第9話 精神の再会
気づくと、稲宮は足に冷たいものを感じていた。
はっとして瞼を開けると、目の前には青々とした海と、雲一つない青空が広がっている。
彼は砂浜に立って、寄せては返す夏の波を感じているのだ。
「これは海に行った時やで……」
女の声がして、稲宮は振り返った。彼のすぐそばにベッドがあり、その端に、ダメージジーンズにストライプ柄の長袖シャツを着た、ショートカットで茶髪の若い女が座っている。稲宮は彼女の名前が橋上麻子だということと、何が起こる直前なのかを知っていた。それにも関わらず彼はその横に腰掛けて、彼女が見せてくるスマートフォンに映った夏の写真に目を落とした。
しばらくすると、稲宮は周りが橋上の部屋に変化していることと、自分が彼女の誘惑に抵抗していることに気づいた。彼の頭には、清川に対する罪悪感と、橋上の肉体への欲望が渦巻いていて、彼は欲望に勝利を収めるつもりで、「シャワーが浴びたい」とひそりと言った。だが、それを口にしたあと、自分が敗北したことに気づいた。橋上は彼をゆっくりと立たせると、その耳元に口を近づけて甘ったるい声で、
「どうぞごゆっくり……」
浴室に入ると、稲宮は罪悪感を流すようにシャワーの栓をひねった。
熱い湯が体を流れて左手まで来た時、突然、柔らかい感触が稲宮の左手を覆った。
その瞬間に稲宮はすべてを悟り、左手は紅いオーラをまとっていた。
「そう、僕は……。僕の好きな海はあの日の広島で見た……」
オーラが紅い炎に変化して彼の全身を包み込んだ。それから一気に拡散して、周囲のものを燃やし尽くす。炎は稲宮には危害を加えなかった。彼が炎から感じたものは身悶えする熱さではなく、ほっとするぬくもりだ。
炎が消えた時、稲宮はチノパンに白い半袖シャツを着て、夏の夕暮れの浜辺に佇んでいた。彼は、自分がいる場所の材料となった日のことをすべて覚えていた。自分の服装、サンダル越しに感じた砂と波の感触、瞳に映った水平線に沈む夕日、前日に起こった絶望と幸福、それらが混ざり合い、今、稲宮がいる世界を形作っていた。ある要素は誇張され、ある要素は小さくされて……。
稲宮は海の向こうに目を向けた。空半分を覆うほどの異常な大きさの太陽が、水平線に沈みかけている。その太陽の丁度真ん中辺りに大きな鳥居がシルエットを作っていた。空は陽光で紅葉色に染まっている。
稲宮は空のある所だけ色が薄いことに気づき、そこが共有空間へ通じる穴になっていると悟った。そこに意識を集中させると、左目に穴の向こうの世界が映った。穴はクリスタルのようなもので覆われていて、その先に巨大精神の触手が蠢ているのが分かる。どうやら、触手はそのクリスタルのせいで入ってこられない、稲宮の個人空間には侵入できないようだ。この状況を見て、稲宮はこのクリスタルが清川由来のもの、彼女の力が巨大精神の侵入を阻んでいるのだと直感した。
稲宮は意識を戻して、太陽に向かうことに決めた。
彼が決心して間もなく、彼の身体は頭の方から紅い光の粒に変化していった。全身が粒子に変わると、それらはまとまり一つの紅いオーラになり、やがて鮮やく紅葉のような炎となった。だが、身体が失われど、稲宮の意思と精神はその炎の中にはっきりとあった。いや、身体は失われたのではない。今の彼にとって、この炎こそが身体であり、精神であり、意思なのだ。
その炎はゆらりと空に浮かび上がると、猛スピードで太陽の方へ飛び始める。
太陽は離れなかった。その炎が近づけば近づくほど、大きくなっていくのだ。
そして、鳥居をくぐった時、その炎は紅い太陽の表面に一つの揺らぎを見て、そこへ急速に吸い込まれていったのだった。
稲宮は自分が肉の身体を取戻していて、紅い光で満ちた、表面がガラスのようにつるつるとした小さなトンネルを歩いていることに気づいた。トンネルは奥の方まで続いている。
しばらく歩くと、前から人魂のような青い光がゆらゆらと漂ってきて、彼の前で止まった。
「何故、眠ったの……」
女の声が頭に響いた。間違いなく清川の声で、稲宮は目の前の光が清川の精神だと直感して、最愛の人間の精神を直接に見られている幸福に震えた。
「眠ったらダメって言ったのに。……そんなんだから、光はいろいろ残念な人のまんまなんだろうね」
稲宮は頭に響く罵倒に近い言葉に、喜びと罪悪感が込められていることを悟った。
彼は嬉しさを抑えながら、
「眠ると、共有空間に僕の個人空間の穴が出現して、組織の人間に現実での僕の居場所がバレるからでしょ」
両手を伸ばして、宙に揺らめく清川の精神の炎に触れると、稲宮はその炎が自分の身体の中に入り込み、心の奥深くで燃える彼女への恋慕の炎に近づいてくるのが分かった。
「でも、人は眠る生き物だよ……。それに」
稲宮は勇気を出して、
「本当に文はそれでいいの? たぶん、僕の戻り始めた記憶を遠法で再び消去できなくしたのは文なんでしょ? 触手の侵入を阻むクリスタルは文が作ったんだろ?」
稲宮の言葉に反応したのか、身体の中で揺らめく清川の炎がめらめらと強く燃え始める。
「……しようと思ってしたんじゃないから。勝手に身体が……」
頭に響く清川の声がさっきよりも小さくなったのに、稲宮は少し意地悪な気持ちを抱いた。
「僕に完全に忘れられたくなかったんだ! 抑えようとしても駄目だったんだ! だから、無意識に奴らの遠法を、そして近法も阻害したんだね!」
不意に清川の精神からいらだちを感じて、稲宮は言葉を止める。
「ごめん。調子に乗りました……」
「分かればよろしい、ほんとなら火あぶりのところを、釜茹でで許してあげましょう」
「火あぶりどころか、さっき火だるまになったけどね」
清川はクスリと小さく笑って、
「でも、光の言うように、私は光の頭にずっといたかったのかもしれない。だから、やつらが私に込められた能力を使って、光の個人空間に侵入しようとした時、それを阻止してしまった。いけないと思ったけど、私自身の力じゃ抑えられなくて……ほんとにごめんね……」
聞きながら、稲宮はこれだと思った。清川からの罵倒も大好きだった。だが、それは飽くまでも前菜で、メインはその後に訪れる正直で優しい言葉だった。彼はその言葉を深く味わったあと、その言葉とそれに付随する幸福な感覚を、頭の奥にある宝箱に大切にしまった。
「遠法も近法もダメ、記憶を消すのが駄目なら、奴らは必ず光を殺すだろう。そう予想した私はあなたの個人空間に侵入して、夢世界にいるあなたの精神に逃げるように叫んだの……」
「そのおかげで僕はここにいる」
稲宮は身体の内で揺らめく自分の恋慕の炎を、彼女の精神の炎にゆっくりと近づける。
「文を助けにいく、必ず、今すぐに」
清川の炎の色が強くなる。
それを返事にとった稲宮は自身の炎を彼女の炎に重ね合わせる。
赤と青、二つの炎が一つになっていく。
同時に稲宮の頭に、清川の彼に対する愛情が流れ込んできた。
幸福を感じながら稲宮はその流入を受け入れていたが、不意にぞっとするものを感じた。何か黒くて怖いものが徐々に明らかになってきたのだ。
稲宮はそのどす黒い清川の感情を受け入れるか迷った。しかし、それを受け入れてしまえば、自身の中にある清川の像が壊れてしまう気がして、目を背けることにした。
それは清川も同じように彼には思えた。彼女も、自身にとって脅威となる稲宮を恐れているようだったのだ。
交わった二人の炎は、縁と中心の辺りに青みを帯びた深紅の炎と化した。
「本当に来てくれるの?。阻むものはいるよ、たくさん……」
「阻むもの?」
増してゆく幸福を感じながら、稲宮は左手に目を落とす。
「そんなもの燃やしつくしてやる。今ならこの世界丸ごとだって燃やせそうだ」
稲宮が目覚めると、卓上の紅いノートがなかった。
あれっと思っていると、背後に大きな負の気配がした。立ち上がり後ろを向くと、寺山が硬い表情でソファーに腰掛けて、彼女の前の机にじっと視線を注いでいる。その唇は微かに震えて、瞳は見開かれている。
「読んだんだ」
稲宮は彼女の視線の先にあるものを見て、恐る恐る言った。紅いノートが机の真ん中に置かれている。
彼は寺山のことを清川からよく聞いていた。彼女のことを話す清川はすごく楽しそうで、たまに嫉妬を抱いたほどだった。
寺山は稲宮の方をちらっと見たが、その表情は変わらない。
その様子を稲宮は不思議に思って、
「寺山さんも文のことを……」と話し出そうとしたが、彼女が、
「何も言わないで!」と遮ったので、びっくりして口をつぐんだ。
「何も……何も……何も言わないで。もう思い出したくないの……」
稲宮はしばらく呆然として見ていたが、意を決して、
「寺山さん、ここにいたら危険だ。一緒に行こう。文が大変なんだ。君も文を助けに行きたいだろ?」
寺山の返答はなかったが、稲宮は更に続ける。
「君のことはよく知っている。文がよく話してくれたから。親友だって……。一緒にいてすごく楽しいって……」
そう言いながら稲宮は、彼女に出会った時、懐かしい気持ちを抱いたのは、清川からよく寺山の写真を見せられて彼女の話を聞いていたからだと気づいた。
寺山は稲宮の言葉を聞くと、彼の方を見て不気味にふっと笑い、
「親友? ……そう、親友ね」と苦しそうな表情をする。
「私はそれでしかない。でも……もう、親友でもないのかもしれない……」
頭を抱えて彼女はぶつぶつと何かを呟き始める。声が小さすぎて、稲宮は聞き取れなかった。
それから寺山に何度か呼びかけたが返事はなかった。稲宮はしかたなく、
「僕は行くからね。逃げなきゃだめだよ」と鞄を持って窓の方に向かった。
だが、少し考えると彼女に歩み寄り、鞄から拳銃を取り出して机に置いた。
「危なくなったら、これで……」
寺山はそれを少しの間じっと見て、さっと稲宮に顔を向けると、絞り出すような感じで、
「あなたが羨ましくて、憎らしい……」
悲しみと憎しみが入り混じったような表情だ。
稲宮はその表情に清川から感じた黒いものが関係あるような気がして、彼女を見ていられなくなり、無言で窓から外へ出る。
地面に降りた時、ふと空を見ると、夜空は雲に覆われて、そこに月光がじんわりとしていた。
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