第3話 稲宮の夢

 稲宮は夢を見ていた。

 紅い太陽が油彩のような青さの空に浮かんでいる。地面は乾きでひどくひび割れている。彼は空中でその光景を見ていた。

 いきなり、太陽にひびが入ったかと思うと、砕け散るガラスのように四散して、紅く煌めく数多の欠けらとなる。同時に、青い空は、燃え崩れる絵のように消えていって、空間から青い明かりも消えていく。

 まもなく、青空は完全に消え去って、闇が優勢になった。空間を照らす明かりは、ゆらゆらと落ちていく欠けらが放つ鮮やかな紅葉色の光だけとなる。

「今日は左がないんだね」

 稲宮は自分の声を底の方から聞いた。

 それに答えるように女の声が響く。

「……そうね」

 少し間があって、

「あぁ、忘れてきちゃったんだ。遊んだとき……」

 ひやりとしたものを心に感じた。誰と遊んだのか気になったが、怖くて聞けない。

「……誰と遊んだと思う?」

 女の声が闇の濃い所に消えていく。

 欠けらが集まって一つの逆巻く炎と化した。燃えるような紅葉を連想させた。その炎の中に、雪を被った四階建ての建物が浮かんで見える。建物の二階の窓に誰かいて、頬杖をつきながら、窓の外に顔を向けている。その唇から上は黒い煙のようなもので覆われていたが、華奢な肩と、卵の頭のような丸みを帯びた美しい顎から、おそらく女性だということは分かる。

「思っているのは僕ではないんだろう?」

 そんな疑問が稲宮の頭に浮かぶ。

 地面の方に何かを感じて、彼は炎からその方へ顔を向けた。

 誘うような笑みを浮かべた、全裸の若い女が横たわっている。炎に照らされて、彼女の肌はてらてらと紅く艶やかに光っていた。

 気づくと、稲宮は女のそばにいて、起こった欲に身を任せていた。

 欲が引くと、左の人差し指に残った湿った感触に、誰かに対する罪悪感を喚起されて、

「僕が純潔を失ったことで、君は僕を罰せられない。だって、君もそうじゃないか」と呟いた。

 その言葉を発してすぐに、柔らかな感触が左手に走って、湿った感触と罪悪感を消し去った。心が柔和な感情で満たされる。

「……やっぱり綺麗な手ね」

 さっきの女の声。ただ、さっきとは違ってすごく安心できた。夏の晴れやかな日に、清らかな海で仰向けに漂いながら、澄んだ空を見ているようだ。

 目の裏が痺れるような甘美な感覚が走る。

 上で逆巻く炎が左手に吸い込まれていく。

 すべてが吸収されて完全な闇が訪れると、左手を女が横たわっているだろう方へ向けた。左手のまわりに紅いオーラが現れる。

 数秒後、オーラが、鮮やく紅葉のような真紅の炎に変化して、ポンプ車のホースから放たれる水のように左手から飛び出すと、ごぉごぉと低く唸るような音を立てながら、女の身体をあっという間もなく覆った。

 悲鳴はなかった。女はまばたきする間もなく焼失したからだ。

 炎が消えて再び深い闇が訪れた。

 左手を前に向けたまま、じっと闇を見ていると、さっきの女の声が響いた。

「早く起きて!」

 数秒のあと、

「逃げて!」


 その声に起こされるようにして稲宮は目覚めた。寝ている間に、身体の大半が布団から出ていた。

 炎の印象が強く残っている。

「だめだ。できない」

 左隣の部屋から男の声が聞こえて、おやっと思った。左は空き部屋のはずだ。

「やはり紅いピラミッドに守られているんだ」

「できないって……。近法(きんほう)で出来なかった例など今までなかったじゃないか!」

 二人の男が会話をしているらしい。壁が薄いため、夜の声はよく聞こえる。

「なら、これがその例さ! ……ちょっと待て。こいつ、起きてるぞ!」

 ぎくりとして、思わず息を潜める。

 少し間が空いて、

「……かまわん。殺してしまえ……」

 二人とは違う男の声で、一段と低かった。

 ひやりとしたものが背中に走って、じっとりと手が汗ばむ。

 稲宮は舌の先をいつもより強くぎゅっと噛んだ。

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