第4話 虚炎の現出――色は紅

 稲宮は素早く立ち上がって、左の部屋に耳を澄ませる。

 がそごそと人の動く音がしたかと思うと、不意に脳底から、

「逃げて!」という夢で聞いた女の言葉が浮かび上がって、四肢が冷たくなるような感覚に襲われた。鼓動の音が語り掛けるようにはっきりと聞こえ始める。

 部屋を見渡して、布団のそばに置かれた手提げ鞄を取ると、卓上の、得体が知れない『闇の左手』と、紅い表紙のノートを、鞄のメインの収納部――授業でもらったレジュメで散らかっている――に放り込んで弾丸のように玄関へ走る。

 部屋を出ると完全な夜だった。外廊下を蛍光灯の安っぽい白い光が照らしている。

「宮くん」

 不意に呼びかけられて、その方を向く。

 香山だった。自分の部屋の前にだらりとした感じで立って、火のついたタバコを片手に、稲宮の方に柔和な表情を向けている。

 彼は稲宮を食い入るように見ると、表情を硬くして、

「……どうした?」

 ドアの乱暴に開かれる音とともに、左隣の部屋から男が飛び出してきて稲宮の方を向いた。

 スーツを着た大柄の男で、消音装置の付いた拳銃を右手に持っている。彼は坊主頭で、岩のようにごつごつした顔をしていた。

 稲宮は逃げ道を探したが見つからなかった。廊下に沿って金網塀があるので、通りに出るにはスーツの男を突破せねばならないのだ。

 男は加虐的な冷たい笑みを浮かべると、拳銃を稲宮に向ける。 

 もう終わりだと稲宮は恐怖した。

 だがその時、稲宮の後ろから香山がバネのように飛び出して、男の右腕にしっかりと組みつくと、拳銃を稲宮から逸らした。

 男は香山を振り払おうと、左手をハンマーのようにして彼の後頭部に激しく打ち下ろし始める。肉を打つ音の合間で香山のうめき声が聞こえる。

「逃げろ!」

 香山の声が響く。

 びくりとして稲宮は走り出そうとしたが、足を止めた。

 このままでは香山が殺されるだろうと容易に想像できたからだ。

 足が震え始める。香山が殺される恐怖からか、自分が殺される恐怖からか、稲宮はどちらかわからなかった。

「大丈夫!」

 再び香山の声が響いた。彼はもはや男の右手にすがりつくようになっている。

 しかし、拳銃は稲宮からしっかりと逸らされたままだ。

 男は鬼気迫る表情で、香山の後頭部を打ち続ける。落下差が大きくなって、音はより破壊的なものになっている。どこか切れたのか、香山の金髪は紅く染まっていて、辺りには鮮血が点々とあった。

 香山の言葉が足の震えを止めた。

 稲宮は香山の方に頭を深く下げて、

「……ごめんなさい!」と叫ぶと、香山が作った逃げ道を走り抜ける。

 左隣の部屋の前を通った時、開いたドアから中の様子が一瞬見えた。一人の女が部屋の真ん中に横たえられて、その周りで二人の男が何かの機械を触っていた。

 稲宮はアパートを飛び出して、はっと思った。

「香山さんは何故、『大丈夫』と言ったのだろうか、それは、薄れる意識の中で、震える僕の足を見たからではないだろうか」


 アパートは小さな通りに面していて、通りのすぐそばには宇治川の幅狭な流れがある。

 川沿いの柳に囲まれた数艘の小さな和舟が、街灯の光に照らされてぼんやりと見える。観光客向けの舟だ。

 稲宮は、川に沿って走る遊歩道へ通りから駆け下りると、舟を飛び石のようにして川を渡り始める。

 目的地は川を挟んだ先の住宅街にある交番だ。稲宮は、自転車を盗まれた時に、そこを利用したので場所をはっきり覚えていた。普段なら、通りを少し下った場所にある小橋を使うところだ。

 川を渡ると寝静まった住宅街を走る。 

 ある角を曲がったところで、少し離れた場所に紅いランプの光が見えた。

 稲宮は、安心感のプールにざぶんと入ったような気持ちになった。

 交番に着くと、走る勢いをそのままにガラス戸を肩で開けて、カウンターに衝突した。

 安心と恐怖で痛みは感じなかった。

 交番の警察官は一人らしく、書き物をしている手を止めて、机に座ったまま顔を上げた。何事かといったような表情だ。くりくりとした瞳の若い男で、稲宮は何となく新人だと感じた。

 稲宮は息を切らしながら、

「殺される! 助けて!」

 警察官の目つきが鋭くなる。稲宮は、手短に、自分に起こったことと、早く助けにいかないと香山が殺されることを説明した。

「……奥の部屋にいなさい」

 震えた口調だ。

 警察官は椅子から立ち上がった。ちらりと腕時計を見て、唇を噛んで不安そうな表情をすると、様子を窺うようにドアの外へ半身を出す。

 その瞬間、彼の頭は何かで強くはたかれたかのように後ろに反れて、赤黒い塊が生卵をぶつけたかのようにガラス戸にへばりついた。彼は頭から血を流しながら、ガラス戸の枠に背を預けるようにして倒れると、外の方へ上半身を出したうつぶせの状態で動かなくなる。

 ガラス戸にへばりついた物体は、紅い尾を引きながらずるずると下に落ちていく。

 稲宮は血の味を感じた。舌の先を強く噛み過ぎていたのだ。

 奥の部屋に通じる廊下に目を向けると、突き当たりに窓がある。人一人なら出られそうだ。

 潰されるような恐怖の中で稲宮に滑らかな思考を許したのは、ただ殺されたくないという欲望だけだ。

 窓の方に行くと、クレセント錠がかかっていた。

 手が震えていたので外すのに時間を要したが、何とか窓を開けると、よじ登って外へ出た。


 窓の外は雑草に覆われた裏庭だった。左隅の方に小さな木が立っている。

 稲宮は、「ひっ」と恐怖した。

 追っ手の男が、木周辺の闇の深いところからゆらりと出てきたのだ。

「……楽に殺してはやらねぇからな」

 窓からの光で男の顔が浮かび上がる。彼の右頬には、ひどいひっかき傷があって、血が止めどなく流れている。瞳を大きく見開いて、口は半開きだ。

 男は稲宮にゆっくりと近づきながら、右手から拳銃を離した。

「……存分に楽しませてもらう。あの男の罪はお前が背負え」

 彼は懐から何かを取りだした。

 ガラスを軽く打ったような音がして、白くて冷たい光が右手で一瞬煌めく。

 小型の折り畳みナイフだ。

「まずは、黒目に穴を空けようか……」

 稲宮はへなへなとへたり込んで、男をじっと見つめる。

 男の顔にはぞっとするような薄笑いが浮かんでいた。

 恐怖を紛らわすように舌の先を噛むと、左手を地面に強く押し付けた。

 人差し指が草の間に滑り込み、湿った地面に触れたと同時に、夢の交わりの記憶がよみがえって、誰かへの罪悪感が起こった。

 それから間もなく、柔らかな感触が左手を覆うと、記憶の底から、

「やっぱり綺麗な手ね……」という夢の女の言葉が浮かび上がって頭に響いた。

 甘い痺れが身体の中心を貫くように走って、どこかと深くつながったような感覚が全身に広がる。

 稲宮は、左手が夢で見た紅いオーラをまとっているのに気づいた。

 反射的に左手を男の方へ向ける。男は困惑したような表情をして後ずさる。

「邪魔なものは燃えてしまえ!」

 オーラが夢で見た真紅の炎に変化して、男に襲いかかる。 

 炎に包まれた男は、一秒もかからず、食われるように消え去った。

 数秒して炎が消えた時、男の存在を主張するものは、木の下に落ちた拳銃だけだった。

 奇妙なことに、稲宮は火傷をしていなかったし、熱さも感じなかった。燃えたものも男以外には一切ないようだ。

 しばらく呆然としてから、稲宮は左手を下ろした。ゆっくりと立ち上がって、拳銃をほとんど無意識に拾いに行くと、コートのポケットに滑り込ませる。

 胸には、甘美な感覚と、どこかとつながっている感覚が、渦巻いていた。


 稲宮は家に戻るわけにも行かずに、近くのビジネスホテルを目指して町を歩き始めた。

 ただもうすべてを忘れて眠りたかった。

 だが、そう願っていると、夢の女の声が頭に響いた。

「眠らないで。バレてしまうから……」

 脳がとろけそうなほど安心できた。

 しばらくして、ホテルのネオン看板が見えてくると、甘美な感覚と、つながった感覚が、張り詰めた弦を切ったかのようにぷっつりと消えた。ぽっかり穴が空いたような感覚が心を支配する。

 ホテルに着くと、受付で部屋を取った。料金は先払いで、鞄の中に財布があったことを稲宮は幸運に思った。

 部屋は最上階の10階で、遠くに光る京都の歓楽街が窓から見えた。

 窓際の机の椅子に座ると、夜景をじっと見る。さっきの女の声で眠る気にはなれなかった。

 安全な場所に来たからか、無意識的に抑えていた様々な感情が一気に胸の奥から上がってきて、稲宮はこの窓から飛び降り、脳みそを地面にぶちまけたい衝動に襲われた。

 舌の先をぎゅっと噛んで、感情を封じようとする。

 だが、香山への罪悪感だけは消えなかった。

 稲宮は遠くの光に一台のバスを目にした気がして、香山と見た美しい情景を思い出した。

 一年の冬、稲宮はバスで香山と偶然会った。吊革につかまって、雪に覆われた京都の街をぼうっと見ていると、話しかけられたのだ。彼は金髪の香山のことを何となしに怖い人と思っていたので、会話下手に拍車がかかったせいか、唐突に香山から、

「今から金閣を見に行かない?」と提案された時、反射的に頷いてしまった。バスは稲宮が降りる予定の駅を過ぎて五駅目で、金閣寺前に停車した。そこから、金閣寺を見るまで二人は無言だった。稲宮は、雪の金閣を目にすると、あまりの美しさに思わず、

「あぁ、すごく綺麗……」と言ったのだ。

 空、山、庭……。中央にいる主役以外のすべてが白くて、黄金が孤独な美人のように輝いていた。稲宮は心を優しく甘噛みされた気持ちになった。その幸福を誰かと一緒に味わいたくて、香山の方に顔を向けると、誘っておきながら彼は金閣を見ていないようだった。すぐに目が合ったのだ。

 稲宮は心を刺されるような辛さに回想を中断すると、左手へ視線を落とした。

 女の声と、紅葉のような真紅の炎が頭に浮かんで、甘い感覚がじんわりと胸に広がる。

 胸に心地よい痺れを感じながら、稲宮は、昔、同じように左手を見つめて快感を楽しんでいたような気がしたのだった。

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