第5話 北の国から来た女

 稲宮は朝日にはっとして顔を上げた。窓の外に広がる街は、夜明けの紅い光に包まれ始めている。一晩中、苦痛から逃げるようにして甘い痺れに酔っていたのだ。身体のあらゆる部分に痛みが生じている。

 遠くに煌めく鴨川をぼんやり見ていると、恐怖と疑問と罪悪感が一気によみがえってくる。だが、その後を追うように、自分の命を何者かが奪おうとしているという事実が脳底から浮かび出して、それらを飲み込みながら、じんわりと頭に広がり始めた。

 稲宮は椅子から立ち上がった。ぐっと伸びをしてから、しばらく部屋をぐるぐる回ると、舌を二回強く噛んだ。

 警察に通報することが頭に浮かぶ。それとともに、撃ち殺された警察官の不安そうな表情が思い出されたが、稲宮は、その記憶を海に沈めるイメージを浮かべて、起こりかけた罪悪感を抑えた。

 稲宮はベッドに座って、昨日のことがやっているかもと、リモコンでテレビをつけた。

 ニュース番組が映る。

 海外の水族館で生まれたシャチの赤ちゃんの特集が流れていたが、数分して別のニュースに変わった。女性アナウンサーは柔らかな表情を硬くすると、

「次のニュースです。昨日の深夜、京都市伏見区のアパートで、交際中の23歳の男性を殺害したとして、殺人の疑いで、京都府警伏見署は21歳の女を逮捕しました。伏見署によりますと、女は、『浮気相手がいることを知って、カッとなってやった』と容疑を認めているということです。同署によりますと、逮捕されたのは京都市左京区在住の大学生、宮下ゆみ容疑者で、昨日の深夜に、交際相手でスタイリストの香山秀さんを刃物のようなものを使って、殺害した疑いが持たれています」

「そんなわけが……」

 稲宮の頭に、鮮血に染まる香山の金髪、「大丈夫!」という叫び声、彼を殴りつける男の左手のイメージが浮かび上がる。

 さらに、次のニュースが始まる。

 昨日の警察官殺害についてのことで、ニュースによると、昨日の深夜に、警察官が拳銃のようなもので撃たれて死亡し、警察が殺人事件とみて捜査しているということだ。

 稲宮は自分がその容疑者になっていると直感して、その疑いを自分は晴らすことができないと考えた。今、コートのポケットには警察官を殺した凶器が入っていて、ずっしりとした重みがあるのだ。棒状の消音装置がポケットからはみ出ていて、稲宮は見つからなくしてくれた夜の闇に感謝した。

 だが、自分が容疑者にされているだろうということには、稲宮はあまり恐怖を感じなかった。彼がひどく恐怖していたのは、香山の死因を容易に変えられるような、巨大な組織が自分の命を狙っているだろうということだった。警察官殺害の容疑が自分にかけられているとしたら、それは警察の捜査の結果ではなく、その組織が警察に力を行使したからだと、稲宮は考えて、そのような強大な権力を持った組織に命を狙われていることに身を震わせた。

 稲宮は目を瞑ると、愚かな期待を込めて、コートのポケットの辺りを触った。

 ため息をついた。やはり、拳銃の硬い感触がある。これではまったく否定ができない。

 拳銃に触ったからか、不意に、左手から現出した紅葉色の炎が思い出されて、本当のことだったのだろうかと疑問に思った。稲宮は、「しかし、もしあれが夢か何かならば、自分は男に殺されているはずだろう」と、昨日の不思議な炎を受け入れようとしたが、やはり夢のように思えるのだった。

 黒くて硬い箱に入れられて、海に沈められるような絶望が頭をじりじりと侵食していく。

 稲宮はベッドを降りて、地面に跪くと、頭をぴったりとカーペットにくっつける。

 こうしているとカーペットの冷たさが脳に入ってきて、悪いことを全て凍らせてくれる気になるのだ。

 しばらくして、カーペットが体温で温かくなってくると、昨日会った不思議な女の叱られた猫みたいな顔が何故か頭に浮かんできた。

 そうだと立ち上がって、手提げ鞄の外側にあるチャック付きポケットを開けると、『1984』がやはり入れっぱなしになっていた。

 昨日の懐かしい感覚がよみがえる。イヤリングを見た時の不安もよみがえったが、稲宮はそれを抑えて、本から栞を抜き取ると、拳銃を手提げ鞄のメインの収納部に移してから、ロビーに向かった。


 ロビーは受付の正面にあった。中央にソファーと机が、隅の方に自動販売機と公衆電話が置いてあるだけの簡素なもので、そこには誰もいない。

 稲宮は受付のスタッフの目を気にしつつ、公衆電話の前に行くと、受話器を取る。

 不意に、小さいころ、好奇心で家の近くの公衆電話を使ったことが思い出された。電話ボックスの汚れたガラスを通して見た、公園の色づいた木々が頭に浮かんできて、稲宮は、どうして自分はこんな目に遭っているのだろうと泣きそうになる。

 百円を入れて、栞に書かれた携帯番号を入力する。稲宮は呼び出し音を聞きながら、昨日の朝、真に一人になりたいという気持ちから、携帯の電源を切って机の引き出しに入れたことを後悔した。だが、同時に、携帯だとすぐに場所が割れるだろうから、案外よかったのかもしれないと考えたりもした。

 稲宮が女に連絡をとろうとしたのは、もしかしたら彼女がこの状況を打開する鍵になるのではと考えたのもあるが、それよりも、昨日の懐かしい感覚が恋しくなって、それにすがりたくなったという感情的な理由の方が大きかった。

「……もしもし」

 長い呼び出し音のあと、女が電話に出た。少し怪しむ感じの声色だが、朝早くの公衆電話からの着信に出てくれただけでも稲宮にとっては幸運だ。稲宮はその声を聞いて、おやっと思った。その声に、昨日の懐かしい気持ちが抱けると期待していたのだが、胸には依然として不安だけが渦巻いていて、プラスの感情はかすかも起こらなかったのだ。

 だが、すがろうとする気持ちが弱まることはなく、彼は何の説明もなしに、

「ごめん、僕だけど」

「……僕?」

「あぁ、ごめん……。ほら、昨日会った。鴨川で……」

 少し沈黙があって、

「……連絡してくれたんだ」

 嬉しいのかそうでないのか、判別しにくい声だ。

「今日、会えたりするかな……。今すぐ会いたいんだ」

 長い沈黙。女は何かを考えている様子だ。稲宮は不安を抑えるように、舌の先をぎゅっと噛み続けていた。彼は女から、

「……うん、会おう」と返事を聞いて、ほっと安心すると、ようやく舌を離した。昨日から噛み過ぎて、舌は軽く腫れ出している。

 稲宮は京都大学の学内書店で女と会うことにした。警察と、自分を狙っているだろう組織を警戒してのことで、学校ならばその力が他の場所より弱い気がしたのだ。自分が通う同志社大学を選ばなかったのは、母校ということでマークされている気がしたのと、構内が狭いので、人目につきやすいだろうと考えたからだ。彼女は、このあたりに慣れてないから、昨日、稲宮と会った場所で会おうと提案してきた。だが、稲宮は警察と組織の目を考えて拒否した。理由を聞かれたが、本当のことを話せば彼女が来なくなる気がして、自分がいる所から昨日会った場所は遠すぎるという言い訳で、彼女を納得させた。

「じゃあ、一時に……」

 稲宮は電話を切った。

 彼の心は、昨日の懐かしさを求める気持ちで満たされている。

 部屋に戻りながら、連絡先を渡してきた女を頭に浮かべて、彼は思った。

「三条大橋で夕日を見た時から感じ始めた誰かの手を握らねばならない気持ち、夢と現実の両方で聞いた女の人の声、左手を覆う柔らかな感触と紅葉のような紅い炎、そのすべてはもしかしたら……」


 京都大学吉田キャンパスは、市内を東西に走る今出川通りの沿道にある。通りの東寄りに位置しているそのキャンパスは、広大な敷地を有しており、大学の周辺には、主に学生をターゲットにしているのであろうカラオケや飲み屋などの店が軒を連ねている。大学は、交通量の多い百万通り交差点に面しているので、たとえここで飲んで終電を逃しても、少し待てば比較的容易にタクシーを拾うことができる。稲宮も、京都大学の友達と飲む時は、よくこのあたりの店を利用していたし、終電を逃したが、どうしても自分の家で布団にくるまって眠りたい時は、高いお金を払って、ここからタクシーで伏見まで帰っていた。

 稲宮はホテルのチェックアウトの時間になると、タクシーで京都大学に行った。行く前に拳銃をどこかに捨てようと考えたが、もしその拳銃を誰か幸せな人が拾って、間違えて大切な人を殺めてしまったらという妄想に近い考えや、もし誰かに襲われたらこれが守ってくれるかもしれないという考えが、稲宮に拳銃を鞄に入れたままにさせた。

 早めに着いた稲宮は、学内書店をぶらついて約束の時間まで過ごすことにした。周囲に並ぶ本が、本好きの稲宮の苦痛を少し和らげたのか、彼の心は少しだけ落ち着いた。

 川端康成の『雪国』が何故か気になって、その背表紙をじっと見つめていた時、稲宮は肩を叩かれた。振り向くと、昨日の女がうつむき加減に立っていて、稲宮は懐かしい気持ちと、微かな安心を抱いた。彼女は紅いセーターと黒いロングスカートを着ていて、その表情はあまり明るいものではなかった。

 稲宮は早く確かめたいという気持ちを抑えながら、丁度お昼ご飯の時間帯だったので、彼女に食事をもう済ませたか聞いた。首を横に振ったので、隣接する学内カフェに行くことにした。


 食事中、二人は無言だった。稲宮は会話下手なりに何か話そうとしたが、女が目線を下に向けたまま黙々と食べていたので、話しかけるタイミングが分からず結局ダメだった。

 だが、確かめたいという気持ちが強まって、食事が終わってしばらくしてから、何か話そうと稲宮がうつむいた女の顔をじっと見ていると、不意に女が目線を下に向けたまま、

「……どうして会いたかったの?」と小さな声で言った。

 稲宮は女から話しかけてくるとは思っていなかったので、どう返せばいいか分からず、少し考えてから、

「……いや、その……君こそどうして、僕に連絡先を渡したの?」

 女は目線を一瞬だけ稲宮の方に向けて、自分自身を落ち着かせるように小さく息を吐くと、

「私、北海道から来てね」とゆっくりと話し始める。

「この本を読んでいる時に、急に京都の街が頭に浮かんで、来たくなったの……」

 女は隣の椅子に置いた手提げ鞄から、一冊の本を取り出して机に置く。

 それを見てすぐに、稲宮は昨日受け取った本とノートを思い出すと、自分の予感が正しかったことを確信して、喜びで目を少しの間ぎゅっと閉じた。その本は、U・K・ル・グウィンの『闇の左手』の原語版だったのだ。

 稲宮は自分も鞄から昨日届いた『闇の左手』を取り出し、彼女からその本について根掘り葉掘り聞いて、予感をより確実なものにしたい欲望にかられたが、舌の先をぎゅっと噛むと、黙って彼女の話の続きを聞くことにした。

「京都に来ると、懐かしくて、何かほっとする気持ちになれたんだけど、同時にすごく悲しくなってきて……。何のために来たのかもよくわかんないし……。馬鹿だよね、それから当てもなく街をぶらついていたんだよ」

 彼女は、「ふっ」と自嘲的に笑う。

「そんな時、鴨川の岸辺にいるあなたを見つけたの。懐かしくて甘く、そして――どうしてだろうね?――不安な気持ちになった。それで、あなたのそばに本が置かれているのを見つけると、思わず栞を抜き取って、連絡先を書いちゃった……。わからないでしょ?」

 彼女は稲宮の顔色をうかがうように目線をそっと上げたが、目が合うと、すぐに下へ向けた。弱々しい微笑が口元に浮かんでいる。

 稲宮は津波のように押し寄せてくる嬉しさと安心を感じていた。

 六日前、三条大橋で夕日を見た時から感じ始めた誰かの手を握らなければならない感覚、昨日届いた『闇の左手』、女が感じているという懐かしさや不安、彼女が北海道から来たこと、あらゆることが頭に巡って、稲宮は目の前の人こそ、最近の異常の原因で、自分が無意識的に求めていた人だと確信した。

 彼女のうつむき加減の顔を、稲宮は愛情に満ちた目で見つめる。

「いや、逆にわかりすぎるくらいだよ」

 彼は鞄から『闇の左手』を取り出すと机に置いた。

 それを見た女は、はっとしたように顔を上げる。よっぽど驚いているらしく、今度は目が合っても逸らさない。

「間違いない……。僕は君を待っていたんだ」

 言ってすぐに恥ずかしくなって、今度は稲宮が彼女から目を逸らす。

 しばらく沈黙があって、稲宮は女の視線を頭に感じながら、六日前から起こり始めた異常――不意に起こる不安や甘美な感覚など――と、昨日、自分の身に起こった惨劇、「北の国から」と書かれた封筒に入っていたものや、夢と現実で頭に響いた女の声のことを話したあと、彼女の顔を見て、

「その組織に僕たちは記憶を消されたのではないだろうか。僕たちは、その……かつて……付き合っていたのかもしれない」と話を締めくくろうとする。

 だが、最後の言葉を強調したようで恥ずかしくなって、

「……声もおそらく君のものだったんだ」と付け加えた。

 女は、彼女が抱いているという違和感と、稲宮の真剣な口調のおかげか、彼の話を信じていたようだったが、

「でも、私、あなたにテレパシーで語りかけたりしてないよ。第一、そんな超能力持ってないし……」と怪訝そうな表情をした。

「君は夢の中で、無意識的に僕に語りかけたんだよ!」

 稲宮が嬉しさを抑えきれずに微笑をこぼすと、女は彼の熱っぽい感じがおかしくなったのか、くすりと小さく笑う。

「そんなことってあるのかな」

「あるよ!」

 急に、女は表情を少し硬いものにすると、左耳に手を当てて、

「それならこれもあなたが買ってくれたのかもね……。すごく甘い気持ちになれるの」

 太陽のイヤリングが輝いている。稲宮は不安が起こらぬようにイヤリングへの思考を停止させていたので、その思考が呼びさまされて、不安な気持ちが起こった。

 何故、不安な気持ちになるのか分からなかった。もし、女が言うように、稲宮が買ったものなら、彼も甘い気持ちになってもよさそうなのに。

 稲宮はこの会話中、夢の女の声に抱いたような、甘美な気持ちを一度も感じていないことに気づいた。そして、彼女も稲宮との会話で甘い気持ちになっていないようだった。

 彼はそんな疑問や不安を紛らわすように、

「でも、どうして片耳だけ、それも左耳にしたの?」

 女は質問の意味がわからないと言いたげに小首をかしげる。

「たしか、左耳だけだと……レズビアンを意味したような」

「そうなの?」と、女は左耳から手を離す。

「両耳はないの?」

「左だけしか……」

 女はまた目線を下に向ける。

 その時、遠くからサイレンの音が聞こえて、稲宮は怖くなった。

 彼は怯えた感情が顔に出ぬように努めながら、

「……別のところで話さない……?」

 女は察したような表情をする。

「……でも、家とか、宿は危ないでしょ?」

 稲宮はじっと考えて、安全な場所を思いついた。

「一つある、大丈夫なところが……。入るまでが大変だけどね……」


 二人は京都大学を出ると、タクシーに乗った。

 同志社大学を目指して、今出川通りを西へ向かう。同志社大学今出川キャンパスも今出川通りの沿道にあって、京都大学から、京阪出町柳駅、鴨川に架かる賀茂大橋を過ぎてしばらく行った烏丸今出川に位置している。大学周辺は交通量が多く、店も多くあって発展しているが、京都大学の周辺と比べると、学生街といった雰囲気があまりなく、どちらかと言えば観光街の雰囲気の方が強い。それは、北を相国寺、南を京都御所という有名な観光名所に挟まれるようにして大学があるせいかもしれなかった――両方とも、大学から歩いて一分以内で行けるほど近い。 

 稲宮が危険だと判断した母校に向かったのは、彼のゼミの教授が出張で英国に行っていることと、春は研究室の窓を少し開けながら仕事をするので、窓を閉め忘れて帰ることが多いという教授の習性を思い出したからだ。

 タクシーの中で、稲宮は甘い感情が抱けるかもと女に名前を聞いた。彼女は目線を下に向けたまま、「寺山千代(てらやまちよ)」と小さく答えた。だが、稲宮の心に期待していたような快感は訪れなかった。稲宮も自分の名前を教えたが、彼女も頷いただけで、その心に何か感動的な変化が起こったようには見えなかった。二人の会話は、タクシーという新しい空間に移動したからか、それとも、近い位置に運転手という見知らぬ他人がいるからか、互いの通っている大学を話したくらいで弾まなかった。

 大学が見えてくると、運転手が二人に、

「どこに停めましょうか?」

 稲宮は大学の門の辺りにちらりと目を走らせると、少し考えて、

「やっぱり、相国寺の東門前で停めてもらえますか?」と言った。

 タクシーは今出川通りを右に曲がって、同志社大学とその東にある同志社女子大学に挟まれた道路に入った。100メートルほど走ると、相国寺の立派な構えの総門があり、道路はその前で右に折れる。そこからは、北を相国寺の白塀、南を住宅街に挟まれた道路が50メートルほど続いたあと、左に折れて、しばらく直線が続く。東門は、その直線に入って少し行った場所にある目立たない小さな入り口だ。総門と違って、立派な門扉や門柱もない。

 タクシーが東門の前に停車すると、稲宮は料金を払って下車した。辺りは閑静な住宅街で、人通りも少ない。

 稲宮は寺山と並んで境内に入ったが、車内での弾まない会話のせいで彼女に話しかけづらく、気まずくなって、少し距離を空けて彼女の前を歩いた。

 だから、不意に彼女から、

「どうして大学前で降りなかったの?」と後ろから声をかけられた時、稲宮はほっとして、彼女が追いつくのを待って再び横に並んだ。

「門の前に怪しい人がいたんだ。……僕の考えすぎかもしれないけど。ここからなら安全に入れると思って……」

「そう? 気づかなかった。……でも、大学内は安全なの? あなたの大学なら……」

「……そうとは思わないけど、運が良ければ、安全な場所にいけるかと……」

 二人の間にまた沈黙が訪れる。稲宮は自分の気まずさを隠すために、そっと距離をとって彼女の前を歩く。

 稲宮は境内の片隅の塀に設置されている、小さくて古びた黒い木製扉の前で立ち止まった。扉には黒い閂が挿してある。塀の向こうには、大学の赤レンガの建物が夕空を背景にして見える。彼は辺りにさっと目を走らせて、人が見ていないことを確認すると、閂をよいしょと抜いた。

 そっと扉を開けると、向こうに建物裏の薄暗い空間が広がる。

 稲宮はほっとして中に入ると、寺山の方を向く。彼女は、へぇっと感心したような表情をして彼に続いた。

「お寺から大学に入れるんだね」

 寺山は、扉を閉めている稲宮の方に顔を向ける。

「授業で聞いたんだ。同志社と相国寺はつながっているって。たぶん、同志社はかつて薩摩藩邸だったから、その名残じゃないかな……」

 稲宮は彼女の方を向くと、

「……教授がいつものようにずぼらだったらいいんだけど」と苦笑いを浮かべた。


 大学構内は人で満ちていた。稲宮と寺山は、彼らに溶け込むようにして、少し距離を空けてゆっくりと歩く。数分して、稲宮は三階建ての建物の入り口で足を止めた。寺山の方に振り返って頷くと、建物の裏に回る。

 裏は、大学の白塀と建物の壁によって薄暗い小路のようになっている。長さは20メートルほどで、壁には、引き窓が五つ間を空けて並んでいる。稲宮は一番奥の窓の前に行って、ため息をついた。開いていなかった。

 稲宮は横にいる寺山に、暗い表情を見せて、

「きっちりしてたみたい……」

「そう?」

 寺山がすっと手を伸ばして、窓を引くと、からからと軽やかな音を立てて開いた。

 ばつが悪くなった稲宮は、靴を脱いで、それを持って窓に昇ると窓際の机に下りた。後ろを向いて、寺山の方に手を差し伸べる。彼女がその手をつかむと、引き上げるようにして部屋の中に入れる。

 寺山を部屋に入れると、すぐに窓と厚手のカーテンを閉めて電気を点けた。白い光が部屋を照らす。六畳ほどの長方形の部屋で、両側に本棚が、中央に机とそれを挟むようにしてソファーが二つ、窓際に書き物机が置かれていて、その反対側の壁に入り口のドアがある。書き物机の上には、パソコン、書類、本が乱雑な感じであった。

 寺山は部屋の中をさっと見渡すと、

「研究室?」

「うん、ゼミの教授なんだ。窓を閉め忘れる癖があることを思い出してね。出張中だから、誰もいないことになっているし、もし開いてたら、いい隠れ家かなって……」

 二人はソファーに座って、向かい合う。二人とも目線を下に向けている。

 しばらく沈黙が流れて、稲宮はばつの悪い空気を割るため、記憶を取り戻すため、そして、甘い感覚を再び味わうために、手提げかばんから『闇の左手』を取り出すと、彼女に手渡した。

「さっき読んでなかったでしょ? たぶん寺山さんの文字だと思うんだ……」

 寺山はページを捲りはじめる。稲宮はその様子を見ながら、

「紅いノートと一緒に――実は、そっちの方は僕もまだ見てないんだ、あとで一緒に見てくれる?――『北の国から』と書かれた封筒に入れられて僕に送られてきたって言ったよね? たぶん、僕らは、交換日記みたいにして、批評や感想とかをし合っていたんじゃないかな。北の国は北海道を示しているんじゃないだろうか。どう? 何か思い出した?」

 と話していたが、彼女の顔が急速に青ざめていくのを見ると、不安になり、口をつぐんだ。

 寺山は本を机に置くと、荒くなった息を抑えるように、右手を胸に当てて顔をうつむける。

「……大丈夫?」

 彼女は苦しそうな顔を上げると、無理矢理な感じの微笑を浮かべて、

「うん、ありがとう。だけど、少し眠っていい? 頭が痛いの……」

 稲宮が慌てて何度も頷くと、寺山はソファーへ横になった。

 だが、稲宮がじっと見ていると、彼女は顔を上げて、

「……眠っているところは恥ずかしいから、見ないでね」

 稲宮は、はっとして寺山から顔を逸らすと、立ち上がって電気を消す。

 不意に、眠ればバレると夢の女の声で警告されたことを彼は思い出して、もし警告してきたのが彼女であるならば、その警告が無意識的なものであっても、このように簡単に眠るだろうかと疑問に思った。また、自分と彼女が記憶を消されたという予想が正しいのならば、彼女も同じように組織に狙われている可能性が高く、眠ることは危険だとも考えたが、彼女を無理矢理に起こして、昨日の警告を詳しく説明するのは、さっきの悲痛そうな顔を見た後では、とてもできなかった。

 稲宮は襲いくる不安を感じつつ、そして、何か悪いことを言ってしまったのだろうかと自らの言葉を思い出しながら、窓際の机の椅子に座ると、じっとカーテンの縞模様を見て思考の海にしばらく沈んだ。それから、さっき自分が座っていたソファーに行って、彼女の寝顔を見たいという欲望を抑えつつ、手提げ鞄から紅いノートを取り出すと、机に戻った。

 彼は卓上灯を点けると、その柔らかな黄色い光の中で、ノートを読み始めた。

 ノートは、時々、小説風に書かれている日記で、その文字は最後の2ページ以外、稲宮のものだった。稲宮はその日記を読むスピードを、ページを捲るごとに上げていった。そのページ一枚一枚が、書き込まれた一文字一文字が、真の記憶という液体となって、彼の頭に注ぎ込まれていったからだ。

 数多の記述の中でも、特に深い印象を彼に与えて一気に記憶をよみがえらせたものが、十五あった。

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