第2話 『闇の左手』

 稲宮の一人暮らしをしているアパートは、京阪中書島駅から歩いて20分ほどの寂れた住宅街にある。築35年の小さな二階建てアパートは、相場が安い京都の南でも破格の2万円という家賃で、部屋は一階と二階にそれぞれ五室ずつあった。稲宮の部屋は一階の奥から二つ目だ。彼は常に競争と勝利を求めてくる両親から逃げるようにして、大学入学後すぐに、実家のある大阪を出たのだ。

 稲宮は家に帰ると、スプリングコートも脱がずに、海に潜る潜水艦のように布団へ頭から潜り込んだ。

 しばらくすると、玄関のドアをノックする音があって、男の声で、

「宮くん、お届けもの」

 右隣の部屋――一階の最奥――に住む香山秀(かやましゅう)だ。留守中に届いた荷物は受け取ってもらうことにしている。

 壁が薄いので、互いの生活音はよく聞こえる。稲宮の帰ったのがわかったのだろう。

 稲宮はもぞもぞと布団から抜け出してドアの方を見る。ベランダの窓から入った弱い日が、電灯も点けていない部屋をわずかに照らしている。もうすぐ完全な夜になるだろう。稲宮はだいぶ落ち着いていたが、人と会うのはまだ苦痛だった。寝ていたことにして、明日受け取ろうとかとも思ったが、駆け出しスタイリストの香山には、普段から髪を切ってもらったりしてお世話になっているし、それに、明日言い訳するのも面倒だと、稲宮は玄関に行ってドアを開けた。

 香山が微笑を浮かべて立っていた。ジーンズに黒い長袖のバンドTシャツを着ている。

 彼は切れ長の目と細い顎をした、日本刀を思わせるような美青年で、短く整えた髪を、はっきりとした金に染めている。稲宮より頭一つ分ほど背が高いので、稲宮は自然と彼を見上げるような形になってしまう。

 稲宮は、香山からA4サイズの茶封筒を二つ受け取って礼を言うと、彼からの別れの言葉を待った。だが、彼は何も言わずに、何かを考えているような表情を稲宮に向けている。稲宮は気まずくなって、顔をうつむけた。

 しばらくの沈黙のあと、

「……大丈夫? 顔色が悪いけど……」と香山が口を開く。

 稲宮は布団に潜りたいと思いながらも、顔を上げて笑みを作る。。

「寝てたんです……。だから、そう見えるのかも」

 香山は怪訝そうな表情をする。

「……コートのまま?」

「…………」

 まずい空気が流れて、香山がそれを割るように、

「髪、伸びてきたね。……また、切ってあげるよ」

 稲宮は頷くと、香山を見たまま片手でそっとドアノブに触れる。

 それを見た香山は、「じゃあ」と言ったが、立ち去らない。不思議に思ってじっと見ていると、香山は目を逸らして、

「もうすぐ葵祭があるね……」

「たしか……5月15日ですよね?」

「そう……」

「…………」

 香山の顔をぼんやり見ていると、稲宮は彼が不自然な理由をはっと理解した。柔和な感情が飴のように稲宮の心を覆う。

「行きましょうか。僕、実は見たことないんです」

 ぱっと香山の表情が明るくなって、稲宮の方を向く。

「行こう行こう! 葵祭は京都三大祭りの一つだからね! 見なきゃ損だよ! 宮くんの大学最後の年だし!」

 香山は、「じゃあ」と別れを告げて、自分の部屋に戻っていく。背中から嬉しさが溢れ出ているようだ。稲宮はほっこりした気持ちで見送ると、部屋に戻った。

 香山のいじらしさにほっとしたおかげか、さっきまでの深い不安と気持ちの悪さがだいぶ和らいでいた。

 渡された茶封筒を見て、稲宮は首をかしげる。

 一つは、三日前、書店に注文したものだ。だが、二つ目がよく分からない。送り主の住所と名前が書かれていなくて、ただ、「北の国から」とだけあるのだ。

 不思議に思いながら、部屋の隅にある書き物机の椅子に座って、卓上灯を点けた。橙色の淡い光が、机の上に置かれたものを優しく照らし出す。真ん中に、卒論で扱っている、U・K・ル・グウィンの『闇の左手』の原語版と翻訳版が置かれていて、その周辺に授業のレジュメや、本が乱雑にある。

 机に転がっているペーパーナイフを手に取ると、書店からの封筒を丁寧に開封した。注文した本が全てあることを確認すると、それを机の隅に置いて、「北の国から」の封筒を開封する。

 中には、稲宮が持っているものと同じ版の『闇の左手』と、使い込まれた感じの紅い表紙のノートが入っていた。

 冷たいものが心の底から噴き出して、イヤリングを見た時と似た感情が生まれた。

 鼓動が速くなって、冷汗が背中を覆う。手のひらがじっとりと汗ばみ始める。

 注文したのを忘れたのだろうかと疑問に思った。だが、それならば送り主が明記されてあるはずで、「北の国から」だけなんてことはあり得ないし、ノートは新品のはずだろう。それに、同じ版のものを布教用に買う趣味もなかった。

 稲宮は卒論で扱っている大好きな作品が、よく分からないところから送られてきたことに、気味の悪さと好奇心が混ざったものを感じて、紅い表紙のノートを机に置くと、ゆっくりと小説のページを捲った。

 『闇の左手』は両性具有者の雪の惑星を描いた物語で、二十の章に分かれている。

 第一章を開いて目に飛び込んできたのは、余白にびっちりと書かれた、その章に関する批評や感想だった。見知らぬ人の丸っこい文字で、稲宮は見てすぐに視界がぐるぐると回るような感覚に襲われて、瞼を閉じた。

 胸の奥深くから液体がどぉどぉと噴出して、肉を、甘く心地よく痺れさせながら、四肢の先まで行き着くと、波が引くように消えていった。だが、その快感は余韻の中にも僅かながらあって、数分は残った。快感が完全に身体から消失しても、稲宮は椅子に背を預けて、天井をぼうっと見ながら微かに喘いでいた。

 次の章を読み始めたのは、気味の悪さが戻ってきてからだ。

 第二章も、感想や批評が書かれてあった。だが、その文字は書いた覚えのない自分の文字だ。一章に書かれてあったものと違って、すかすかで内容も拙いものだ――奇妙なことに、卒論で書いた批評とはまったく異なっている。

 のしかかるような不安が稲宮を襲った。

 それに続いて、鋭い痛みが頭を貫いて、揺らめく炎の中に浮かんでいる、雪を被った四階建ての建物のイメージが脳裏を巡り、

「……僕を愛してはいないんだろう?」と口走ってから、はっとした。

 だが、口走った理由や書かれていた自分の文字について、まともに思考する前に、負の感情が増してきて、頭痛がひどくなった。

 それを消し去るように、ページを捲っていく。

 第三章は、一章と同じ丸っこい文字で余白がびっちりと埋められてある。

 再び液体が胸の奥から噴出して、甘い痺れが稲宮の身体を快感へと導く。 

 そこからは、稲宮の予想通りだった。

 偶数の章は、彼の文字が、奇数の章は、見知らぬ丸っこい文字が書かれてあったのだ。

 不安にさせる偶数の章の文字は流し読みして、快感をもたらしてくれる奇数の章の文字はじっくりと抉るように読む。偶数を飛ばさないのは、前に不安があれば、その分、快感も大きくなるからだ。

 稲宮は十九章で手を止めた。

 余白には今までのように批評や感想が書かれておらず、章の最後のページに数語よく分からないことが書かれてあるのみだった。余白の上から下まで、単語がいくつか書かれていて、下矢印で上から下へつなげられている。上から、「母の自殺」→「男性性の排除or性別の排除」→「両性具有」→「同性愛は可能か?×嫌悪感○」→「それなら理想的男性は?」→「少女じみた少年=同性愛の亜種○」→「理想、性別がない世界、それか、少女的?」

 快感に酔いながら、その言葉の意味と、この本がどこから来たのかを考える。次の章は、何も書かれていない。ここが最後の書き込みで、見知らぬ人の文字で終わっているのだ。

 不意に、隣部屋から重いものを床に落としたような音が聞こえて、香山の怒鳴り声で、

「もっとよく見せろ、殺すぞ」

 本を読んでいる間に、香山が部屋に女を連れ込んだらしい。悲鳴じみた女の喘ぎも聞こえてくる。

 香山はよく女を連れ込んでは、乱暴に交わっているようで、いつもの優しそうな彼からは想像できない言葉が聞こえてくるのだった。交わることに対して、憎しみがあるようだった。連れ込む女は、少女じみた少年のような人が多いと、稲宮は普段から感じていて、そこには自分が関係しているのではないかと何となく思っていた。

 稲宮は気分が悪くなった。香山の言動にではない。女が男に乱暴に扱われている、もっと言うならば、女と男が性的に交わっていること自体に、交わる時、女は男に貫かれるという絶対的な事実に、気分が悪くなったのだ。

 こんな気持ちになったことは久しくなかった。最初のころは、香山の部屋から毎晩のように聞こえてくる声に戸惑ったが、慣れてしまってからは、普通に本を読んだりしていた。

 書き物机の引き出しを開けて、耳栓を探す。

 何もなかった。

 当たり前だ、買ったことがないのだから。どうして探したのだろうと疑問に思った。

 何故かここにある気がしたのだ。

「もっと奥まで、もっと、もっと……」

 香山の声が切ない響きで繰り返し聞こえてくる。

 不安と恐怖と吐き気が鉄砲水のように稲宮を襲う。

 舌の先をぎゅっと噛みながら、椅子から崩れるように布団へ頭から潜り込んで、布団の上から両手で耳を押さえた。

 そして、早く夢の世界へ行けるように、瞼を閉じて、一匹二匹と羊を数え始める。

 だが、その羊にも雄と雌はあって、勃起したペニスと膨れたヴァギナがあったので、苦しみは消えなかった。その臨戦態勢の生殖器は人間のものだ。

 稲宮は、その羊たちのペニスを赤く熱せられたハサミで断ち切って、ヴァギナをその熱でふさいでから、再び最初から数える。

 それでも苦痛は消えなかったが、少し紛れたのか、しばらくして眠りに落ちたのだった。

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