、それに乗って窓から部屋を覗いた。すぐ下に彼の寝顔があったよ。窓を開けるのを躊躇したけど、この美しい顔を最後に網膜に映した人間は自分になると想像していたら、いつのまにか開いていたわ……私は庭をこっそり出た……そして、その帰り道で一際強い風が吹いたの……通りのどっしりとした立て看板が倒れるほどだった」

「……それで?」

 荒川は宮くんを愛おしそうに見つめて、

「見ての通りよ。神様が私のものにしてもいいって言ってくれたみたい。私の行為がばれることはなく、事故と処理されておしまいになった。病室にも親の次に駆けつけられて、彼の親に宮くんの今までの異常な行為を打ち明け、その行為の原因はすべて香山から好意を寄せられていたことにあると説明できた――この事故も、もしかしたらそれを苦にした自殺未遂であることを匂わせながらね……。その結果、香山は宮くんの両親からこれからの付き合いを拒絶された」

 彼女の右手が宮くんの頭に触れる。

「香山には、宮くんが自らの美しい顔を破壊したのは、あなたの好意から逃れるためと説明して、彼を転校に追い込んだ」

 宮くんから手を離して、荒川は稲宮の耳元に顔を近づける。

「そして、宮くんには、香山があなたの前からいなくなったのは、あなたの醜い顔が理由と説明した……。そのあと、私の両親に頼んで少し乱暴な手を使って、宮くんを親から私のところへ預けさせたわ……私たちはずっと一緒なの。一度、逃げようとした時があったけど、左足を切断したら私のことがさらに好きになったみたいで、私から離れようとしなくなったわ。でも、たまにさっきみたいに私に反抗することがあるから、こんな風に耳元で囁くの。『次は右足だよ』とか、『その残った左目もぶよぶよの黄色になっちゃうよ』とかね……」

 顔を俯ける稲宮。荒川は楽しそうに彼から離れると、カバンから紙とペンを取り出して、畳に置く。

「香山が宮くんに罪の意識を感じていた理由がわかった? 彼があなたに聞こえるように少女的な少年のような女と粗野に交わっていた理由がわかった? 彼は、ほんとうならあなたを宮くんの代わりに犯したかったに違いないわ。だけど、強烈な罪の意識がそれを止めたのね。あいつは、あなた以外でその欲望を満たす他はなかった。だけど、あなたや宮くんみたいな容姿の男にはそうそう会えるものじゃない。だから、女性の中から探すことにしたのね――交わりが乱暴だったのは、抱いている相手が女だったからじゃないかな、つまり、その女を、宮くんやあなたの代わりにすると同時に、宮くんを奪った私という女の代替にして、攻撃していたんじゃないのかな……。あなたに交わりの音を聞かせていたのは、宮くんの代替であるあなたに、自分のことを理解してほしいという気持ちの表れだと私は思うわ……」

「全部宮くんに聞かれていますよ……」と稲宮は顔を上げる。

「別にかまわないわ!」 

 荒川はおかしそうに吹き出すと、

「どうせ言っている意味なんてほとんどわからないんだから! この子の脳みそなんて恐怖と快楽でぐっちゃぐちゃ! 理解できたとしても、絶対に私から逃げようとしないわ……だって、宮くんは私のものなんだから」

 彼女が宮くんの髪に触れると、彼はびくっと肩を震わせる。

「いい? 香山はもう死んだのよ? ここに来てわかったでしょ? 最後まであなたの醜い顔が嫌いだって言ってたわ。でも、私はあなたをずっと持っていてあげるからね。愛してあげるからね。さっ、この人に香山のことを話してもらったお礼を書きましょうね……」

 ペンを握らされた宮くんはのろのろと紙に文字を書き始める。

「あら、それじゃあ、『おりがとう』じゃないの!」 

 荒川は紙に書かれた汚い文字を見て、幸福そうに笑う。

「ほんとに宮くんは私がいなきゃ何にもできないんだから! 昔はすっごく賢かったのにね。猫と香山を虐めすぎたから、きっとバチが当たったんだね」 

 突然、宮くんはペンを離すと、彼女に寄り掛かり、膝に顔を埋めて「うっうっ」と泣き始める。荒川は、「あああああっ」と絶頂に達したように叫んだ。

 顔じゅうに皺を寄せた笑みを浮かべて、彼をぎゅうっと抱きしめる。

「私の完全なる勝利! 大好き大好き大好き! 香山は死んだ! 香山はもういない! あのゴミ虫は刺されてくたばった! 私の宮くん! 私だけのもの! 地獄にも一緒に行くのよ!」


 二人を見送った稲宮は、自分の家に戻った。

 部屋の片隅に膝を抱えて座り、目の前に置かれた清川の荷物にじっと視線を注いでいた。

 空が暗くなったころ、ドアを強く叩く音が何度も響いた。

 彼は顔を上げて、のろのろと立ち上がり玄関に行くと、ドアスコープを覗く。

 清川が顔をうつむき加減にして立っている。

 慌てて稲宮がドアを開けると、清川は彼の腕をつかんで、ゆっくりと顔を上げる。

「飲みに行きましょう……」

 清川の顔には薄ら笑いが浮かんでいる。彼女の呼気からは、アルコールの匂いが強くする。稲宮をじっと見つめる琥珀の目はすっかり座っている。

 稲宮は破滅を予感しながら、

「入りなよ。お水を入れるから……」

「いや!」

 清川の目が大きく開かれる。表情が殺意に満ちたものになり、彼女の爪が稲宮の腕に深く食い込む。

「飲みに行くのよ! 私の言うことがきけないの?」

「……昼は悪かったよ。謝るから……」

 清川は、「待ってました」というような感じで、ニヤリと笑みを浮かべると、

「何のこと? 光、私に何か悪いことでも言ったの? 私は知らないけど……」

 沈黙する稲宮。

「さぁ、行きましょう! 雰囲気のよさそうなところがあったの。あそこなら、きっとウイスキーも綺麗よ。今日は私が奢ってあげる。何でも飲みなさい。父親……あいつから金をむしり取ってきたの……泣いていたわね……あのまま、自殺でもしてくれればいいんだけど……」

 清川が稲宮の腕をぐいっと引っ張る。 

 稲宮は従うか従わざるか迷ったが、彼女が笑みながら泣いていることに気づくと、靴を履いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る