第7話 清川の失踪と発見

 稲宮は抑えきれぬ憎悪を感じながら、溢れ出てきた記憶と感情を整理していた。

 清川が失踪したのは、今から二週間ほど前の、もうすぐゴールデンウィークという時だ。彼女から、突然、

「今、京都に来ているの。今日、会いましょう」と朝早くに稲宮の携帯へ連絡が入った。

 清川が一週間前とかに稲宮へ連絡することは稀で、彼女の突然の誘いは、稲宮が、「文の中での事前連絡というのは、当日の朝か前日ということになっているのだろう」と思っていたくらい、彼にとって普通のことだった。彼は清川から急な連絡を受けることで、自分のマゾヒスティックな部分を触れられるようで心地よかったりもした。

 その日の夕方に三条大橋で待ち合わせることになった。稲宮は約束の30分前に待ち合わせ場所に着くと、彼女へ送った紅いノートの内容を思い出して、また自分の告白が生殺しの目に遭うのではないだろうかと不安を感じながら、西の街に美しく沈みゆく紅い太陽を見ていた。

 だが、約束の時間になっても、清川は来なかった。そこから、一時間たっても現れることはなかった。さらに時間が過ぎて日が没しても、彼女の姿は見えなかった。

 待たされることでマゾヒスティックな快感を楽しんでいた稲宮も、さすがにおかしいと不安――清川を心配する不安より、自分が嫌われたかもという不安の方が圧倒的に多かった――になって、彼女の携帯に何度も電話したが、つながらない。稲宮はこの記憶をはっきりと思い出してすぐに、数日前、西の街に沈みゆく紅い太陽を三条大橋から見た時、自分には殴らねばならない者と、手を握らねばならない者がいると感じたのは、消えゆく夕日を見ながら清川を失ったからではないだろうかと思った。

 稲宮から連絡を受けた清川の父が、彼女の失踪届を出したのはその日の晩だった。

 彼女は見つからなかった。

 だが、失踪してから四日後の夜、稲宮は夢を見た。

 その夢で彼は車に乗せられていた。夢の身体は自分自身のものではなく、他人のものみたいだった。他者の記憶を体験しているように思えた。

 その意識はぼんやりとしていた。口にはタオルが詰め込まれていて、顔に黒いビニールを被せられている。だが、ビニールは顔を完全に覆うほど下げられてはいないようで、左目はフロントガラスからの景色を捉えていた。寂れた街の中に立つ比較的大きな建物が迫っていた。壁は黒ずみ、様々な場所の窓ガラスが割れている。屋上に看板があって、「京都鴨川病院」という表記が薄く残っている。稲宮がそこまで観察したところで、複数の男の声が彼が入っている人間の耳に響いて、その視界が闇に染まった。ビニールで完全に顔を覆われたようだ。

 稲宮は目覚めると、今の夢は清川の見た景色だと感じて、あの病院に彼女がいることを、彼女を失った絶望も影響してか、すぐに確信した。藁をもつかむ思いだった。

 病院の名前を知れたおかげで、稲宮は所在地を容易に探し出して、その日の夜には行くことができた。

 叡山電車出町柳駅から数駅の場所にある、15年前に閉鎖された七階建ての廃病院だ。高さ二メートルほどのコンクリートブロックの塀に囲まれて、その門は白く塗装された金属の板でふさがれている。

 塀の前に立って、稲宮は押しつぶされそうな恐怖を感じた。だが、清川ともう会えなくなる方が彼にとってより怖いことだった。もし、彼女がすぐに戻ってくるなら、自らの目玉を抉り出して、生のまま食べてもかまわないと思っていたほどだ。

 彼はじっと左手を見て、清川に触れられたことを思い出すと、甘い感覚を身体に起こした。そして、塀の上にある侵入防止のガラス片で怪我をせぬように、ワイシャツを脱ぎ、その両袖を両手にぐるぐると巻きつけると、甘い感覚と怒りで恐怖を覆って、塀を乗り越えた。

 降りた場所は建物の裏で、稲宮は闇に目が慣れるまでしばらくそこでじっとした。

 辺りに、かつて病院で使われていたのであろう機材の塊が見えてくると、ゆっくりと歩き出す。その時、視界の右端で何かが動いた。驚いてその方を見ると、人がもう目の前まで迫っている。稲宮は抵抗する間もなく羽交い絞めにされて、首にちくりと痛みを感じたかと思うと、くらくらと闇に落ちた。

 目覚めると、白い光で満ちた部屋にいた。

 光に目が慣れてくると、霧が晴れるように部屋の様子がはっきりしてくる。

部屋は正方形で、その辺の長さは20メートルほどだ。天井の高さは3メートルくらいで、それ自体から発せられる白い光が部屋を照らしている。

稲宮は部屋の片隅に置かれた椅子に、手足を縄で縛りつけられていた。彼から見て正面の壁は一面が窓で、その外に薄暗くて紅い空間が広がっている。部屋の中央には直径が1メートルほどの白黒模様の球体が浮かんでいる。その模様は常に動き、彼が見ている内にも急速に変化していった。最初見た時はマーブル模様だったのだが、今は黒と白の勾玉を合わせたようになっている。その球体の下には、拳ほどの大きさをした白黒模様の球体が設置されている――その模様も上の球体同様に変化を続けている。球体の周りにはスーツを着た男たちが数人いて、顔を少し下に向けていた。

 稲宮は彼らの視線の先を見て、

「あっ」と叫んだ。

 よく見ると、小さな球体が設置されている辺りだけ床が透明になっていて、床下の空間に清川が横たえられているのだ。彼女は肩から上だけが見えていて、そこ以外は普通の床下にあるので見えない。その瞼は閉じられている。

 声に気づいたのか、一人の背の高い男が稲宮の方を向いた。口髭と優しげな目元が特徴的な男で、歳は40後半に思えた。

 彼は親しい友達に久しぶりに会ったような微笑を浮かべて、稲宮のそばにくると、

「私は君のことを知っている。話をしたかった」と言った。その声は安心感を与える落ち着いたもので、稲宮は清川が進んでここに来たように一瞬思いそうになったが、夢で体験した朦朧とする彼女を思い出すと、憎悪を込めた目できっと睨んだ。

「……稲宮くんだね? 君は彼女を助けにきた。おそらく、夢でこの場所を見て」

 稲宮の怒りを、どうして知っているんだろうという強い困惑が覆う。

怒りによって目の前から逸らされていたのであろう、この場所の不気味さと、夢で見た場所に本当に彼女がいたという異様さを初めて感じて、急な恐怖に襲われた。

稲宮はそれが顔に出ぬように、舌の先をぎゅっと噛む。

「……君の気持ちはよくわかるよ。清川さんのことを深く愛している、いや、依存している。そして、彼女も君に依存している――彼女の夢世界の核は、他の人間のように自由に調査したり、改変したりはできない、だけど、君を含む三人の人間に対する感情は、核に侵入せずとも観察できるほど大きく、その中でも君に対するものが最も大きかったからね」

 男はすっと息を吐くと、悲しそうな表情をした。

「君は私に似ている。だから、すべて話そう……。だけど、恨まないでくれよ。すべては真の平和のためなんだ」

 稲宮は口のかわきを覚えた。

「我々の組織は非常に長期的な国家の繁栄を目的として、秘密裏に設立されたようだ。その時期は定かではないが、1920年代には既に存在していたと前任の長が言っていた――本当かどうかはわからないけどね。我々は国のあらゆる場所に入りこんでいる。必要とあれば、ほとんどのことが可能だ。例えば、人一人の存在を次の日から無かったことにできる。対象を殺害することなど簡単なことだし、それに、人間の存在は情報で証明されていて、我々は電子か否かに関わらず、あらゆる媒体に記録された情報を自由に改変できるからだ。だが、人間の消去という方法をあまり乱用はできない。その人間と関わっている人――家族、友人、職場の人間――の記憶までは改変できないからだ。つまり、外面の情報をいくら改変して抹殺した対象を完全消去しようとしても、彼らの頭には残り続ける。たとえ、拷問で、彼らに削除対象はいなかったと思いこませても、その記憶が本当に消えるわけではない」

 男は言いながら、稲宮を縛るロープを解いていく。稲宮は、恐怖と、場に不釣り合いな彼の優しい雰囲気に、怒りをさらに覆われて抵抗する気が起こらなかった。

「君は北海道の青い光についてのニュースを覚えているかな。その頃に報道された、誰かとまったく同じ夢を見たとか、眠ったまま衰弱死していったというニュースはどう? 我々の工作によって、ほとんど情報が消えているから、もしかしたら、知っていても自分の勘違いかもって思っているかもね……」

 稲宮はこくりと頷く。

「我々はあの光が落ちた湖にいち早く駆けつけて、湖底から乗り物の残骸のようなものと、そこにへばりついた肉塊を回収した。……地球外生命体のものだ」

 男は稲宮の顔に好奇心の色が少し浮かんだのを見たからだろうか、表情を柔らかくして、

「楽しい話をする前に、少し堅苦しい話をしようか」と優しげに小さく笑った。

稲宮は、彼が東京大学を受けないと言ったときの父親の怒りと、北海道大学に落ちて同志社大学に行くことになったときの、「どうしてこんな簡単なことができないのだろう」と言いたげな不思議さと蔑みが混じったみたいな表情を何故か思い出して、この男が自分の父だったらよかったのにと不意に思った。だが、すぐに、何故そんなことを思ったのかと疑問を抱いた。そして、清川に対する裏切りのような気持ちを抱いたことと、恐怖と場の異様さで怒りを貫けない自分を罪に思ったのだった。

「我々の組織にも、他人と同じ夢を見た人間が現れ出した。そこで、飛来物との関連性と、組織への有用性を強く感じて、本格的な調査を始めた。その結果、精神と肉体は分離できるもので、寝ている時、我々の精神は異空間に行っていることと、夢というのは精神のその世界での体験だということを発見した。……だから、我々はこの異空間を夢世界と呼んでいる」

そう言って男が差し伸べてきた手を、稲宮は自然な感じで握ってしまう。慌てて離そうとしたが、ぎゅっと強く握られて椅子から立つように促されたので、男に身を預けるようにして立ち上がった。

 男は右手につかんだ稲宮の左手をじっと見つめて、柔らかな笑みを浮かべる。だが、首を何度か小さく横に振ると、表情を少し硬いものにしてその手を離した。

「……夢世界には、大きな夢世界と小さな夢世界の二種類がある。まぁ、種類分けをしているが、小さな夢世界は、大きな夢世界の中にあるから、もしかしたらその一部分にすぎないかもしれないんだがね……」

 彼が一面が窓の壁へゆっくりと歩き出すのを見て、稲宮は遅れないように付いていく。稲宮の左手には男の手のぬくもりがまだ残っている。彼は、子どもの頃、父親から一度も手を握ってもらった経験がないことを、そして、母親とも、安全上どうしても必要な時以外は手をつないだ経験がないことを思い出した。幼い稲宮にとって、父親は常に威圧的な怖いだけの人で、母親はそんな父親にいつも従う彼の一部のような人だった。だから、仲睦まじい親子の話などを聞いた時は、今でも果てなく嫉妬してしまったり、そんな話は嘘だと疑ってしまったりするのだった。

「大きな夢世界は、一つの共有空間と無数の個人空間の二つから構成されていて、小さな夢世界はその無数の個人空間それぞれに内包される形で存在している」

 窓の前で男が立ち止まると、稲宮は彼の横に並んで窓の外を見る。

 外には円形劇場を連想させる空間が広がっていた。青白く光る球体を同心にして、円形の段が数十重もある。段は紅く輝き、その光が空間を不気味に照らしている。稲宮は、黒い物体が等間隔で段上に並べられているのを発見して、目を細めた。

 ぞっとして思わず男に身を近づける。

 人間の頭だった。すべて中央の球体の方に顔を向けている。段は透明性の高い物質でできていて、円段内をぐるぐると液体が流動しているのが分かる。液体は発光性のようで、紅い光はそこから来ているらしい。頭が置かれた辺りのそれぞれの後方から、二本のチューブが伸びて、側頭部に接続されている。まるで頭一つ一つがイヤホンを着けているようだ。液体はそのチューブを通して頭に注がれては段内へ戻っている。

 男は恐れる稲宮に構う様子も見せずに、窓の外を見ながら話を続ける。

「……個人空間は、文字通り個人が所有する空間で、精神を有している知的生命体の数だけ存在しているようだ。空間内は、上層、中層、下層と三層に分けられ、それぞれに特性の異なる小さな夢世界が存在する――層と小さな夢世界の関係は、舞台とそこで演じられる劇の関係に少し似ていると私は思っている。……上層にある小さな夢世界は、日々変化するもので、基本的にその層に一つだけ存在する。この層に存在する小さな夢世界は、夢の主が寝ている間に何度も消えては新しく生まれる。眠ると精神はこの世界に現れることが多い。普段よく見る夢は、精神がこの世界で体験したものだ」

 稲宮の頭に、今までに見たありふれた夢の記憶が巡る。

「中層には、いくつかの小さな夢世界が隣り合い、影響し合いながら存在している。この小さな夢世界は人生を送るうちに増えていく。同じ夢を何度も見るといった場合、精神がこの層にいたことが考えられる。同時的に存在しているどの世界に行くかは、その精神の状態次第だ」

 稲宮は、最近よく見る自分の罪を燃やす炎の夢や、清川の住む寮の夢、それに、風邪をひいたときに必ず見る、地を食う怪物の夢とかのことだろうかと思った。

「下層にある小さな夢世界は、上層と中層の世界を形成するためのエネルギーとなる世界だ。この世界にあるものは、闇と、そこに浮かぶ、記憶と感情の純粋な塊である様々な色に発光する巨大な球体だけだ。我々はこの球体のことを『核』と呼んでいる。……光だけの夢を見たことはない?」

 男に顔を向けられて、稲宮はおずおずと頷く。

「それを見た時、君の精神がこの層の世界にいたことが考えられる。……そして、この核を操作することで、人間の記憶と感情を改変することができる。つまり、他人の個人空間の下層世界にある小さな夢世界に侵入して核を弄れば、我々の好きなようにその人間の記憶と感情を操作できるのだ。それが、我々の……いや、それよりも、私の計画にとって必要だった。だから、大規模に改変するために……」

 男は再び窓の方に顔を向けて、

「これを作り、そして」と清川がいる方へ身体を向ける。

「清川さんをさらった」

 稲宮は、はっとして男から離れたが、羞恥心で清川の方を向くことができずに、窓の外の光景を見る。

「今、大規模と言ったが、小規模の改変、つまり一気に大勢ではなく、一人だけへの改変ならば、清川さんと、この装置がなくても実現できた。我々はその小規模の改変の方を、『近法(きんほう)』と呼んでいる。この方法は、他人の個人空間とつながるために必要とされる条件から開発された方法だ――その条件は、他人と同じ夢を見るようになったという異変の調査を始めてから明らかになった」

 男は窓の方を向くと、少し稲宮に近づいて、

「条件は二つあり、自然に個人空間同士がつながるためには、少なくともどちらか一つを満たさなければならない。一つ目が、つながる者のどちらか、または両方が青い光を浴びていて、精神的に求め合う関係にあること。これは最もつながる確率が高い。二つ目は、つながる確率が低いのだが、どちらか、または両方が青い光を浴びていて、近い距離で寝ていることだ。我々は、情事だけの関係でも一緒に寝ていた場合、同じ夢を見ているものがいることから、この二つ目の条件を発見した」

 男はさらに話を続ける。

「……『近法』はこの二つの条件の研究から生まれた方法だ。対象の人間の近くに、夢世界で自由に動ける人間、つまり、夢世界で自己の精神を現実の意思を以って動かせるように訓練された人間を寝かせたあと、専用の装置を使って、恋人の精神状態に両人を近くすることで行われる。これらの手順で二人の個人空間をつなげて、組織の人間の精神を対象の下層に送り込んで、その記憶と感情の球体である『核』を改変させるのだ」

 稲宮は、オカルト好きの友達が急に青い光について忘却したことを思い出して、現実が揺らいでいく気持ちになり、今の状況自体が夢ではないだろうかと感じた。

「だがそれでは、大規模に、つまり、集団を一気に改変することはできないし、手間もかかりすぎる。そこで、我々は個人空間をつなぐ方法ではなく、それ以外の方法で対象の個人空間の下層に侵入する方法を探し始めた」

 男の横顔を見ていた稲宮は、彼にはかつて息子がいたのでないかと不意に思った。

「そこで注目したのが、上層に空いた穴の向こうの世界だ――青い光を浴びた人間と、その者と精神的に深くつながっている人間は、上層に穴が空いているのを認識できるようになるのだ――後者は稀にだけどね。その向こう側の世界こそが、大きな夢世界を構成する片割れの共有空間だ」

 男は稲宮の顔を見る。稲宮は、男の瞳に何か深い愛情のようなものが一瞬よぎったような気がして、彼には失われた息子、それも幼いときに失った息子がいるという思いをさらに強めた。

また、稲宮は、敵であるはずのこの男に悪くない印象を受けているのは、自らの中に優しい父親を渇望する気持ちがあり、男をそんな父親の代替にしようとする欲望が無意識に沸き起こって、男の中に存在するであろう息子を求める気持ちと、渇いた男女が些細な切っ掛けで求めあうように絡まり合ったからではないだろうか、とも考えた。

 男の話を遮る形で、稲宮は思わず、

「死にましたか?」と尋ねた。

 男は目を見開いて、

「……誰が?」

 稲宮は怖くなって何も話せなくなり、顔を下に向ける。

 しばらくの沈黙のあと、男は悲しそうな表情をして、

「……そういうことか、君も私も、無意識に代替としていたからこんなに……」

 男は稲宮の方を向くと、彼の右手を強くつかむ。その痛みに稲宮は顔を歪ませる。

「痛いか? もし、このまま小指を折ると、君は泣くか?」

「……きっと泣くでしょう」

「生きているから?」

「生きているから」

 男はそっと手を離すと、ふうっと息を吐いて表情を硬くした。何か強い感情を捨てたように見えた。

 血の再び巡っていくのを感じながら、稲宮が男を見ていると、彼は話を再開した。

「……共有空間は、青い光で満ちた果てしない広さの空間だ――上に果てはあるがね、天井が広がっているんだ、高さは500メートルほどかな? ……我々は共有空間に初めのころから強い興味を抱いていた。穴から共有空間を覗くと、地面には無数の同じような穴が空いていて、その一つ一つに個人空間が存在しているようだったからだ。だが、調査はいったん打ち切られていた。自らの個人空間から完全に共有空間に出た人間は誰一人として戻ってこなかったんだ――本体は、眠ったまま衰弱死していった」

 男の口調が熱を帯びてくる。

「だが、私の計画には、大規模な夢侵入記憶改変システムがどうしても必要だった。だから、私は無理に調査を再開し、数千人を共有空間へ派遣して、ついに一人の帰還者を得ることができた。一週間、彼は共有空間を放浪し続けて、運よく自分の穴に戻ってこられたのだ――まぁ、彼はその後に犯した罪でもういないが」

 男は中央に浮かぶ球体の方を向くと、その周りの部下らしき男たちに、

「おい」と合図をする。

 一人が反応して男の方を向くと、その人へ、

「テラヤマサトルの覚え書きを持ってこい」

 その人は頷いて、部屋の隅にあるドアへ行くと、中に入った。

 しばらくすると戻ってきて、男に一枚の紙を渡す。

 稲宮は男からそれを受け取ると、恐る恐る目を走らせた。ぐらぐらした汚い文字だった。


 一度出てしまえば帰還が困難になる主な理由として、共有空間の以下のことが挙げられると思います。

 1共有空間の地面は白くて柔らかく、常に動いており、じっとしていても自分の穴から離れてしまうこと。

 2一度、個人空間から出てしまうと、自分が出てきた穴が近くにあるはずなのに、何故かはっきりと分からなくなること。

 3共有空間での時間は、通常よりも早く流れるということ。

 4唯一の目印は、天井に存在するピラミッドを反対にしたような紅い物体だが、このピラミッドも常にあるわけではなく、消えてはまったく別のところに現れたりするため、現在地を把握するのは困難なこと――このピラミッドに関して気になることがある、そこから人が降りては上に戻っていくのだ。

 5穴は、時間がたつと地面に埋没すること。おそらく、夢の主が起床すれば埋没するのだろう。埋没時にその個人空間にいれば、もう絶対に帰ってこられない感じがする。彼らは吸収されてしまうのではないか?

脱出する方法として最も有効なのは、穴が少なくなる時間まで待ち、自分の穴と思われるところをいくつか目星をつけて、そこに飛び込んでいくことだが、帰れるかどうかは運次第だ。私は本当に運がよかった。


 読み終わった稲宮が男に顔を向けると目が合った。男は頷いて、

「……私はその紅いピラミッドと、そこから出てくる人が気になった。その人間は誰なのか? 誰の精神なのか? 青い光は落下地点で一際強い輝きを放った。もし、その落下地点に人がいたならば、その人間は青い光を多量に一気に浴びたことになる。その人間こそが、紅いピラミッッドの人間ではないだろうか? 私はこう考えて、その人間の捜索を始めた。この装置を造りながらね……」

 男は窓の外に顔を向ける。

「この装置は、『精神の統合場』と呼ばれている。複数の精神を統合して、一つの巨大な精神を生み出すためのものだ。……真ん中にあるものが見える?」 

 稲宮は頷く。さっきはよくわからなかったが、中央で青い光を放つ球体には流動する模様があった――模様自体は、清川の上に浮かぶ球体に刻まれたものと似ていて、もし中央の球体から青い光を消したら、同じような白黒の模様になるように思えた。

「あれが、少し前に言った地球外からの飛来物に含まれていたものだ。最初、残骸は三角形の乗り物のようだったが、青い球体を含む三つの球体を残して消失した。球体の二つは破損していて、青い球体だけが能力を完全に残していた」

「能力?」

「複数の精神を一つにする能力だ。あの頭一つ一つは生きていて、それぞれ精神を持っている。あの球体はそれらを統合して一つの巨大な精神を作っているのだ」

 男は話を続ける。

「残り二つの球体に込められていた能力は、落下地点にいたのが清川さんだと判明して、彼女をここへさらってきたときに明らかになった」

 男が清川の方を向いたので、稲宮もその方を見る。大きな球体と、小さな球体、その下で眠る清川。

「彼女を二つの球体の近くに置いたとき、突然、球体が浮かび上がって、流動する白黒模様が表面に出現した。思わず球体に触れると、二つの球体にかつて込められていた能力が頭に入りこんできた」

 男はすっと息を吐く。

「その二つの球体のうち、大きい方に、この宇宙に存在する知的生命体の個人空間の座標的なものが入っており、それを使って、目標とする知的生命体の個人空間が共有空間上のどの位置に存在するかを特定する能力があったこと――このことが頭に入ってきたときに、個人空間と、夢の主が寝ている位置が連動していることを知った、つまり、個人空間の場所が分かれば、夢の主が現実空間のどこにいるのかわかる。……小さい方に、共有空間の天井の向こうに広がる、あるエネルギーが無限に満ちた世界に接続する能力があったこと……」

 男は稲宮に顔を向けると、

「その世界から染み出したエネルギーが、大きな夢世界、つまり、共有空間と個人空間を形成するための力となっているのだ。……我々は天井の先の世界に満ちたエネルギーを、『虚の現出エネルギー』と呼んでいる」

「虚の現出……」

 稲宮は少し考えて、

「夢を具現化できるエネルギーですか?」

「……賢いね。小さな球体からの情報によれば、このエネルギーは現実空間へ放出される時に、精神とその個人空間を経由させることで、我々の宇宙の法則をある程度無視できる物質や現象に変化させられるようだ――消えてしまった飛来物は、この能力によって生み出されたものだろう。つまり、この能力を十分に使えば、個人空間の小さな夢世界に存在するもの、すなわち、夢を具現化することができると考えられる」

「……もしかして、文がここに来てから球体が起動したのは、放出された青い光にそのような能力が込められていて、多量に浴びた文にその能力が移ったからですか? そして、球体には能力の操作機能だけが残った……そうでしょう?」

 男は感心したような表情で頷く。

「そう私は考えている。青い光を放つ球体には、精神統合能力と、その操作機能の両方が残っていたしね……。光を浴びた結果、彼女の個人空間は紅いピラミッドに変化した。彼女には共有空間上での個人空間の座標的なものが入っており、すべての個人空間の場所を把握することができる。そして、天井から、虚の現出エネルギーで満ちた空間に接続できる。我々は球体を使って、彼女に移った能力を使用することができる、つまり、地球上にいるすべての人間の個人空間を把握できるようになったのだ。一つ残念なのは、虚の現出エネルギーで満ちた空間への接続は、その球体の能力操作機能もひどく破損しているため、うまくいかないということだ……」

 男はふうっとため息をついた。清川の方へ二、三歩歩いて、稲宮の方へ顔を向けると、

「だが、全ての人間の個人空間が特定できるようになっただけでも素晴らしい。『精神の統合場』を使い、一気に大勢の人間の『核』を改変して、彼らの記憶と感情を操作できるようになったのだから。我々は、この改変方法を、『近法』に対して『遠法(えんほう)』と呼んでいる」

 前を向いて、男は歩き出す。

「ついてきなさい。『遠法』を見せてあげよう」

 稲宮は男の後に続き、彼が球体の前で立ち止まると、その横に並んだ。

 大きな球体、小さな球体、その下に横たえられた清川を間近で見て、稲宮は、男との接触で隠されていた怒りが心に再び現れたのを感じた。だが、彼はその怒りの根底にあるものを不意に悟って、恥ずかしくなった。清川がひどい目に遭わされていることは、怒りの表層にあるもので、奥にあるのは、自分をほっとさせてくれる、そして、愛情の受け手と与え手になってくれる唯一の存在を奪われたことだったのだ。

 男が大きい方の球体に触れると、球体の白黒模様が二人の前の辺りだけ真っ黒になって、そこに映像が映った。

 映し出されたのは共有空間のようだ。天井と地面の中間の地点から送られてきているらしい。男の話通り、地面には無数の穴があって、天井にはピラミッドを反対にしたような紅い物体がある。一つ違うのは、逆さピラミッドを数多の触手を生やした緑色の球体が覆っているということだ。

「この緑色の物体が『精神の統合場』で作られた巨大精神だ。この映像も、その触手のひとつから送られている」

 男が周りにいる部下たちに視線を送ると、彼らは両手を大きな球体へ一斉にくっつけた。

「まず、清川さんに込められた個人空間を特定する能力を、この球体を使って操作する」

 男は話を続ける。

「そして、対象の集団の個人空間を見つけると、巨大精神の触手を使ってそこの下層世界に一斉に侵入し、記憶と感情の塊である核を改変するのだ」

 映像の中で、巨大精神はその触手を地面の様々な場所に落として、無数の穴の上へ飴のように広がっていく。しばらくすると、触手に覆われた穴から、赤や黄の数多の光点が吸い上げられるように出てきては巨大精神の球体部分を経由して穴に戻っていく。

「吸い上げられているのは分解された核だ。一度本体まで吸い上げたあと、我々の求めるように改変して戻す」

 男は稲宮に顔を向ける。

「どうやって改変するかは、巨大精神自体が判断する。我々は誰を何の目的で改変するかだけを指示すればいい。例えば、『ある殺人事件を目撃した人たちを、その殺人事件を目撃していなかった』ということにしろと指示を出せば、巨大精神がそれをどのように実現するかを考えて実行する。そのときに必要であれば、対象以外の人間の核も改変する。そして、巨大精神からは、改変した記憶や感情などの内面の情報と大きな矛盾が生じぬように、書類などの外面の情報をどのように改変すればいいかということが送られてくる。それに従って、担当部署が外面情報を変更するのだ」

 稲宮は気持ちが抑えきれず、話の切れ目を待って、

「文は……」と言ったが、男によって話を遮られる。

「内面の情報の自由な改変が可能になる……。『1984』でウィンストンが受けたような拷問も必要はないんだ。頭の中にあるものは我々が望む真実ただ一つになる。交戦国はずっとイースタシアで、同盟国はユーラシアだった、これがただ一つ、彼らが信じるべきものとなる。べき? いや、違う。この表現は間違っているな、これでは今までと変わりないことになる。ウィンストンのような人間が出てきてしまう。……信じられる唯一のものだ。頭の中にある情報は本当にそれだけになるのだから、外面の情報もそれを証明するように改変されるのだから――二重思考なども必要ではない。徳川幕府が存在したことを疑う者がいるだろうか? 第二次世界大戦が起こったことを疑うものがいるだろうか? 改変後は、我々の望む真実がそのレベルの情報になるのだ」

 男の口調が狂気じみてくる。

「私は『遠法』を使ってこの組織の人間自体も作り変えた。さっき、この組織の目的が非常に長期的な国家の繁栄を目的としていると言っただろ?」

 稲宮は男の異様な雰囲気に気おされて頷く。

「実はもう違う。私は、幸(さち)と貴(たかし)にとって真に平和な世界を実現するための組織に改変したんだ。つまり、彼らの『核』を弄り、記憶と感情を改変したんだ……。組織をずっとそれを目的としていた組織にしたんだ」

 一瞬、男の目に悲しげなものがよぎり、稲宮から顔を逸らすと、ぶつぶつ呟き始める。

「だけど、それは本当に二人が望んでいたことだろうか? 二人はそんなことを言ったのだろうか? これはただの自己満足ではないだろうか?」

「文はどうなるんですか?」

 稲宮は耐えられなくなって、男の右手を両手でぐっとつかむと、その横顔をじっと見る。

 男は、はっとしたような表情をすると、話を少し中断したが、稲宮の手を振り払って話を再開する。

「だが、これには欠点があってね。対象が寝ているときしか使えないんだ。個人空間は、その主の起床時は埋没しているから侵入できないからね。もっとも、起床時でも侵入できる可能性がないわけではないが……」

 稲宮が哀願するような視線を男に送っていると、男は不意に話をやめて、稲宮に顔を向けた。

「……文を返してはくれないの?」

 稲宮の声は微かに震えている。

「お願いです……。ずっと、ずっと一緒にいたいのです」

 稲宮の瞳から涙が溢れ出し、頬を伝っては下に落ちていく。

 男は稲宮の目を避けるようにして、顔を清川の横たえられた方へ向けると、

「……清川さんを助けることにもなるんだよ。……映像を見てごらん」

 稲宮は涙を服の袖で拭くと、映像に目を向ける。

「よく見ると、ピラミッドから黄色い光が飛び出しては、ピラミッドを覆う巨大精神に取り込まれているのがわかるだろ?」

「……はい」

「それは、清川さんの個人空間を経由して出てきた『虚の現出エネルギー』だ。清川さんに、そのエネルギーが満ちた空間に接続して夢の具現化ができる能力が移ったと言ったよね? 彼女は私の話で力を自覚したことで、能力を発動したのだ。だが、不幸なことに彼女はその能力を制御できないようだ。眠っている間に、夢の具現化が次々に起こってしまうのだ」

 男はふうっとため息をつく。

「もっとも、具現化されたもののほとんどは現実空間に耐えられなくて、自然消滅を起こす。だけど、具現化物に込められた感情が非常に強いものなら、悲惨なことが起きるだろう……」

 男がゆっくりと歩き出すと、稲宮も黙ってそれに続く。

 彼は部屋の片隅にあるドアの前で立ち止まった。

「君の目で確かめてみるといい……」

 稲宮が恐る恐るドアを開けると、その先の部屋に白い照明が点いた。

 四方に本棚がある六畳ほどの小さな部屋で、その片隅に一組の男女がいる。女は無色透明の液体が入ったビーカーを右手に立っていて、左手で彼女の前に跪く男の頭を撫でている。二人は無言で見つめ合っていて、撫でる女、撫でられる男、どちらも果てなく幸福そうだ。

 稲宮はこの両人をもちろん知っていた。男は彼自身で、女は清川だったからだ。

 だが、具現化物の稲宮は、実物よりも少女じみた容姿をしていた。

 具現化物の清川は何かをぶつぶつと呟いているようで、稲宮は耳を澄ました。

「父の裏切り、母の自殺、男性の排除、同性愛? 千代の告白は? 駄目だった。潜在的嫌悪感あり。ならば、少女的男性。愛しながら殺せる。男性への攻撃と排除を両方可能……」

 不意に彼女は表情を虚ろにすると、ビーカーの液体をさっと具現化物の稲宮にかけた。

 液体が彼の顔にかかるや否や、彼は顔を覆ってうずくまり悲鳴をあげる。彼の顔の辺りからは白煙が上がる。

 具現化物の清川は苦しむ彼のそばに跪くと、ぎゅっと抱きしめて、

「ごめんねごねんめごめんね。でも、私しかいないんだからね? わかってる? わかってるよね? わからなければ両脚を切断するからね? 私以外は誰も見ちゃダメだよ」

 稲宮はその光景を見ながら、自分の知らない清川を受け入れるか迷った。だが、よく考えれば考えるほど、優しく繊細だが少しSなところがあるという清川の像が壊れて、恐ろしく破壊的で病的な彼女が出てきそうな気がしたので、目の前の光景を否定することにした。

「このようなものが具現化せぬように……」

 男は話し始める。

「我々は清川さんの個人空間――紅いピラミッドのことだね――を通って出てきた虚の現出エネルギーが現実世界に出て具現化する前に、巨大精神でそのエネルギーを捕らえているのだ。つまり、我々がいなければ、今のような具現化がいつでも起こる可能性がある……」

「今のような具現化? 僕があなたの言うことを信じると思いますか? こんなものは嘘です。みんなみんな嘘だ! 文はこんなことを僕に思わない!」

 稲宮は男に殴りかかろうとする。だが、どこからともなく部下たちが現れて、彼を羽交い絞めにした。

 男は稲宮を見て悲しそうな表情を浮かべると、

「……私が何故、全部君に話したかわかるか。君と私が似ているからだ……。だが、もう一つある」

「僕を殺すからか? 殺すなら殺せ! だけど文も殺せ! 僕らはずっと一緒なんだ!」

「違う。君はすべて忘れるんだ。そして、日常に戻る……。わかるかい?」

 稲宮は男の言葉の意味をはっと悟って、じたばたと暴れる。だが、男の部下たちにしっかりとつかまれて抜け出すことはできない。

「嫌だ嫌だ嫌だ! 文を忘れたくない!」

 稲宮は自分の中から清川が消されたら何が残るだろうと考えてぞっとした。ほとんど何も残らないのだ。

 不意にちくりとした痛みが首に走って、稲宮の意識はぼんやりとし始めた。

「……お前の顔は心に刻んだからな」

 視界が薄れていく中で稲宮がそう吐き捨てると、男は、

「すべては真の平和のためなんだ」と言ったのだった。


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