第13話 組織の終わり

 気づくと、稲宮は白黒の球体の部屋にいた。目の前には、清川が背を見せて立っている。  

 彼女は一面がガラスになった壁の方を向いている。

 その姿はもう稲宮の理想とするものではなくなっていた。髪はロングからショートになっているし、服装はパーカーから、水色の半袖シャツに黒のデニムを合わせたものになっている。右耳には太陽のイヤリングが煌めいている。

 そんな彼女の変化を見た稲宮は、自分たちの仕事が終わったのを悟り、そして、理想の姿の清川が消えてしまったことを不安に思った。

「ほら、不思議でしょ?」

 清川が振り返って、稲宮に笑顔を向ける。

 明るい表情を見て、彼は安心した。自分や幸との会話で彼女が深く傷ついているように思えたからだ。

 だが、その安心も一瞬だった。彼女は明らかに無理をして笑っているようだった。稲宮は大丈夫か尋ねようとしたが、彼女の目から、「思い出させるなよ」というような強い思いを感じると怖くなってやめた。

 稲宮は笑顔を作ると、清川に、

「何のことを言っているの。昨日から不思議なことがずっと続いているからどれのことかよくわからないよ……」

 清川は、「ふふっ」と笑うと、球体の下の透明な床をすっと指差して、

「どうして私があそこにいないのでしょうか?」

「……あぁ、そういえば不思議だね、どうしてだろう」

「疑問に思わなかったの?」

 うんと頷く稲宮。

「……やっぱり駄目な人ね」

 清川の笑みが無理をしたものから、自然で加虐的なものになる。稲宮はその笑みにゾクゾクとして、さっきまでの清川を心配する気持ちがぼやけてきた。

「私は黒山さんの世界が崩壊して、私たちの世界が再構築されるときに、あそこから脱出したの。……さて、この私の行為が意味することは何でしょう?」

 稲宮は少し考えて、

「……込められた力を使いこなせてきてる、かな?」

「よくできました、賢い賢い」

 清川はうんうんと頷くと、球体の方を向いて、両手の平をぴったりとくっつける。

「さぁ、光も同じようにして」

 賢いと二度も褒められた嬉しさでぼんやりとしていた稲宮は、はっとすると、球体に近づいて彼女と同じようにする。

 球体に触れたと同時に、数多のイメージが一気に頭へ流れ込んできて、彼は驚いて手を離した。イメージの内容に一貫性はなく、虹色に輝く湖で身体を洗う羽の生えた美少女が登場する幻想的で幸福感に満ちたものから、死体散らばる戦場という絶望的なもの、さらには、赤と青の触手が絡まり合うだけというものまで多種多様だった。

「それはこの宇宙に存在する精神を持つ知的生命体のもの……」

 清川は真剣な表情で稲宮を見る。 

「彼らの個人空間内にある夢世界のイメージが流れ込んできているの」

 稲宮は球体の流動する模様を見ながら、

「僕らは何をしようとしているの?」

「何をって……。光はこのまま街に戻るつもり? 黒山さんはいなくなっちゃったけど、たぶん私たちは、まだ組織のターゲットのままだよ」

「……そうか」

 はっと気づいた稲宮は清川に顔を向ける。

「彼らの記憶と感情を改変するんだね」

「何も分からずに手を置いたの? 黒山さんがやっているのを見てたでしょう?」

「……文がしたからそうしただけだよ。それに、見ただけじゃ分からないよ……というか、どうして文は僕が黒山から説明を受けたことを知っているの? 『遠法』のやり方を知っているのは何故?」

「せっかく二度も賢いと言ってあげたのに……」

 清川はわざとらしくため息をつく。

「さっき、光が答えてくれたでしょ。私は能力を使いこなしてきてるって」

「……もしかして、他人の記憶を自由に覗くこともできるの? 僕と黒山の記憶を覗いたの?」

 清川は自慢げな顔で頷いて、

「えぇ、すごく体力を使うけどね。……だから、光がよく使うジャンルも知っているよ。あんなのが好きなんだね」

 清川の顔にニヤリと笑みが浮かび、稲宮の背中に冷汗が伝う。

「ジャンルってなにさ……」と、彼は必死で平静を装う。

「言ってほしいの?」

 稲宮はしばらく強がっていたが、恥ずかしさに耐えられなくなり顏をうつむける。泣きそうだった。

「光、ごめん。嘘ついちゃった」

「え?」

 顔を上げると、清川がすまなそうな表情を浮かべている。

「安心して。私が覗いた光の記憶は、黒山さんとの会話だけだよ。光を見ていると、少しいじめたくなったの。……さっ、早くやってしまいましょう」

 球体に顔を向ける清川。

 稲宮は清川が自分のことを虐めたくなったことと、苦しむ自分をかわいそうに思ったとことの幸福で、少しの間、彼女の横顔――特に、綺麗な二重瞼の瞳や、その周辺の潤んだ部分――をぼうっと見ると、球体に顔を向けて両手を置いた。

 再び様々なイメージが頭に流れ込んでくる。

 動揺していると、清川が落ち着いた声で、

「慌てなくて大丈夫。今から言うことを心に浮かべなさい。……改変対象、我と清川文を襲った人間と、現時点で襲う可能性の高い人間、そして、黒山歩を長とする組織の人間」

 その声に落ち着きを取り戻した稲宮は、言葉を心に描く。

 すると、イメージの中に深く埋もれるようにしてあった彼の意識が、ロケットが惑星をあとにするようにしてイメージから離れていって、イメージを光点として認識できるようになった。白い光が暗黒にぽつんとしているのだ。

 さらに、意識はそこからも離れていき、徐々に、他の光点が暗闇に浮かんでいるのも認め始めて、ついには、無数の光が意識の前に広がった。

 稲宮は頭の中に広がる光景に心打たれて、

「綺麗……。なんだか、星空みたい……」と呟いてしまう。

 清川はちらりと彼の方を見て、

「……同じようなものかもね。あの光の一つ一つは、私たちが今から改変する人たちの、記憶と感情の塊である『核』。彼らの個人空間と精神にエネルギーを与えるもの。夜空に輝く星も同じように、自分の周りを回る惑星などにエネルギーを与え続けている……」

 彼女は軽くため息をついた。

「まぁ、私たちは今からその星空をめちゃくちゃにするんだけどね……。いい? 光、次はこう念じるの。しっかり念じてね。これで最後、私たちは日常に戻れるんだから」

 清川は球体に両手をつけたまま身体を横にずらして、稲宮に近づくと、ぼそぼそと耳打ちする。 

 それを聞くや否や、稲宮は顔をこわばらせて、

「そんなことをしたら、どれだけの人が……」

 清川は、「ふふっ」とおかしそうに笑う。

「いまさらそんなこと言うなんて光っておもしろいね。ここに来るまでに、たくさん殺してしまっているのに。それだけ殺してしまえば、あとどれだけ殺そうが同じことだよ」

「……でも、あのときは……今回は殺さなくても……」

「念には念を、だよ。殺さないと、私たちのように記憶と感情の復活が起こるかもしれないでしょ……だから、ね?」

「でも……」

 迷っている稲宮の左手に、清川はそっと右手を重ねると、悲しそうな表情で、

「私だって本当はこんなことしたくないよ。でも、それをすれば日常に戻れる。私たちは幸福になれるんだよ。幸さんみたいに死んでからじゃなく、生きている間に私たちの理想が完成するんだよ」

 稲宮は清川の手のぬくもりを味わいながら、自分の罪意識が欲望に殺されていくのを感じた。

 そうっと指を上に置かれた指に絡めて、彼女の顔を見る。

 その瞳には、果てない幸福を求める感情があった。

 彼は、自分と彼女の欲望に従って、こう念じた。

「対象の『核』を、僕たちが自由に生きられるように、そして、対象の人間たちが自殺するように改変しろ。この改変作業を三日間に渡って行え――現在起きている人間は、対象に入っていないから、その間に常に対象の追加を行い、改変し続けるのだ」


 二人は地下の施設を利用して、三日間を過ごした。

 その間、どこからともなく悲鳴や銃声が聞こえてくることがよくあった。施設のあらゆる部屋で、組織の人間の自殺死体に出くわした。首吊り、ナイフで首を掻き切る、頭を銃で撃ち抜く、この三つが主な死に方だった。

 四日目の朝が来ると、稲宮は全てを終わらすために、左手から現出させた炎で、『精神の統合場』を焼き消して、清川とともに廃病院を後にした。統合場が消え去るとき、稲宮の頭には、統合場に捕らわれていた精神の声がどっと流れこんできた。その声は、自らを消した稲宮に対する恨みではなく、解放のやすらぎを祝うものだった。

 廃病院を出た二人は、叡山電車で出町柳駅に戻って、陽光煌めく鴨川の河川敷をしばらくぶらついたあと、駅近くの喫茶店に入り、ホットコーヒーとツナサンドを注文した。

 だが、二人とも手をつけなかった。無言で視線を下の方に向けていた。

 コーヒーが冷たくなったころ、稲宮は清川の不安そうな顔をしばらく見つめると、再び視線を下の方に向けて、

「……寺山さんと会ってね」と口を開いた。

 怯えの色が清川の顔をさっと染めたが、稲宮は辛さを殺して、自分と寺山との間に起こったことをすべて話した。稲宮は、自分が清川を苦しめてまで寺山のことを話そうとするのは、寺山に強く惹かれているからだと気づいた。寺山の辛そうな表情や言動を頭に描くと、まるで自分自身が何か辛い目に遭っているみたいになって、何故だかよく分からないが清川に会わせてあげたくなるのだった。

 話が終わると、清川はぐっと目を閉じた。

 表情が辛そうなものから、何の感情も含んでいないようなものになる。

 彼女は目を開けて、稲宮をじっと見ると、

「それで? 光はどうしたいの?」

「……心配だから、見にいきたい……」

「だったら、光だけで行けばいいじゃない」

 清川の表情が再び辛そうなものになる。

「……文に会わせてあげたいんだ」

 顔をうつむける清川。

 辛くなった稲宮も顔をうつむける。

「光は私を全て受け入れてくれる?」清川がボソリと言った。

 稲宮は聞こえていないふりをして、椅子から立ち上がると、

「……行こう、同志社まで市バスですぐだ」

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