第10話 邪視を焼け
稲宮が大学を出たのは夜の10時ごろだった。学校周辺の人通りは徐々に少なくなり始めていたが、それでも爆弾を炸裂させれば、かなりの死者が出るだろうと考えられるほどの人はいた。彼は叡山電車出町柳駅まで、今出川通りを使って行こうかと一瞬迷ったが、自分を襲ってくる敵との戦闘を予想して、大学のすぐそばにある京都御苑を通って行くことにした。
京都御苑は、同志社大学から今出川通りを挟んですぐのところにある。広大な敷地を有しており、苑内は幅の広い砂利敷きの道で美しく区分けされて、御所の建物の他にも、ケヤキや松の木など多彩な木々の見られる森林が広がっている。昼は、大学生や観光客、散歩をする老人など多くの人がいるが、暗くなり始めると人気はほとんどなくなる。
稲宮は御苑に入ると、広い道から、森林の中をくねくねと走る小道へと入った。森の中は暗く、虫と鳥の声だけがどこからか聞こえる。
数十メートル進んだところで、稲宮は視線を感じるととともに、胃液が込み上げてくるような不快な感覚に襲われた。その感覚は足を進めるごとに強くなって、ついに動けなくなり、その場にうずくまる。ひどい二日酔いになった時みたいだった。立ち上がろうとすれば吐き気と頭痛が襲う。
だが、彼はその不快感に負けることも、世界を呪うこともしなかった。心の奥底には、清川と深くつながっている感覚と甘美な痺れがあり、邪魔なものを焼き尽くす炎をいつでも具現化できると確信していたからだ。彼は左手に目を落として、なんとか戦闘に備えた。
「誰かが私の具現化の能力を使っているみたい……」
清川の声が頭に響いて、同時に甘い感覚が強くなる。彼女も稲宮と深くつながったことで、自らの能力を今までよりしっかりと把握し始めたようだ。
「めちゃくちゃな方法で。……使用者は死よりひどい生にあるようね」
稲宮は不快感を抑えながらふらりと立ち上がると、視線の方向を見る。
巨木の太い枝に何か黒い塊がいて、そこに紫の光が二つある。
闇に目が慣れてきて徐々に姿が明らかになってくると、稲宮は左手をその方へ向ける。人間が虫のように枝にしがみついているのだ。
その人間は水滴が落ちるように枝から地面へすっと降りると稲宮の方へ歩き始める。特徴のないのっぺりとした顔で、ゆったりとした黒いコートを着ているため、性別はよくわからない。その両目は紫の光を放っている。
稲宮の気分は更に悪くなってくる。左手に精神を集中させて炎を現出させようとしたが、縁に青みを帯びた紅いオーラが現れるだけでダメだった。
紫の目を持つ人間が近づいてくるにつれて、何か呟いているのがわかった。
「……三が重要、二つ目では足りぬ。すべてにおいて三が重要。三つの願いを叶えよう。三回呪文を唱えなさい、悪い妖精は子供から出ていくから。三本の十字架がゴルゴダに。巨眼を見ろ、三つ目を見ろ。見ろ、見ろ、見ろ」
その人間はゆっくりと口を大きく開ける。
そこには紫の光を放つ巨大な眼球があり、稲宮をじっと見つめていた。唇がまるでその眼球の瞼のようだ。
それを目にしてすぐに、稲宮は体の力が抜けてその場にへたり込む。
頭がぼんやりとして目を逸らすことができない。稲宮の目からは血が涙のように流れ出して、半開きの口からは血の混じった吐しゃ物が溢れ出す。
「その人は邪視に取り込まれている!」
頭に清川の声が響いて、稲宮ははっとした。それとともに感覚がはっきりと戻る。
「視線を遮って!」
左手を柔らかな感触が覆う。
稲宮はコツをつかんだように左手から炎を現出させる。
中心と縁に青みを帯びた紅い炎だ。左腕全体を覆っているにも関わらず、微塵の熱さも感じなかったし、服も一切燃えていなかった。どうやら、この炎は稲宮にとって脅威となるもの、彼が邪魔だと認識したものだけを燃やすようだ。
稲宮は炎で自身の周囲をドーム状に覆った。
視界が遮られた同時に、稲宮の不快感は急速に消えて血も止まる。
「邪視?」
稲宮は突然の回復を不思議に思いながら、服や口周りに付いた血や吐しゃ物を炎で消して清川に語り掛ける。
「そう、この人は邪視を具現化したみたい。そして、それに取り込まれた」
「……あの、邪視っていうのは」
「……文学部なのにそんなことも知らないのね、光は……」
少し突き放したような清川の言い方に、稲宮はマゾヒスティックな快感を抱いた。
「教えてあげましょうか?」と、尋ねる清川。
稲宮は少し意地悪な気持ちが起こって、
「教えてあげたいんでしょう?」
「……怒るよ」
「ごめんなさい、調子に乗りました。教えてください」
清川はくすりと笑うと、
「よし、特別に教えてあげましょう。簡単に言えば、誰かから悪意を含んだ視線を送られたら異常な状態になってしまうという迷信のことね。この邪視という迷信は世界中でよく見られるものなの。ギリシャ神話のメデューサは知っている?」
「見たものを石にするってやつ?」
「そう、あれも悪意のある視線が人間を異常な状態にするっていう意味で、邪視に類するものと言える。どうやら、この人はそんな邪視を本当に信じていたみたいで、その夢世界には邪視の目があったみたい。だから、私の能力で具現化を行った時、強い感情が込められた邪視の目が具現化されたみたいね。そして、それに取り込まれてしまった」
「取り込まれた……」
「……よくわからないけど、光の具現化と、この人の具現化は明らかに種類が違うの。私の能力を使っていることには変わりはないんだけど……」
「まぁ、とにかく、僕の気分が悪くなったのは、こいつの視線のせいってことだよね」
「そういうことね」
稲宮は炎壁の向こうにいる邪視の人にじっと視線を送る。
「何をするつもり?」
「消すのさ」
「……目を?」
「こいつ自体を」
「…………」
稲宮は清川の心に悲しさが一瞬よぎったのを感じた。
「不満があるの?」
「……私、光の心と一体になってから、今まで以上にこの世界の人々のことを彼らの個人空間を通してはっきりと感じ始めてね。……この人も、芯から悪い人じゃないの……」
「……芯から悪い人なんていないよ」
稲宮は炎を大波のように邪視の人へ差し向けて、瞬きする間もなく焼き消すと、炎を左手に収めた。
「だけど、今僕に……いや、僕らにできるのは燃やすことだけだよ」
清川はそれに何も答えなかった。稲宮は彼女の心から、誰かに対する罪の意識が流れているのに気づいた。
彼女の声が再び稲宮の頭に響いたのは、彼が歩き始めて御苑を出ようという時だった。
「光は本当に芯から悪い人なんていないと思う?」
稲宮はその言葉の奥に、彼女の心と一体になる時に避けた黒いものが潜んでいるような気がした。
彼は何も返さなかった。
「いないと思う?」
もう一度、清川の声が響く。稲宮はやはり返事をしなかった。
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