虚炎の現出

@Kayafukurou

第1話 京都 三条大橋

 その心は、甘美さと不安が混ざったものでふるふると震えている。

 持ち主の稲宮光(いなみやひかる)が鴨川の岸辺に座って、三条大橋の方から漂い来る街のざわめきを耳にしながら、夕日に染まる清らかな流れをじっと見ているからだ。

 稲宮は殴らねばならない人間と、優しく包み込むように手を握らねばならない人間がいることを改めて感じたが、それが誰なのかはやはり分からなかった。起床してしばらくしてから夢を思い出そうとしたが、どうしても浮かばないときのようだ。この感覚は、五日前、西の街に沈みゆく紅い太陽を三条大橋から見た時、うっとりとする感覚と悪い予感とともに、不意に起こったものだ。

 視界の左端で何かが動いて、稲宮はその方を見る。いつのまにか半歩ほど離れた場所に女が座っていて、彼に顔を向けている。稲宮と同い年くらいの大学生風の女だ。奥二重のたれ目で、唇の小さすぎる気もするが、瞳は黒目勝ちでブラックオニキスのような輝きを放ち、顔は両手で頬をそっと挟んで愛でたくなるほど小さい。全体的には、かわいい系の美人といった容姿だ。黒いスカートに白いスプリングセーターを着ていて、黒くて長い艶のある髪が、その服装によく映えている。彼女はかなり小柄で、稲宮は若干の優越感を抱いた。

 稲宮はその瞳に何か異常なものを感じたが、古いアルバムを捲ったような懐かしさを抱いて彼女と話したくなった。

 だが突然、稲宮の心臓は早鐘のように打ち始めると、冷汗が彼の背中をさあっと覆って、果てのない不安と恐怖がその心を支配した。

 異変から数秒遅れて、原因が女の左耳に煌めくイヤリングを見たことにあると、稲宮は悟った。太陽をモチーフにしたイヤリングで、そのデザインはアステカやインカ帝国を連想させるものだ。

 女の垂れた目尻がさらに下がって、表情が心配そうなものになる。叱られた猫のようだ。

 彼女はおどおどしながら稲宮に、

「どうしました、大丈夫ですか?」

 稲宮は動悸を抑えようと努めながら、

「……あ、あなたは誰ですか? どうしてそんなに見るの?」

 女は、はっとしたように顔を下に向けると、

「……ごめんなさい」

 頭痛が稲宮を襲い始める。彼は横に置いた手提げ鞄と本をつかむと、ふらふらと立ち上がって三条大橋の方へ向かう。

 どっしりとした歴史ある橋は、観光客の外国人や、繁華街のある河原町通りの方に向かう学生、サラリーマンで満ちていた。稲宮は人ごみに飲まれるようにして橋を歩き始める。

 すぐに、行き交う人の生命感が稲宮の心を乱した。夕の光までもが彼を苦しめ出した。

 橋の半分程まで来たところで、吐き気が襲ってきて、欄干に寄り掛かると、苦しみから逃れるように瞼を閉じた。暗闇が彼の前に広がる。

 日常の些細な場面で、急に不安な気持ちが起こったり、逆に甘美な気持ちが起こったりするようになったのは、五日前に三条大橋で夕日を見たときからだと、稲宮は感じていた。

 例えば、シェイクスピアを扱った授業で、リア王が娘たちに自分への愛を述べさせる場面を見たときは、心の片隅をチクチクとつつかれるような不安を抱いた。大学掲示板に映った、男らしさを奪い取られたかのような少女じみた自分の顔と、男にしては小さすぎる身体を見たときは、心がひゅっと冷たくなった。スマートフォンで、広島旅行の広告を目にしたときは、沈み込むような気持ちのあとに、目の裏が痺れるような甘い感覚を抱いた。

 だが、これほど激しい不安が生まれたのは初めてだ。

 稲宮は、女の着けていた太陽のイヤリングが闇に現れ出したので、瞼を開く。

 欄干にもたれかかりながら橋の終わりまで行くと、往来する人々の目を視界の隅で感じた。意識しないようにしたが、生命感で満ちた橋を力なく歩いている醜い人間のイメージが、夕立のようにざぁっと頭の中に現れて、稲宮は気持ちの悪さを紛らわすために舌の先をぎゅっと噛んだ。伏見のアパートに早く戻って、布団に潜り込みたかった。

 不意に、古都を紅く染める太陽をはっきりと目にして、自分の身体をぎゅっと抱きしめて慰めたくなる程の不安を感じた。

 下を向いて、コンクリートの地面を見ながら、橋近くにある三条京阪駅の入り口を目指す。

 ふと、手に持った本に挟んである栞が逆さまなことに気づいた。本屋のキャラクターが見えるはずなのにその姿がない。何故か異常に気になって、入り口の前で立ち止まると、栞を抜く。

 仰天した。

 栞に、「よかったら連絡してください」というメッセージと、無料連絡アプリのIDと携帯番号がボールペンで書かれてあるのだ。おそらくあの女からだ。

 稲宮は太陽のイヤリングを思い出して、投げ捨てようとする。

 だが、最初に抱いた懐かしい感じが急に増してきて、それを本――何故だか、異常に読みたくなったジョージ・オーウェルの『1984』――にしっかりと挟み込むと、本を、手提げ鞄の外側にあるチャック付きポケット――そこには特に大事なものを入れるようにしている――にしまって、地下ホームへ通じる階段を速足で下りた。

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