第14話 紅に 染めてし衣 雨降りて にほひはすとも うつろはめやも

 カーテンの閉め切られた研究室は、窓際の書き物机に置かれた卓上灯の光で、柔らかな黄色に染まっている。その光景は、漂う死臭、本棚に背中を預けて倒れている頭を撃ち抜かれた男の存在、寺山のいないことを除けば、稲宮が出た時と変わらない。

 男の前に立った清川は、彼を見下ろして

「組織の人……。千代が撃ったのね」と呟いた。

 稲宮はソファーの前の机に置かれた、紅いノートと拳銃、そして、太陽のイヤリングをじいっと見ると、ノートを手に取った。

 ぱらぱらとページを捲ると、ポストカードほどの大きさをした紙の切れ端がはらりと床に落ちた。拾い上げてみると、そこには文字がボールペンでびっしりと書かれてある。

 彼は清川が男の方を見続けているのを確認してから、こっそりと読み始めた。


 紅に 染めてし衣 雨降りて にほひはすとも うつろはめやも

(紅に染まった衣、雨が降って、より色濃くなることはあっても、色あせることなどあるだろうか)

 この和歌は、決して消えない恋慕を紅染めされた衣で表したものです。

 稲宮さんはこの歌をどう思いましたか? 一途な恋愛を歌ったすばらしいものだと思いましたか? それとも……。

 私は、この歌を呪いの歌だと思いました。どれだけ洗い落とそうとしても消えない、それどころか逆に鮮やかになってしまうような、希望のない恋慕、成就することのない恋愛を歌ったものではないでしょうか?

 稲宮さん、どうして私ではなく、あなたなのですか。何故、私は文を愛してしまったのですか。

 私が文に愛されたかった。文と相思相愛に、恋人同士になりたかった。

 さようなら、そろそろ不思議な薬を飲むことにします。

 文に、「好きになってごめんなさい」と伝えておいてください。

 果てのない幸福が文に訪れますように。


 読み終えた稲宮の心には、切ない気持ちが渦巻いていた。

 舌の先をぎゅっと噛むと、紙を持った手をだらりと下げて、机に置かれた拳銃をぼんやりと見る。

 少しして、稲宮はあるものに気づいた。

 机とソファーの間に何かが落ちているのだ。

 手を伸ばし、拾い上げてみると、蝶番がついた紅色の小さな長方形の化粧箱だった。

 パカリと蓋を開けてみると、血のように紅い玉石が繋げられたネックレスと、二つ折りの紙が入っている。紙を手に取って広げてみると、「ネックレスの使用方法」とタイトル付けられた活字の文があった。

 稲宮は文字に心を引き込まれるようにして読み始めた。


 ネックレスの使用方法

 このネックレスは、清川文と稲宮光の性行時に、その快感を増す目的で二人に使用されるものです。

 交わりの最中に、交互に首に着けてください。ただ着けるだけでも快感が増しますが、寺山千代の念が深く込められたものを身に着けていることを強く意識すれば、生涯忘れられぬほどの快感が脳に刻み込まれるでしょう。

 ※注意。このネックレスには、「文を肉体的に独占したい」「文と同化したい」などという寺山千代の念が強く込められています。この念は、二人以外の人間が使用することを決して許さず、もし、他の者が使用した場合、その使用者は、その人が最も嫌う死に方で命を奪われることとなります。絶対に、清川文と稲宮光以外は使用しないでください。


「千代は、夢具現化薬を飲んだみたいね」

 清川の声に、稲宮は驚いて顔を上げる。

 彼女は稲宮の横に立って、彼が持っている紙の方に顔を向けている。

「……おそらく、あそこで死んでいる男から奪って。薬の効果は知っていたのかな……」

 清川は少しの間目を瞑ると、

「どうやら、知っていたみたい。あの男がいろいろ話したらしいわ。どうしてかは、よく分からないけど」

「……寺山さんは死んでしまったの?」

「死んでいたら、千代の記憶を覗けないでしょう。具現化物に取り込まれたの。千代の精神と個人空間は動きを止めた。今の千代は、その紅いネックレス」

 稲宮は、自分が寺山に強く惹かれている理由をはっきりと理解していた。

 寺山は稲宮と同じように清川に想いを抱き、命を絶ちたくなるほど心を乱されていたからだ。彼女は、稲宮のあり得たかもしれない姿、清川に想いを拒絶された彼の姿だったからだ。

 稲宮は心を決めると、清川の横顔をじいっと見た。

 その視線に気づいたのか、清川が彼の方に顔を向ける。

 彼女は、はっと目を見開く。稲宮はうんと頷いて、

「……見るからね、全部」と自身の心を彼女の心につなげて、最後に残った黒いものを受け入れる準備をする。

 清川はわずかに口を開いたが、すぐに閉じて顔を俯ける。

 彼女の心から稲宮の心へ、黒いものがどおどおと流れだす。それとともに、稲宮の頭に清川が封印していた三つの記憶が巡り始めた。


 初めの記憶の中で、清川は小さなベッドの中にいて、寺山の身体を後ろから抱いていた。

 場所は北大の寮の部屋。窓の外では、重そうな雪が夜空を降りてきている。

(これならば、千代を愛せるのではないだろうか)

 清川は寺山のあたたかさを感じ、彼女の髪に唇を付けながら思った。

(母を奪った男という生物を私の恋愛から完全に排除できるのではないだろうか。光ではまだ心配だ。彼は見た目がいくら少女のようだとはいえ、生物学的にはあいつと同じ男だ)

 彼女は寺山の耳元に口を寄せると、

「あげましょうか? 千代はかわいいからきっと似合うよ……」

「なんのこと?」と反応する寺山。「かわいい」と言われたことが嬉しかったのだろう、声が少し弾んでる。

「太陽のイヤリング……アステカ展で買ったやつ」

「…………」

「いらないの? 欲しがってなかった?」

「……片方だけ欲しいな」

「片方だけ?」

「……文と同じのを持っていたいの……。あと、左がいい」

 清川は寺山の左耳に頬を寄せて、

「左ね……」

「……どうして左かわかる?」と、寺山は消え入りそうな声で言った。

(千代ならば、子を宿させられ、捨てられる心配もない)

 清川はそう思考しながら、無言で寺山を抱きしめ続ける。

「私が何者なのか、本当の私がどんな生物なのか、文は……」と震えた口調の寺山。

(これならば、千代を愛せるはず)

 清川は何も言葉を返さず、恐れや不安をかき消すように、ただただ寺山をぎゅっとする。

(一線だって越えられるはず……。しかし、男への攻撃はどうしようか?)

 

 次の記憶は夕日で光る湖から始まった。清川は湖沿いのベンチで寺山と寄り添っている。

「……そんな目で私を見ないで。それと、もう手を離しなさい」

 清川は、いつもとは感じの違う寺山の瞳から、自分の左手に重ねられた彼女の右手へ目を移した。

 慌てたような感じで、寺山の右手がスッとのけられる。

 抗いがたい嫌悪感が清川の心に渦巻いていた。

「なんて感情を込めて見てくれたの……」

 清川はそう言いながら、自分が寺山と一線を越えられない、恋愛から男を完全に排除できない事実に絶望した。

「それは友情に対する裏切りよ」

「ごめんなさい……」と寺山は呟き、数秒して、

「でも……でも……文は抱きしめてくれたし、かわいいって言ってくれたし、それに……左に太陽のイヤリングもくれたし……だから、私は……文も……」

 清川の心に怒りと、罪悪感が流れ込む。

「私が悪いって言いたいの?」

「違うよ! そんなこと思ってないよ……」

 清川は、「私は悪くない、私に罪はない」と心の中で呟くと、それを証明するように、寺山の右手に左手を重ねた。

 寺山の手は逃げようとしたが、清川の手にしっかりとつかまれてしまう。

「私たちは永遠に友達だからね。千代が何を想おうと、私があなたと友達でなくなることはない。だから、安心してね……」

 清川は、寺山が震えているように思えた。

 彼女は苦痛を感じているようだった。

 だが、その痛みを無視して、清川は考えた。

「やはり、光を私なしじゃ生きられないようにしよう。そうだ、それがいい。生物学的には男で、見た目が少女のようで、私にひどく依存した光ならば、男性を限りなく排除しながら攻撃できる……。愛しながら、殺せるのだ……」


 最後の記憶は、寺山の頭の中を清川が覗いたものだった。その記憶には、清川の罪悪感と怒りが強く刻まれていた。

 寺山の恋を稲宮はざっと理解した。

 彼女には、二歳年上の死んだ姉がいて、その瞳が、清川と同じ琥珀色だったこと。

 その姉に、恋愛の萌芽のような感情を抱いていたということ。

 友情の継続を望む清川との関係が、いずれ自分の死に繋がるだろうと予想しながら、「もしかしたら」という希望のために、断ち切ることができなかったこと。

 清川から稲宮の話を聞かされた夜は、自室を暗くして包丁をじっと見つめながら、自分の首から噴出する血液を思っていたこと。

 父親が秘密組織に所属していることを知ると、自身の記憶と感情を消すように頼み、清川に危害が加わることを黙過したこと。

 最後には、清川への恋慕に呑み込まれてしまったこと……。


 記憶を見終わると、稲宮の清川への想いは徐々に変化し始めていた。それは、清川への想いの近くに、寺山と、何故だか香山への愛情――両方とも自己愛に近いもの――が出現したからだった。

 寺山と香山への愛情が、清川への想いから熱を吸い取っているみたいだった。

 稲宮は清川に異常な愛を抱けなくなるのが怖かった。過剰な愛の受け手と与え手がいなくなるのが怖かった。

 彼は清川の方に顔を向けて、

「文……」と声を掛ける。

 彼女はいつのまにかソファーに座っていた。俯けた顔を稲宮の方に向ける。ひどく不安げな表情だ。

「北海道にはいつ帰るの?」

「……さぁ、まだ、決めていない。でも、たぶんすぐ帰る」

「もう少しいたら?」

 清川の表情が少し柔らかになる。

「どうして」

「15日に葵祭があるから……。一緒に行きたいなと……」

「授業を休めって言うの? 光もひどい不良になっちゃって」

 弱々しく微笑む清川。

「お祭りまで、私はどこにいたらいいのかな。これ以上ホテルに泊まるお金もないし」

「……僕んちにいたら?」

「光の家に?」

「うん……」

「……変なことしたら怒るからね」

 稲宮は清川の言葉を聞きながら、心の中で、「まだ僕たちは終わっていない」と呟いた。

 だが、彼は自分が何か怖いものを抑えるために、舌の先をぎゅっと噛んでいることに気づいた。

 

 研究室を出る時、稲宮はネックレスをこっそりポケットにしまって、部屋に残った男の遺体と、死の痕跡を消すために、左手から紅い炎を現出させた。

 炎の光で紅くなった部屋を見ていると、不意に稲宮は、幸の言葉を思い出した。

「そう言えば、幸さんが、僕が炎に包まれたのを見て、煉獄がどうたらって言ってたね」

「燃える人は煉獄に落ちてしもた人、捕らわれてしもた人ってやつ?」と清川は幸の口調を真似る。

「そう、それ。どういう意味だろ……」

「はっきりとはわからないけど、なんとなくなら想像がつくような……」と、清川は話し始める。その瞳には紅い炎が映っている。

「煉獄っていうのは、カトリックの考え方で、地獄と天国の間にあるとされている場所。ここを一言で表すならば、罪を浄化するために炎に焼かれる場所よ」

「それは……地獄じゃないの?」

「違う。地獄は、永遠の苦しみを受けなければならない場所で、天国には行けないからね。煉獄の場合は、煉獄の火によって現世での罪が浄化されれば、天国に行けるの。こんな思想が昔のヨーロッパに浸透していたから、贖宥状なんてものが流行ったのね。『これを買えば、今煉獄で苦しんでいるあなたの親が天国に行けます。それに、あなたも煉獄を通らずに天国に行けます』みたいな感じで売ったんじゃないかな」

「……煉獄の火で人は浄化される。だから、幸さんは炎に包まれた僕を見てそう言ったのか。でも、捕らわれてしまったとは……何にだろ……」

 清川はしばらく黙ってから、

「……たぶん、罪でしょうね。罪に捕らわれて、煉獄で火に炙られている……」と言うと、稲宮の方に顔を向けた。病的な笑みが浮かんでいる。

「光はその罪が何だか分かる?」

 稲宮は何も答えない。

 清川の視線を横目に捉えながら、左手の炎で撫でるようにして、部屋に生々しく残った死――飛び散った血、臭い、本棚にもたれている男――を消し去った。

「ねぇ……」と、稲宮は口を開く。

「やっぱり、大阪で過ごしたらどうだろう。お父さんともしばらく会ってないんでしょう」

「……どうしてそんなこと言うの?」

「いや……よく考えたら、僕んち片付いていないし……」

「あいつとは会いたくない。……片付いてなくてもいいから泊めてほしいな」


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