第12話 ビッグブラザーの夢世界

 稲宮の意識が戻った時、真っ先にその目に飛び込んできたのは、広がる海と、手前が太陽の輝く雲一つない青に、その奥が月と星の光る黒に分かれた空だった。

 彼は電車の乗降口のそばに立って、車窓の景色を眺めているのだ。

 彼以外に客はいないようだ。

 車輪の線路を滑る音が、かたんかたんと静かに響いている。照明は点いていない。窓から入った日の光だけが、車内で揺れている。

「久しぶり……」

 不意に後ろから声がして、彼の心臓は高鳴った。

 頭の中だけに響いたものではない。生の声が耳に入ったのだ。肉体の存在もはっきりと感じられる。稲宮は幸福そのものと交わった気持ちになった。

 振り返ると、すぐそばに彼が望んでいる姿の清川がいる。

 グレーのパーカーに、肩まである艶のある黒い髪。

 奪い去りたくなるような輝きに満ちた琥珀の瞳と、魂を愛撫するような優し気な微笑。

 稲宮はあまりの幸福で訳が分からくなって思わず、

「本物の文?」

 清川は、「ふふっ」と小さく笑うと、目を悪戯っぽく細める。

「偽物かもよ?」

 その目の細め方を見て、稲宮は、「戻ってきたのだ」と心で呟くと、彼女の前に跪く。

 だが、彼は、彼女が自らの前に、自分の望んでいる姿、すなわち、高校時代の姿で現れたことに果てのない喜びを感じていることに気づいて、怒りを感じ始めた。

 髭の男から、「君が愛しているのは自らの中だけに存在する清川」という旨の指摘を受けたことを思い出して、それを簡単に否定できない自分自身と、髭の男に殺意が生まれたからだ。

「ぜったい殺してやるんだ!」

 稲宮は清川の白のスニーカーをじっと見つめる。

「ゆっくりと、じっくりと、あぶってやる……」

 清川は稲宮の肩に手を置いて、

「そんな必要はないよ。私たちのやるべきことはただひとつ、彼に理解させてあげることだけ」

 彼女の口調はどこか神々しかった。普段とは違うように稲宮には感じられた。

 稲宮は少し気おされたが、すぐに首を横に振って、

「い、いやだ! めちゃくちゃにしてやる! いっぱい苦しませてやる! 僕にこんな気持ちを抱かせるなんて! 僕の文への感情を汚しやがって! ゆるさない……。ゆるさないゆるさない!」

 彼の左手から炎がめらめらと現出する。

「私はそれを望まない」

 突然の斬るような言い方に、稲宮はひやりとして口をつぐむ。

「……ごめん」

 炎が消えていく。

 しばらくの沈黙のあと、稲宮は頭に手が置かれたのを感じた。

 恐る恐る清川を見上げると、彼女の顔には加虐的な笑みが浮かんでいた。嬉しそうな瞳が彼をじっと見ている。

 稲宮は、それを見ているうちに気持ちが治まってきた。

「さっきも言ったかもだけど、光の心と一体になってから、私は色々な人の心をはっきりと感じ始めてね」

 清川は稲宮の髪に指を優しく絡ませる。

「だけど、今はそれだけじゃない。自分に宿る能力を自由に操れるようになってきている。だから、黒山さんが具現化を行った時、私と光だけは、この世界に取り込ませないようにできたの……」

「黒山さん?」

 稲宮は彼女の指の感触にうっとりとしながら、その瞳を見続ける。

「そう、黒山歩、私をさらった人の名前。彼が具現化したのは、彼が無意識的に望んでいた世界自体。私たちの世界は彼の世界に取り込まれた。……具現化の程度は、込められた感情の強さに左右される。世界自体を具現化するほどの感情、私には想像がつかないわ……」

「黒山……」

 稲宮の心に再び強い怒りが起こり出す。だが、それを察知したように清川の視線が一瞬冷たいものになると、その怒りは彼女から嫌われたかもという恐怖で薄れていった。

「私たちがすべきことはただ一つ、黒山さんに理解させること」

「……理解って何を?」

「幸さんと貴くんが彼を恨んでいないってことを……」

 清川はふと心配そうな表情をすると顔を横に向ける。それにつられて、稲宮も同じ方を見る。

 隣の車両に続くドアがあった。


 稲宮は清川の後ろを付いていく感じで、隣の車両に入った。

 車両には四人掛けのボックス席が左右に三つずつある。

 その左側、海に面した方の一番奥の席から声が聞こえる。乗客はその席以外にはいないようだ。

 稲宮と清川が並んでそこまで行くと、家族らしき三人組が座っていた。

 黒いシャツに藍色のストレートパンツを穿いた、20代後半くらいの幸福そうな表情の男、その対面席の通路側に、白いサマーニットにタイトな黒のデニムパンツ姿の、涙袋が印象的な笑みを浮かべたおそらく男と同年代の女、そして、その窓側には、栗色の髪をした可愛らしい顔立ちの五歳ぐらいの男の子が座っている。

 女は子供の髪を愛おしそうに左手で手櫛しながら、時折、男の方に優し気な視線を送っている。男の子は嫌がる様子もなく、むしろ心地よさそうな表情で流れゆく車窓の景色をじっと見ている。

 稲宮がぼうっとその光景を見ていると、不意に清川から、

「燃やせるものならどうぞ」

 はっとして清川に顔を向ける。彼女は無表情だった。

「たっくんはお魚が好きやからね」

 女の声が聞こえて、稲宮は状況が理解できぬままそちらに顔を戻す。

 男の子はこくりと頷くと、まるで甘えたの猫のように女の膝へ顔を埋める。女はその頭を何度か撫でると、男の方に顔を向けた。

 何故か稲宮の心に深い幸福が訪れて、その瞬間に、この男が黒山だと気づいた。口髭はなかったが、顔のパーツは稲宮の記憶にあるものだった。あまりにも幸福そうですぐには分からなかったのだ。

「ぎょうさん出してくれはるそうやから、たんと食べや……」

 女は右手を男の子の頭にぽんっと置くと、

「……頭の形、うちが見てへんかったさかいに……ほんま、かんにんえ……」

 稲宮は一度に幸福を感じ過ぎたからか、涙がじわりと出てきた。

「じっくりあぶりましょうか」

 清川に声を掛けられて、彼女の方にばっと顔を向けると、加虐的な笑みが浮かんでいた。

「貴くん……いや、たっくんの丸焼きでも作りましょうか?」

 彼女は稲宮に身体を近づけると、耳元で囁く。

「それをこの二人に食べさせてみる?」

 彼女の右手が稲宮の左手にそっと触れる。

 稲宮は自分の意思とは関係なく、左手から炎が現出し始めていることに気づいて、慌てて彼女の手を振り払い、炎を消した。

 動悸が起こり、冷汗が背中を流れる。彼は胸をぎゅっと押さえて、その場にしゃがみ込む。

 動悸が治まってくると清川を見上げた。彼女の表情は悲しみに満ちたものになっている。

「……これは何? 何故、あいつが?」

 清川は三人の方に顔を向けたままで、

「黒山さんにとっての完璧な瞬間、彼の理想の世界、幸さんとたっくんへの謝罪の世界」

「謝罪?」

「……この旅行の二週間後に、二人はただの肉になるの。二人から魂が抜けたその日、黒山さんは二人のそばにいなかったの。一緒に行かないという選択をしたのよ」

「…………」

 しばらくして、清川は顔を横に向ける。

「次……」

 視線の先には次の車両へ続くドアがある。稲宮は進みたくなかったが、清川がずんずん歩き始めたので、仕方なく立ち上がると力なく彼女の後ろをついていった。


 三両目のドアを開けると、どこかの家の玄関だった。

 黒山らしき男が、玄関のドアの前に立つ幸と貴と向かい合っている。男の顔の辺りには濃い霧のようなものが漂っているので、稲宮は黒山だと断言はできなかったが、時折覗く口元や目からおそらく彼だろうと思った。

 幸は、ノースリーブの青いシャツに白のストレートパンツを穿いている。その左手には、小さめのキャリーバッグがあり、右手は貴の左手を握っている。貴は前車両の時よりほんの少し成長しているようだ。彼は七分丈の紺色のシャツに黒い半ズボンを合わせている。何故か彼の右手の爪には紅いマニキュアが塗られていて、稲宮の目を強く引いた。

 稲宮は男の後ろに立ってすぐに、果てのない罪悪感に襲われた。

 幸は貴の方に少しの間視線を落とすと、男に顔を向ける。暗い感じの微笑が浮かんでいる。

「ほんまに来いひんの?」

 彼女は男にそう尋ねると、少し間を空けてまた貴に目を落とした。どうやら男が何か言葉を発したらしい。だが、稲宮は男の言葉を聞けないようだ。

 幸は貴の方に顔を向けながら、残念そうに、

「そう……。一緒やったら、お母さんも喜びはるのに……。歩さんが来いひんと、また、お母さんからいけず言われるわ……」

 男は貴の頭に左手を置く。幸はため息を小さくつくと、表情を明るくして、

「しゃあないな、たっくん」と貴に声を掛ける。貴は顔を上げて、くりくりした瞳で彼女を見つめる。

「今回はお母さんと二人でおばあちゃんとこ行こな」

 貴は幸の手を自分の方へ強く引き寄せると、うんと頷く。

 その様子をじっと見ていた稲宮は、罪悪感が急に増してきてその場にへたり込む。そして、ぎゅっと目を瞑ると、心の中で幸と貴への謝罪を繰り返した。

 稲宮の耳に、幸の笑い声と言葉が聞こえる。

「……たっくんの手? かいらしいやろ……今日の朝、見つけはったみたいや。塗ってあげんと動きそうになかったから……。お母さん、怒らはるやろか……」

 その後に、「行ってきます」という幸の声と、二人が玄関を出ていく音。

 彼らが出ていってしばらくすると、どこからともなく女の声が聞こえ始めた。

「……梟通信によりますと、過激派組織の『踏みつけられた頭』は、十字軍に手を貸した日本もその標的に入ったという声明を出しており……」

 稲宮は苦しみから逃れるために、頸動脈を掻き切って命を終わらせたくなった。

 そんな時、肩を叩かれた。顔を上げると、清川が優し気な、だが、どこか加虐的な表情を向けている。

「もう終わるからね……」

 彼女は稲宮の首の脈が最も感じられる辺りをさらりと触れる。

「もうすぐだよ……」

 稲宮が辺りを見渡すと、周囲のものは雨で流される土塊のように消え出していた。玄関のドアが無くなり、次の車両へと続くドアが現れる。それとともに、胸に縫い付けられたようにあった罪悪感もほどけていく。

 清川は稲宮に笑みを向けると、

「行こ。早くしないと、またさっきの場面が始まるよ。黒山さんの感情が入り込んでくるよ。この車両ではエンドレスで流れているみたいだから……。光がそれでもいいって言うなら、ずっといてもいいけど」

 ゾッとした稲宮は慌てて立ち上がる。彼女の言う通り、周囲では再び玄関が形成され出していた。

 

 次の車両は、二両目と同型だった。

 海側の一番奥のボックス席に、幸と貴が並んで座り、窓の外をじっと見ている。その服装は前の車両と同じだ。貴の右手にも相変わらず紅いマニキュアが塗られている。

 稲宮と清川がそばにいくと、広がる海に視線を向けたまま、

「向こうの世界から、突然、連れてこられてしもうて……」

 彼女は自分の膝に不安げに置かれた貴の右手を左手でぎゅっと握る。

「……ここから出られへんようやわ……」

 清川はふっと泣きそうな顔をすると、幸の前に歩み寄って、

「出られますよ、私が出してみせますから」

「……別にうちはずっといてもええんや……」

 ちらりと清川を見た幸は、暗い表情の貴に顔を向ける。

「歩さんがそう望むなら、それで歩さんの苦しみがなくなるんやったら……歩さんがこんな苦しんでるの知ったら、うちだけ向こうで幸せになるわけにいかんわ……ただ、この子は……」

 幸の言葉に反応してか、急に貴はうつむくと涙を流し始める。それを見た幸は慌てた感じで彼を抱き寄せる。

「……ぜんぶ、うちのせいや」

 稲宮は見ていられなくなって、次の車両に通じるドアの前まで行くと開けようとする。             

 だが、びくともしなかった。

 更に何度もドアを引いてみたが、まったく動かなかった。

 この場から立ち去りたい一心でドアをぶち破ろうと、彼は左手に炎をまとわせ始める。

 清川が稲宮のほうに来たのは、目を充血させた彼が、炎をまとった左手を大きく振り上げた時だった。

 彼女は稲宮に近づくとその左手に触れた。炎は彼女の身体に吸い込まれるようにして消えていった。

 それからドアにそっと触れると、ぴくりとも動かなかったのが嘘のように、軽やかに開いたのだった。

 清川は穏やかな表情を幸と貴がいる方へ向けると、

「……開きましたよ、出られますよ」

 幸は震える貴をぎゅっと抱きながら、

「うちは出てええんやろか。歩さんを置いていってええんやろか。……戻るのは、たっくんだけの方がええんちゃうやろか……幸せになるのは、向こうの世界に戻るのは、この子だけで……」

 清川は二人の近くに行くと、無表情になり、彼らを見下ろす。だが、ただの無表情ではないように稲宮には思えた。どこか神々しく、優しく、そして冷徹でエゴイスティックなものを彼は感じたのだ。

「あなたたちは出なければならない。するべきことがある」

 幸は清川の顔を見上げて、戸惑った表情をする。

「……するべきこと?」

「あなたは黒山歩を恨んでいるのか?」

 幸は首を横に振ってから、はっとした表情をする。

 それを見た清川は深く頷くと、次の車両へと顔を向けた。


 稲宮は誰よりも先にドアの向こうへ行った。

 彼の目に映ったのは、本棚に囲まれた長方形の空間と、その中央に置かれた机の前に座っている、学生服を着た男の後ろ姿だった。本棚には、様々な言語で書かれた色々なジャンルの本が並んでいる。

 稲宮は彼に引きよせられるようにしてふらふらと机のそばまで歩く。

 黒山によく似た高校生ぐらいの青年が苛立った表情で、ぺンを片手に原稿用紙に向かっている。

 稲宮がじっと見ていると、青年は唇を噛んで辛そうな表情をして、

「私の内に潜む友人から送られてきた小説なんだけど……どうしてもわからないんだ」と稲宮の方を見ずに、彼に数枚の原稿用紙を差し出す。

 稲宮は無言で受け取ると、それを読み始めた。

  

  黒の思考と、彼女の言葉の真意


 黒と呼ばれるこの物語の主人公は、人間を虫けらのように殺せる力を手にしてすぐに、自身が憎む組織に所属している、していた人間、それと、その家族を拉致して、非常に長期に渡って痛めつけ、腐臭の漂う姿にしたあと、毒虫蠢く暗い洞窟に意識がはっきりした状態で放置した。

 黒はどのように彼らを痛めつけていたか。

 ひどすぎて紹介できるものではないが、彼が一番初めに行ったものなら紹介してもいいかもしれない。黒の暴力は徐々にひどくなっていったので、最初のものなら、まだ許容できる気がするからだ。

 黒は、その組織のナンバー2の男と、その家族――妻、14の娘、15の息子――を拉致し、男の目の前で、その家族を、異常性欲者の男に犯させたあと、組織の男にも自らの家族を犯すように命じた。無論、彼は拒否したが、黒はそんな男の目の間で、家族の脳みそを壊して獣同然にしていった。そして、その息子が妻の排泄した糞を食べようと、ストレスで頭が禿げあがった娘と争い始めた時、ついに男は黒の命令に従い、泣きながら彼らを犯したのだ。

 黒は自分と同じように感情を持った存在に対して、怒りのあまりそのような行為を強要させるような人間だ それを最初に伝えておきたい。彼を悲劇の主人公として描いて、同情を集めたくない。

 今、そんな黒がベッドに寝そべり、目を瞑って思考の海に沈んでいる。彼が思考する時はいつも、自身の妻と息子のことが頭にあった。今回は、息子と妻が彼から去っていった日のことを考えていた。

 その日、黒は、駅で自爆テロがあり妻が死にかけているという電話をもらうとすぐに、現場へ向かった。

 頭を強打したという彼の妻は昏睡状態で病院に運ばれていた。

 黒が現場から病室に駆け付けてしばらくすると、彼女は意識を取り戻した。だが、彼が安心したのも束の間、すぐに呼吸がひどく乱れ始めて、目を見開くと、「たっくんは、たっくんは……」とうわごとのように言い始めた。黒は現場に駆け付けた時、ホームの一角に散らばった数え切れぬ遺体の破片の中に、紅いマニキュアが塗られた小さな手を発見していたが、「手を怪我したみたいで、今は病院にいる」という趣旨のことを彼女を落ち着けたい一心で、その左手を両手でぎゅっと握りながら言い続けた。だが、妻は黒の嘘などすぐに見抜いたようだった。

「うちのせいや、うちのせいや、うちのせいや」

 黒はそんな妻の言葉を聞いて、現場の野次馬の話を思い出す。

「自爆テロらしいわ……小さな男の子が怪しい男に近づいた瞬間に、その男がボカンや」

「なんでそんな奴のとこ行ったんや」

「なんや、男が手招きしたらしいわ。そして、横でうとうとしてたお母さんから離れて、とことこ歩いていったらしいで」

 妻の呼吸がゆっくりになっていき、彼の両手の中にある手がぐったりとしていく。

 黒は悲しさと怒りのあまり顔を下に向けて、

「……こんな世界殺してやる」と呟いた。

 その時、妻の手が一瞬だけ強く握り返してきて、黒は驚いて顔を上げた。

 彼女は優しい瞳でじっと黒を見ながら、消え入りそうな声で、

「……歩さんは誰も憎まんとって、苦しまんとって……うちはこの世界を愛していますから……歩さんと出会えたこの世界を……向こうで待ってますから……うちは、幸せでした……歩さんはずっと優しくおって……世界が平和でありますように……」

 これが彼女の最後の言葉だった。彼女の命は、そのあとすぐにふっと消えてしまった。

 それからの黒は、ずっと彼女の言葉の真意を考えている。


 読み終えた稲宮は原稿用紙を机の隅に置いて、どうしたらいいだろうかと青年を見下ろす。

 青年は辛そうな顔を稲宮に向けると、

「この世界を愛しているとはどういうことでしょうか? 世界が平和であるようにとはどういうことでしょうか? 自分を殺した世界が一切改善されることなく、存在していてもいいということでしょうか? それに……」

 青年の声色がすがるようなものになる。

「妻は黒を、夫を本当に恨んではいないのだろうか? 自分と子どもを殺したも同然の夫を……そんなことありえるだろうか?」

「……殺したわけじゃないでしょう……」

「同じようなものですよ。私は黒のことを良く知っているんです。彼は妻と子供から誰よりも愛してもらえるように、二人以外に愛を注がないようにしていました。同時に、彼らの愛を試すようなこともしていました。この日彼らと一緒に行かなかったのだって、その試しの一つでしょう。『もし愛してくれているなら、お母さんからの意地悪にも耐えられるよね』そんなことを思っていたに違いありません……」

 稲宮は話を聞きながら苦しくなってきて、まるで自分自身の弁明をするような調子で、

「でも、黒が愛を惜しみなく与えていたのは確かじゃないですか。そこは評価してあげてもいいんじゃないですか」

「黒が愛を注いでいたのは、正確に言えば二人じゃありません。黒の中に存在する、彼にとって理想的な妻と子どもです。愛の注ぎ方も一方的なものでした。彼には莫大な資産がありましたので、彼らが――特に妻ですね、子どもの方は何でも手に入ることが普通だったので――望んでいないにも関わらず、高価なものを与え続けました。そして、彼の重くて依存的な言葉を彼女に浴びせ続けました。黒は、それだけすれば、その分、二人から――特に妻から――愛情が返ってくると思ったんですね。そんなことしなくても、彼女は黒に愛情を与え続けたに違いないのに……」

「……そうだとしても、それで彼が殺したことにはなりませんよ。そんな夫婦はたくさんいますし……」

「そうかもしれないですね。だけど、彼は間違いなく二人を殺したのです」

 青年の目がうつろになる。

「……二人を殺した新型爆弾には、彼が院生のころに開発したシステムが使われていたのですから。院生時代に、彼は父親の会社の施設を使ってこっそりとそれを作り、後に『破滅の人』と呼ばれるようになる若い武器商人に売りました。黒はお金が欲しかったわけではありません。ただ誰かの愛情と、その証しが欲しかったのです。彼がそれを作り始めたのも、『破滅の人』がきっかけです。その人は、黒と星を見に丘を登った時に、黒の手をやんわりと握ると、その目をじっと見つめてこう言いました。『君は親友だ……君に作ってほしいものがある』」

 青年は稲宮から目を逸らすと、机の棚に並ぶ本を見つめる。

「『破滅の人』は必要なものを手に入れると、すぐに黒の前からいなくなり、黒は自分が利用されたことに気づきました。だけど、黒はその人のことを恨んではいませんよ……その人の手首にあった女性の横顔のタトゥーは今でも時々夢に見ますし、その人が手足を切断された状態で死亡しているのがメキシコで確認された時には涙を流しました、妻と息子が死んで、彼の作ったシステムが世界中で罪なき人の命を奪っていると知った時も、その人だけは黒の怒りを免れました」

 青年は机に頭をゆっくりと預けると、自分を守るように両腕で頭を覆う。

「どうです? 間違いなく、彼が二人を殺しているでしょう? 幸は、貴は、恨んでいるに違いない……」

 青年のすすり泣く声が静かに響く。

 稲宮は何も言えなくなって、後ろを向いた。

 文がドアの近くで、強い決意のこもった表情を稲宮に向けている。そのすぐ横では親子が手をつないで、暗い表情の顔をうつむき加減にしている。

 それから数秒して電車が停車すると、海側の壁にある本棚がざらざらと崩れて、乗降口が現れた。車窓の外には、海と、手前が雲一つない青に、その奥が月星光る黒に分かれた空が広がっている。

 

 乗降口が開いて、夏の潮風が車内をふわりと満たした。

 呆然としていた稲宮は、清川と親子が出ていくのを見てはっとすると、その後に続く。

 彼が降りた場所は、白い砂の上だ。

 きらきらと輝く白浜が線路のすぐそばまで迫っている。それほど広い浜ではない。波打ち際まで歩いて一分もかからないだろう。

 一隻の小さな和舟が浜に揚げられていた。すぐ隣には、紅い笠をかぶった黒い作務衣姿の逞しい男が、背を向けて座っている。

 男は四人が舟のそばまで来ると、すっと立ち上がって彼らの方を向いた。鼻から下が紅い布で覆面されているので、表情は分からない。

 彼は、「鳥居が見えますか?」と右手の人差し指を海の方に向ける。

 指の先、昼と夜の境目の辺りに青い鳥居が小さく見える。

 男の問い掛けに清川が頷くと、彼は舟の舳先を掴み、船首の辺りが波に濡れるぐらいまで引きずってから、四人に向かって、「乗りなさい」と言った。

 舟には、腰掛けるための板が二枚、船端の間に並んで設置されてあり、幸と貴が船首側の方に、稲宮と清川がその後ろの方に座った。

 男は船を更に海の方へ押し出してから船尾に乗り込むと、船内に置かれた櫂を取り上げて、浜をぐいっと押す。

 舟はするりと浜を後にして、海を進み始めた。


 航海が進むごとに、稲宮は母親に寄りそう貴をぼんやりと見ながら、左手を清川の右手と深く交わらせていった。船が浜を出た辺りでは、板の上に置かれた互いの手の指先が触れるくらいだった。鳥居をくぐって周囲が夜に変わった辺りで、二人の指は絡み合った。そして、舟が夜を進み、紅い光の煌めく小さな島が見えてきた辺りでは、指だけでなく、手の平もぴったりとくっついていた。

 舟はさらに黒い海を進み続け、小さな島の砂浜に乗り上げる。

 すぐに清川は右手を稲宮の手から離して浜に降りると、前の二人が降りるのを手伝い始めた。稲宮は不意に何の未練もないような感じで手を離されたことと、自分ではなく幸と貴に気を使ったことに、もやもやした寂しさを感じながら清川の後ろに降りて、前の二人が砂浜に立つのを何もせずにじっと見続けた。

 砂浜の先には、十数メートルほどの高さの壁が浜に沿うようにして広がり、その向こうから紅い光が漏れている。

 前の三人が歩き始めたので、稲宮はふてくされたようにその後ろを少し距離を空けてついていく。船を離れる時、不意に船頭の男が気になってちらりと後ろを見ると、いつまにか彼はいなくなっていた。

 稲宮はむくれていたが、壁の前で止まった清川に振り返られて、こいこいと手招きされると急に機嫌を取り戻した。彼は速足で三人に追いつくと、彼女に向かって嬉しそうに、

「なに?」

 清川は顔をそびえ立つ壁に向けると、少し冷たい口調で、

「焼いてちょうだい。光の炎なら楽勝でしょ。……邪魔だと認識すれば、すべて消せるんだから」

 その言い方に、稲宮はゾクゾクとしながら、

「……文が左手をまた握ってくれれば、こんな壁、ティッシュペーパーを燃やすように消せるけど……そうしなきゃ、時間がかかるかも……」

「……また馬鹿なことを言って」

 清川の表情がふっと緩む。彼女は稲宮に歩み寄ると、その左手を右手でそっと握って、彼の目を覗き込むような感じでじっと見る。

「さぁ、燃やしなさい。ぜんぶ、ぜんぶ燃やしてしまいなさい!」

 清川の目に宿る光が狂気じみてくる。彼女の爪が稲宮の左手に血が出るほど食い込む。

「光は世界丸ごとだって燃やせるんでしょう?」

 彼女の唇の動きと、そこから覗く少し並びの悪い白い歯が、甘い強打となって稲宮の心と肉体を強く揺らす。

 稲宮は左手の指を一本ずつ血が出る程強く噛んでほしい欲望を抱いた。

 そんな稲宮の心の動きを察知したのか、清川はにやりと笑う。

「噛んであげましょう! 骨が見えるほど噛んであげるから! あなたを噛めるのは私だけ! 私以外にはいないの! ……血みどろで交わりましょうよ」

 稲宮は所有される快感を初めて知った。清川の心の黒いものを少しだけ受け入れられたような気がした。黒いものの先にこんな快感があるのなら、何故早くそれを受け入れなかったのだろうと思った。

 彼は清川をしばらく見つめたあと、壁の方に顔を向ける。

 清川は稲宮の手をゆっくりと離した。

 すぐに彼の左手から炎が現出し、身体全体を覆う。

 中央と縁に青みを帯びた紅い炎で、揺らぎ、唸りながら、辺りを煌々と照らしている。

 幸と貴は、清川の横で目を丸くして見守っている。

「……燃える人は煉獄に落ちてしもた人、縛られてしもた人」

 幸がその光景を見ながらポツリと呟いた。

 稲宮は突然の幸の発言に少し驚いて、彼女の方を向く。

 彼は今までにない開放感と充足感を抱いていた。おそらく彼以外には経験できないであろう紅みがかった視界が、彼の心をそうさせたのかもしれない。

「どういう意味ですか?」と稲宮が尋ねると、幸ははっとした顔をして、

「ああ、気にせんといて、独り言ですから……」と貴に目を落とし、発言を誤魔化すように彼の頭を撫で始める。

 もやもやしたものを感じたが、稲宮は気を取り直して、壁の方を向くと、両手のひらをぐっと壁に押し付ける。その手から流れ出るようにして、炎が色を紅と青に変えながら勢いよく壁に広がっていく。

 一分もすると、炎は壁を覆い尽くした。色の変化は止まり、炎の光が、砂浜、海、四人の姿を、深い紅に染める。

 稲宮は目を瞑ると、自分の心に重なった清川の心を想いながら、心の中で、

「……もっと深く文の心と交わりたい」と呟いた。その瞬間に、壁を覆う炎の色が青に変わる。同時に、彼の心に、清川の中に存在する黒いものが迫ってくる。その感情には、稲宮を所有することが大きく関係しているようで、所有される喜びを知った彼は、飲むようにしてそれを受け入れていった。

 二人の交わりの間に、青の炎は紫に変わり、まるで毛虫の群が至る所から葉を食うように壁を消してゆく。

 だが、突然、炎は紅に変化すると、壁から、ついには、稲宮自身からも消え去ってしまった。稲宮の心が、清川の心に最後に残った黒いものを直視することを迷い、結局は拒んだからだ。その黒いものには寺山が深く関係していそうで、もしそれを直視してしまうと、清川への恋愛感情が揺らいでしまいそうで怖かったのだ。

 稲宮は壁から手を離して、動悸を抑えようと両手で胸を押さえる。

「どうしたの?」

 清川に呼びかけられて、稲宮は彼女の方に顔を向ける。冷たい目がじっと向けられている。そこから彼女の嫉妬と非難、そして、寺山に対する罪の意識を感じた。

「……ごめん、もう一度やるよ」

「もういいよ、所々に穴が空いたから入れるし」

 清川は壁の方に顔を向けた。地面からすぐの辺りに人一人が通れそうな穴が空いている。

 不意に、彼女は辛そうな表情をすると、稲宮に顔を向けて、

「……千代に情が湧いた?」

「え?」

「光は私が悪い人間だと思う? 光は私をぜんぶ受け入れてはくれないの?」

「……言ってる意味がよくわからない」

 清川はじいっと稲宮の目を見ると、

「見ようともしてくれない」と震えた声で言って、後ろにいる幸と貴の方を向いた。

 稲宮は彼女の後ろ姿を見ながら、彼女が自分の隅々まで愛されるのを、自分の理想通りに愛されるのを望んでいることを悟り、そのような欲望を叶えるためには、寺山が関係しているであろう黒いものを受け入れることが必要だと感じた。だが、受け入れる勇気がどうしても起こらなかった。

 稲宮の頭に、「君が愛しているのは、君の中だけに存在する清川さん」と黒山から指摘されたことが浮かび、彼は悔しさを抑えるように舌の先をぎゅっと噛んだ。


 穴から壁の中に入った四人の目の前に広がったのは、緊急車両のサイレン鳴り響く、高層ビルが立ち並ぶ街だった。

 四人の前には、大きな道路が真っすぐに伸びていて、その果てに見える駅ビルの方まで車が渋滞を作っている。駅ビルの辺りには緊急車両の紅い光が煌めいている。その光は元の世界のものよりかなり誇張されているらしく、空までも紅くしている。歩道には大勢の人が溢れかえっている。駅の方に行こうとする者、逆に駅から逃げるようにして四人の方にくる者、様々なものがいる。

 清川が駅を目指すように言ったので、稲宮を先頭にして四人は人ごみの中を進む。

 駅に着くまでに様々な話が途切れ途切れに稲宮の耳に入った。道行く人の話によれば、何か駅の方で大きな事件があったらしい。事件の内容は、テロ組織による毒ガス攻撃だったり、頭のおかしな男による銃の乱射だったり、人により異なっていたが、人がたくさん死んでいることは確かなようだ。

 駅は警察によって立ち入り禁止になっていたが、何故か四人はすんなりと通してもらえた。

 彼らは、10あるホームのうち一番奥のホームに行き、そこで血肉の海を見た。

 人間の腕や脚、胴、頭が、辺りに散らばっている。その隅の方で一人の少年が、彼の目の前にある肉塊に向かって泣いている。肉塊からは、小さな腕が一本、手招きするような感じで飛び出ている。その爪には紅いマニキュアがきらりと光っている。少年のそばには、般若面をつけた紅い死に装束の女が立って、彼を見下ろしている。

 泣き出しそうな幸と貴を先頭にして、四人は少年に歩み寄る。

 少年は嗚咽を漏らしながら、

「赦して。もうしない。ごめんなさい」と、ひたすら呟いていた。

 幸は辺りを見渡して、肉塊と般若面の女を憎そうな表情で睨むと、稲宮の方に顔を向け、その左手をじっと見る。

 彼女の意図を理解した稲宮は、左手から紅い炎を現出させて、塊と女に向けて火の玉を飛ばす。玉は命中し、燃え広がった炎が対象物を一瞬で消し去った。

 少年は目の前のものが炎とともに消えたことに動揺したのか、はっと泣くのをやめると、困惑した表情で辺りを見渡して、幸と貴を認めた。

 目を見開くと、うずくまり、再び泣き始める。

 幸は膝をついて、少年を覆うようにして抱きしめた。貴も彼のそばに正座すると、その手を探り、小さな両手でぎゅっと握った。

「……恨んでないの?」

 少年の声が聞こえる。

「けったいなこと言わはる人やなあ」と、幸は少年の頭に左手を置いて、髪に指を優しく絡める。

「……恨んだことなんか一度もあらへんで、うちはずっと幸せやった言うたのに、ほんまに歩さんは……優しい人やわ」

「恨んでないの? ほんとに、一度も恨んだことがないの?」

 幸は無言で少年を強く抱きしめる。

 少年は安心したのか、力が抜けたようにだらりとなって、泣くのをやめた。

「……もう行こか、向こうで、歩さんが殺してしもた人にもちゃんと謝ろな」

 少年は幸の腕の中でゆっくりと頷く。

「ほんまに歩さんは優しい人……」

 幸は愛しそうに呟くと、清川の方に顔を向ける。

 そして、心配そうな表情をすると、

「そちらは大丈夫なんですか?」と尋ねた。

 清川は、はっとした顔をして、

「……何がですか?」

 幸は、数秒、清川の顔をじっと見ると言いにくそうに、

「そちらの恋愛は、生きながら満たすことができはるもんなんですか……すべてが止まった場所、完璧な幸福のある場所でしか無理なもんとちゃいますか。……うちは、肉体が無くなって、ええなとじつは少し思ってます。望む恋愛が、何ものにも惑わされることなく、実現できますから。あっちでは、歩さんのお母さんも優しいですし。少しだけ思ってるだけですけどね……」

 唇を噛んで、暗い表情でうつむく清川。

 そんな清川の様子を稲宮が見ていると、辺りの景色が歪み始めた。

 それからしばらくすると、稲宮の視界は青に染まり、彼の意識はその青に吸い込まれるようにしてなくなっていった。

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