第6話 『1984』

 高校3年 2月26日 駅前のカフェにて

 18時38分


 すごくびっくりした顔をしていました。

 でも、努力が報われずに昨日の試験に失敗して、自分の無能さと、あなたとこれから少なくとも四年間は遠く離れてしまう絶望――賢いあなたはきっと合格しているでしょう、後期で僕が受かれば、一緒にいけるでしょうが、今日のような大失敗をしてしまうような愚かな馬鹿は受かりません――を感じながら、僕の少し前を泡雪に包まれるようにして歩くあなたのすっとした後ろ姿を見ている時に、不意に振り返られて、

「試験うまくいかなかったんでしょう? 光がダメな人なんて誰でも知ってる。……私は初めから京都に行くつもりだったから。あなたが国立に受かるわけないし」と優しい声色と表情で言われ、加えて、冷たい雪が降っていたら、心を激しく揺さぶられて思わず、

「ずっと好きだった」とあなたの琥珀のような瞳を、果てのない幸福への欲求と、ぺしゃんこにされるような不安を込めた目で誰だって見つめてしまうと思う。

 あなたはびっくりしたような表情を浮かべると、顔をうつむけた。

 しばらくの沈黙が流れたあと、あなたは顔をうつむけたまま、僕の左手をいきなりぎゅっと両手で握ると、

「綺麗な手ね……」とポツリと言って、溢れてくる甘美な感覚に対応できずにいる僕を置き去りにし、自分の家へ駆けていった。

 その後、近くのバス停に座ってぼんやりと降雪を眺めながら、あなたの言動を何度も思い出しては、「振られた、いや、OKされた」と悩んでいると、あなたから携帯にメッセージが届いた。

 よろこびが身体の中心を走った。

 メッセージは、

「光は、すぐにはっきりと、この春があなたと私にとって楽しいものになるってわかるんじゃないのかな」というもので、文の最後に雪だるまと炎の絵文字があった。あなたは絵文字をあまり使わない人だから、僕はこれには何か深い意味があると直感した。おそらく、雪だるまの横にそれを溶かす働きのある炎を置くことで、あなたは、北大に行かずに、愚かな僕に付きあって京都に行くということを表したんじゃないのだろうか。そして、「あなたと私」と打ったのは、「OK」ということじゃないだろうか。

 だけど、しばらくすると、あなたがはっきりと、「OK」と言っていないことに気づいてまた沈んだ気持ちになった――けど、「すぐにはっきりと」というのはそれとなしに……。

 その気持ちを紛らわすために入った本屋で紅い表紙のノートを見つけた時、惹きつけられて――たぶん、一年前、一緒に紅葉を見に行った思い出が無意識的に影響したのではないだろうか――不意にあなたへの気持ちをそこへ吐き出したくなったのです。

 このような次第で、今、僕はこんな駄文を書いています。

 不安だ、不安だ、と言いながら、僕はあなたが好いてくれているということを確信しています。だって、あの言動は……。

 ……ストーカーみたいな自分が嫌いだ。依存的な自分が大嫌いだ。                                      〈光より〉 

 

 高校3年 3月8日 自宅にて 

 15時20分


 期待させておいて、希望をもたせておいてひどすぎる!

 落ちた僕が悪い。けど……。

 何故、あなたは……。

 今日は合格発表の日だった。やっぱり僕は落ちていた。でも、あなたが一緒に京都に来てくれるからと安心していると、突然、電話が来て、

「22日に発つから、その日に見送りに来て。それまでは会えません」とだけ言われて切れた。

 どうして一緒に京都に来てくれるなんて言ったの? 安心し切って、後期なんて受けるつもりなかったから、この一週間ずっとぐうたらで、ほんとに一秒も勉強してない……。

 それに告白の明確な返事は?

「すぐにはっきりと」じゃないの?

 生殺しだ。この一週間そればかり考えていた。こんなのがずっと続くの?

 ひどい……。

 見送りにはいくけど、それまで会わないのはひどいひどいひどい!

 見送りにはいくけど……。

                                〈光より〉


 高校3年 3月22日 関空の旅客機が見えるカフェにて 

 18時19分


「父親の会社から飛び降りたの。北大の受験日だった……」

 あなたの母親が自殺したことを、今いるカフェで聞いた時、愚かで自己中心的な僕の心にまず初めに訪れたのは、あなたの傷ついた心を案じる気持ちでも、元気づけたいという気持ちでもありませんでした。

 ただ、疑問が氷解したことによる安心のみです。

 どうして、僕と一緒にいてくれると言ったのに見捨てるの? 僕を嫌いになったのだろうか? あなたの大好きな『闇の左手』――あなたが好きだから、僕も好きです――が、あなたの雪世界への憧れを急に増したのだろうか? 何故、今日まで会ってはくれなかったのだろうか?

 このような疑問が、あなたが僕を見捨てた日からずっと頭をぐるぐるとしていたのです。

 だけど、母親の自殺が原因だったのですね――他の原因は嫌です、怖いです。

 僕は自殺を少し喜んでいる罪深い人間です。

「私はお母さんみたいになりたくない」

 あなたがそう言っている間、僕は机の上に置かれたあなたの左手を見つめていました。

 すっとした白い手は、雪原を主題にした上品な和菓子のようです。

 その時、圧殺したものが息を吹き返したのを感じました。白い手から、想いを告げた雪の日を連想したのでしょう。

「すぐにはっきりと」

 あなたはそう言いながら、僕を生殺しにしています。

 それにも母親の自殺が関係しているのでしょうか?

                                〈光より〉

 

 大学1年 4月27日 新幹線自由席4D→10Aにて

 8時13分


 今、京都を出たところです。この恐ろしく速い乗り物に、一万三千円近く払っていることを思えば、こんな駄文を書かずに、車内や窓の外を眺めていた方が良い気もしますが、僕に授業をサボらせて、馬鹿高い料金の乗り物に乗せた原因があなたにあることを考えると、新都よりさらに向こうにいるあなたに宛てて、このような愚かな文を書くことは、必要なことに思えます。

 あなたは、自分が何故その原因になるのかと思うでしょう。

 そう言える根拠の一つとして、ここ最近のあなたの言葉が、あなたから離れたいが近づきたいという私の感情をひどく高ぶらせたことが挙げられます。

 京都には、常に一つの思考が滞留しています。

 最近どうして、電話をかけてくれないんだろうか? それは、最後の電話であなたが話した、「批評入門の授業で連絡先を聞いてきたかっこいい人」に関係があるのではないだろうか? 

 このようなあなたへの思考を、僕は虐めてくるだけのあなた――あなたに虐められるのはよろこばしいことですが、これはただ苦しいだけです――と認識しています……。今、名古屋に着きました。かなり人が降りたので窓側が空きました。外が見たいのでそちらに移動します。

 そして、北海道にいる実体を持ったあなたは、虐めてくるだけでなく――このあなたの虐めは時に快感を与えてくれます――優しくもしてくれる、ほんとに神様のような存在だと認識しています。

 僕が東京を目指すのは、北海道と京都、両方のあなたが漂い流れて、丁度東京辺りで絡み合い、一つになって、僕の今求めているあなたになるような気がするからです――今の僕が北海道に行けば、幸福の混じった最悪の不幸で、あなたの寮の後ろで首を吊るでしょう。

 僕は、今は求めぬあなたから離れて、今求めているあなたに近づくために、この乗り物に乗ったのです。

 あなたに原因があることが分かりましたか? 

 ……あなたが僕を生殺しにしなければ、僕は自由なのに。

 最近、僕が寝る前に思い描くのは、あなたが送った炎の絵文字と、話してくれた寮――四階建て、あなたが住むのは二階――とそこにいるあなたが「誰を思っているか」ということです。

「すぐにはっきりと」「私と光にとって楽しい春」

 ……すべてお母さんの自殺が原因ですよね?

                                〈光より〉


 大学1年 5月3日 自宅にて 

 21時38分


 GWで帰ってきたあなたを見たとき、自分の予感が的中したのを感じて、背中がさぁっと冷たくなりました。

 黒くて長い艶のある髪をバッサリと切って、服装が洒落た感じになっていたのは、あなたに本当に好きな人ができたからではないでしょうか? その人は、あなたが言っていた、「批評入門の授業で連絡先を聞いてきたかっこいい人」ではありませんか?

 今日、遊んだ時に、あなたの両耳にきらきらしていた太陽のイヤリングは、その人からプレゼントされたものではありませんか?

 あなたは年中パーカーを着ているような人だったでしょう? それでも、その美しさは他を圧倒していました、あなたの琥珀の瞳は、アクセサリーにしたいほどです。

 いっそ僕のことを否定してください。自由にしてください。

 雪の日の言動はいったいなんだったの?

 僕のことを愛してください。

 本当は好きなんですか? 

 母の自殺が原因?

 僕は家族の愛を知らない。友人の愛もよくわからない……。

                                〈光より〉


 大学1年 9月23日 自宅にて 

 午前2時30分


 夏休みで帰省した彼女から、突然、広島旅行に誘われた。絶望と幸福が入り混じったような旅だった。あれから一カ月経ったが、まだその時の絶望と幸福を思い出している。

 二泊の旅行。二日目の晩、彼女とホテルのバーで飲んでいた時だ。彼女は視線を横に逸らした時に誰かを見つけて、こちらを向くと、

「ちょっと待っててね」

 口元に微笑が浮かんでいた。太陽のイヤリングが橙色の照明を受けて光っている。彼女は僕を置き去りにして、彼女の三つ隣にいる男の横に座った。心がひゅっと冷たくなった。恐れていたことが起こった。会いたくなかった!

 僕はうつむいて、青色のカクテルをじっと見ていた。会話が途切れ途切れに聞こえてきた。辛かったけど、耳は塞がなかった。あの人がそうなの? どんな人なんだろう? 僕じゃ駄目なの?

「……最高だね。ありがとう」「……1307号室」「またその話?」

 小さな笑いが起こった。その話ってなんだろう? 僕は知らない……。

 気になって一瞬横を見た。後悔した。彼女が甘えたような感じで、男の服の裾をつかんでいる! 体格の良い美青年。男の理想像。僕は?

 彼女と男がこちらを見た。会釈をする男。僕は心臓を締め付けられるような気がした。財布からお札をつかむとカウンターに置いて、逃げるようにバーを出た。

 部屋に戻ると、枕に顔を埋めて泣いた。

 嫌だ、嫌だ、もう嫌だ。

 顔を上げると、近くの姿見に男らしさを奪い去られたような女じみた顔と、貧相な身体が映っていた。

 あの男を殺したい。

「グリーンアイドモンスタァ」

 自然と口から出た。シェイクスピアも嫉妬に苦しんだのか?

 ここまでは、絶望だった。ここからは、幸福だった。

 玄関のドアが開く音ではっとした。涙を拭くとベッドに腰掛けて、テレビをつけた。

「驚いてたよ。突然、帰っちゃったから……」

 彼女は部屋に入ってくると、僕のすぐそばに座った。

「急にお腹がね……」

「……そう?」

 左手の甲を柔らかい何かが覆った。仰天して彼女の顔を見た。穏やかな表情で僕の左手を見ている。彼女が両手で僕の手に触れているのだ! ぞくぞくとする感覚が胸の内から四肢まで広がる。幸福感。この瞬間、僕は彼女を中心にしてこの世のすべてと溶け合ったかのようだった。現実が揺らいでいくようだった。

「やっぱり綺麗な手ね……」

 あの時の答えは? そう聞きそうになったが、寸前で踏み留まった。この幸福な空間がしぼんでしまうかもしれない。そう思うと怖かったのだ。

 これが旅で起きた絶望と幸福のすべてだ。高校の時、彼女はこんなによくわからない人物だったか? もしかして、そこには母の自殺が関係しているのではないか? そして、彼女は僕のことを愛しているのか、それとも愛していないのか?

 明日考えよう。今日は、左手で感じた彼女を思い出しながら安心感に包まれて眠りに落ちることにしよう

                                〈光より〉




 大学1年 1月2日 自宅にて 

 23時58分

 

「今日は左がないんだね」

 その男は、もしかしたらという不安を抑えきれなくて、自分の予感は的中するかもしれないという恐怖を抱きながら、横を歩く彼女を見た。

 GWと夏休みに遊んだとき、いつも彼女がつけていたイヤリングが左耳だけないのだ。

 男は彼女がクリスマス以後に帰ってきたことを考えて、その異常に何か嫌なものを感じていた。

「……そうね」

 彼女は男の方を見ない。

 沈黙が流れる。

 だが、いきなり彼女の口元に微笑が浮かんだかと思うと、彼の方を向いて、

「あぁ、忘れてきちゃったんだ。遊んだとき……」

 彼は背中にひやりとしたものを感じた。怖くて聞けない。

「……誰と遊んだと思う?」

 女の声が響く。

 

 男は大きな不安の塊を胸に抱えながら、家に帰ると思考し始めた。

「……クリスマスにあの男の家に泊まって、そこで忘れてきたのではないだろうか」

 女と交わる隣人の声が聞こえ始めた。

 男は辛くなった。机の引き出しを開けて、耳栓を取り出すと、それを両耳にしっかりとつけた。

 彼は、彼女に好きな人間がいるのではないかという疑念を抱き始めてから、隣人の交わりの声が辛くなり、耳栓を愛用していたのだ。

 その辛さの底には、その交わりを聞くことで、「彼女も隣で喘ぐ女と同じように、その大好きな存在に貫かれて、多幸を感じながら、一つになっていくのだろうか」という考えが喚起されるということがあった。

                                〈光より〉


 

 大学2年生 5月27日 自宅にて 

 15時30分


 北の国から『闇の左手』が届きました。

 あなたはやはり卒論でこの本を扱うんですね。

 余白の感想と批評を読ませてもらいましたが、何だか、同じ作品を卒論に選ぶのが恐れ多くなります。

 添付の手紙も読ませてもらいましたが、果たしてあなたとの交換批評の相手が、僕に務まるかどうかわかりませんが、頑張らせていただきます。

 あと、送り主の住所を書かずに、「北の国から」とだけ書いたのは、ハマっていると言っていた、同名のドラマに影響されたからですよね?

 あなたからの電話です。


 二週間ぶりのあなたの声。すごく幸福でした。

 やっぱりドラマの影響でした。

「それに、北の国からだけの方が、なんだかミステリアスで楽しくない?」という意見には共感できるところがあります。楽しいです。ただ、僕は、「あなたと秘密を共有できているようで楽しい」ですけど……。

                                〈光より〉


 大学2年生 12月28日 自宅にて 

 22時10分


 僕に好意を寄せてくれた女性が二人いて、最近、彼女たちに共通点を見つけたのです。

 中州りさ。岸夕美子。

 二人とも、名前に、川に関係する言葉が入っています。

 僕は、無意識的に、二人をあなたの代替にしようとしていたのではないでしょうか? 二人は、その気配を自分たちへの恋愛的なものと勘違いして、僕に好意を寄せてくれたのではないでしょうか?

 ……二人とは、何もありませんでしたよ。気持ちは少しも揺らぎませんでした。僕は純潔のままです。

 ……あなたが自由にしてくれないから、可能性をちらつかせ続けるから。

 僕は自由になりたい。でも、「もし、あなたが実は僕に好意――恋愛感情――を抱いていたら、僕が寂しさから誰かと触れ合ったのを知れば、その好意が消えてしまう」と考えてしまって、誰も好きになれないのです。

 僕をこんな風にしたのは、全部、あなたの生殺しの態度のせいですからね……。

                                〈光より〉


 大学3年生 11月25日 自宅にて 

 19時28分


 純潔を失ってしまった。あいつの名前にも、川に関係する言葉があった。

 不意に起こった欲に勝てなくて、それに、冬の寒さと寂しさもあって、気づいたら誘惑に負けていたのです。

 でも、あなただってあの男と……。

 ちくしょう。あなたを裏切った気持ちが抑えられない。僕は悪くないと考えても、今までのあなたの優しい言葉や、琥珀の瞳が浮かんできて、自分が男であることが、寂しいときに誘惑されたらすぐに陥落してしまう童貞の弱さが憎くなってくる。

 ごめんなさい。もう、あなたのことを謝罪の気持ちなしでは見られない気がする。

 時間を巻き戻したい。あの女の家に行かなければよかった。

 まだ夏なら、誘惑に勝てたかもしれなかったのに。僕が、あいつと同じシェイクスピアの授業をとらなければよかったのに……。

 交わりの時に女が浮かべた表情が不意に浮かんできて、あの男はあなたのこのような表情を見られるのかと、嫉妬と絶望が入り混じった気持ちを抱くようになった。

 僕は一生苦しめられるのか?

                                〈光より〉


 大学3年生 12月10日 自宅にて 

 8時17分 


 最近よく見る夢があります。

 炎の中に浮かぶあなたの寮と、その二階にある自分の部屋の窓から外をじっと見ているあなたと、邪魔なものをすべて燃やす炎の夢です。

 炎は僕の罪も燃やしてくれます。

 あの女、僕の純潔を奪った橋上麻子(はしがみあさこ)も燃やしてくれます。

 この炎が現実にあったらいいのに。

 そしたら、邪魔なものを燃やしたあと、あの時のようにあなたから左手をぎゅっとしてもらえるに違いないのに……。

                                〈光より〉


 大学4年生 4月10日 自宅にて

 23時05分


 三か月前、あなたが寮から離れた林の中を、死を感じたくてぶらついていた時、あなたの方に向かってきた青い光と衝突して、それから、僕や、あなたが北大で仲良くしているという寺山さんと同じ夢を見るようになったという話……。

 他にも、あなたは夢の中で、無数の穴で真っ黒に見える地面を高い場所からじっと見つめていて、それらの穴一つ一つに世界中の人の夢世界があることを感じたりもするんでしたよね? そして、夢の中のあなたは、毎夜、僕と寺山さんの夢を――たまに他の人の夢――をひょっこり覗いては、上に帰る……。

 話を聞いてから毎日のようにそのことを調べていますが、日に日に、青い光の情報が少なくなっているようなのです。

 青い光が目撃されてから数週間は、他人と全く同じ夢を見たというネット上の書き込みが多くみられましたが、今は急速に消えていっています。

 青い光について報道したと僕が記憶しているニュース番組の、サイトの過去ログを見ても、何故かそのニュースが存在しないのです。僕の記憶違いだったのでしょうか?

 眠ったまま起きなくなった人が最近増え始めたとかも、二月ごろに報道されていませんでした? 

 どれだけ調べてもそのニュースが見つからないのです。

 オカルト好きの友達で、僕と一緒に調べていた人も、急に、「そんなことあった?」とか言い始めました。

 どういうことでしょうか?

                                〈光より〉

 

 大学4年生 4月18日 自宅にて 

 21時56分


 あなたが京都で内定をもらったなんて、なんという幸福でしょうか!

 これでずっと一緒です!

 もうずっとバイトでもいいかな……。

 だけど、僕はこの四年間ずっと生殺しのままです。

 あなたはひどい人ですよ。

 あなたにずっと縛られているんです。いいなという人がいても、必ずあなたと比較してしまうのです――人間が神に勝てるでしょうか? 初めてをあなた以外に捧げたことが、ずっと僕を苦しめるのです。

 僕はこれからどうやって生きていけばいいの?

 目を瞑れば、暗闇の中のあなたが僕を苦しめます。

                                〈光より〉


 大学4年生 4月19日 自宅にて 

 18時27分


 今日、『闇の左手』の18章の批評が終わりましたので、このノートと一緒に送ります。

 もう駄目です。斬るか、抱きしめるか、どちらかお願いします。自由になりたいのです。

 日常のあらゆる場面で、あなたに関することが頭に浮かんで、僕を苦しめます、不安にさせるのです。例えば、シェイクスピア作品が目に入ると、橋上とシェイクスピアの授業で出会って、純潔を奪われたことが頭に浮かび上がり、あなたへの罪の意識を深く感じるのです。

『闇の左手』の批評を書いているときも、自分の文字を見て、「あなたはこの文字を見て、僕のことを思うだろうが、そこに恋愛感情はあるのだろうか」と不安になるのです。逆に、あなたの文字を見た時は、「この文字にはあなたが強く宿っている」と考えて、身体の奥から甘美な液体が噴出しては、四肢まで行き着いて消えていきます。

 答えを下さい。

 でも、僕はもうあなたなしで生きてはいけませんからね……。

 あなたに受け入れられなかったら、僕は……。

 どうか、どうか、どうかお願いします。

                                〈光より〉


 この記述までが稲宮の文字で書かれていた。だが、最後の二ページは、彼とは違う文字で書かれていた、


 大学4年生 4月22日 北の国の自宅にて

 12時35分 


 全部読んだよ。

 自殺が原因?

 そうね、ほんとにそう。ただ、お母さんはあの人に殺されたようなものだけどね。

 前、お母さんが私の父親の会社から飛び降りたって言ったよね?

 たぶん、お母さんは、あの人の会社から飛び降りることで、あの人の心にずっと残りたかったんじゃないかな……。

 ……光は男と違って、純粋だから分からないかもしれないけど、あの人は、お母さんがいるにも関わらず、自分の会社の売女に、身体だけでなく、心まで全部あげたの。

 それにお母さんは耐えられなかったんだね。受験に向かう私を見送るお母さんの顔は死んでも忘れない。玄関でお母さんはいきなり抱きしめてくると、「ごめんね」と消え入りそうな声で言って、私の顔を見たの。その時のお母さんの顔は、なんだか綺麗な霧のようで、この世のものじゃないって思った。一緒にいたかったけど、その時はあなたと一緒に受験がしたかったから……。

 だから、私は光が男であることが怖かったの……。自分も同じようになりそうで……。それで、光の愛を試したくて、一緒に京都に行かなかった。

 ほんとにごめんね。あなたを壊した責任はちゃんととるから。

 だって、あなたみたいな壊れた人を愛してくれる人が、私以外にいると思う? 誰もいないよ。だって、怖いもん、気持ちが悪いもん。誰もあなたなんか好きにならないよ。あなたは頭が悪いし、もうすぐ大学でできた友達も離れていっちゃうんじゃないかな。

 でも、私だけは光のことを愛してあげる。何があってもそばにいてあげる。あの雪の日や、広島の時のように、左手をぎゅっとしてあげる。

 ……だけど、ちょっとあなたに失望してるかも。光にも、そういった欲があるんだなって……。

 でも、これからはそんなことないよね? 私はどっちでもいいよ。

 でも、私がいなくなったら、光はどうなるんだろうね?

 このノートは恥ずかしいので、私が帰省から北海道に戻ったときに、『闇の左手』と一緒に届くようにします。19章は批評ではありません。何故、あなたでなくてはならないのかをキーワードで表したものです。

 それでは、最終章の批評を楽しみに待っています。

                      〈清川文(きよかわふみ)より〉


 稲宮は最後まで読み終えると、記憶を消される前、彼女を失う前の自分に戻っていて、激しい怒りと、記憶の中で想い人に再会できた幸福な気持ちと、五日前からの違和感や疑問が解けた開放感が混ざったもので、体をふるふると震わせていた。

 すべての謎が解けたのだ。

 何故、稲宮は、シェイクスピアの授業を受けた時に理由なく不安な気持ちになったのか。何故、広島旅行の広告を見た時、甘美な気持ちと不安な気持ちを抱いたのか。何故、太陽のイヤリングを見て、不安な気持ちが起こったのか……。

 すべては消された記憶に強くつながる場面だったからだ。

 最後の、「清川文より」という文字を見た時、稲宮は自分にじっと視線を送る琥珀の瞳を記憶の底で見つけて、手を握らねばならない者の顔を思い出した。それはソファーで寝ている寺山ではなかった。彼女はブラックオニキスのように黒い瞳だからだ。

 清川文、彼女こそが稲宮の求める相手であり、夢の声の主だったのだ。

「……文はついにOKしてくれた。やっと付き合えるんだ」

 稲宮は喜びのあまりそう呟いたあと、すぐに、自身が殴らねばならない相手をくっきりと思い出した。

 背の高い、口髭を生やした男だ。

 男の声が脳底から聞こえる。

「内面の情報の自由な改変が可能になる……。『1984』でウィンストンが受けたような拷問も必要はないんだ。頭の中にあるものは、我々が望む真実ただ一つになる」

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