スーパーカップと三ツ矢サイダー
星 太一
スーパーカップと三ツ矢サイダー
――このエッセーを老い先短し乙女に遺す。生に執着した僕が貴女を見つめ直す時が来た。涙で霞んだ霧雨の中でも貴女の優しさを思い出せるように、今、貴女との思い出を書きつこうと思う。雲の向こうには青空と竜の巣が、あの日みたいにきっと広がっている。
「毎朝、僕はいないいないばあまで見てから家を出ているんです」
「三ツ矢サイダーが大好きで」
「最近アイスと言えばスーパーカップしか買ってなくて」
全て貴女の為であること、貴女はいくつ知っていますか。
忘れたくない。それだけだけども。
「太一、そろそろ行くよ」
保育園のバス停まで百メートルも離れていなかった。なので毎朝貴女といないいないばあまできっちり見てから家を出ていたね。
保育園のバス停のすぐそばには道祖神様と民家があった。なのでバスが来るまでは道祖神様の周りをぐるぐる回ったり、道祖神様の所に敷き詰めてある石を民家のブロック塀の隙間にちょこまか並べたりしていた。
全て静かに見ていたね。他のお母さん方と話しながらちらりちらりとこちらを見ていた。知ってた。
だって、どんなに暑くても土砂降りの中傘を差していても、一緒に手を繋いで歩いた。ずぶ濡れになっても気にはしなかった。
そうしておいて本当に良かったと思っている。
土曜日は田んぼのあぜ道を貴女と二人でよく歩いた。覚えている、朝の十時。ぐるりとコの字型に回って、帰ってくる。貴女の家に唯一あったアニメ映画「となりのトトロ」のさんぽの歌ととなりのトトロの歌が大好きで、僕は大きな声張り上げて歌った。貴女は変わらず歌わなかった。代わりに小言の多い人だった。
一番覚えているのは何円なら安いのか問題。きっかけは母が貯金のために持っていった六万円の話を貴女に言ったとき。
「ママが六万円持ってた」
「ひぇー、お金持ち!」
「六万円って高いの?」
「高い。おばあちゃん、そんなに持ってないもん」
「じゃあ一万円は?」
「高い」
「五千円!」
「高い」
「百円は?」
「高い」
「百円も高いのー!?」
「十円も五円も一円も高い」
「じゃあ無料は?」
「無料なんて高いも安いもないよ」
「安いって無いの?」
「お金はみんな高い」
それきりその話題に触れることは無くなったが、この問題の答えに触れられた気もしなかった。
未解決なままこの問題はセピア色になって、記憶の底にしまわれている。
いつ風化してしまうかしれない。
「あ! おじいちゃんアイス食べてるー!」
そう言って玄関に座るおじいちゃんの元に弟と一緒に駆け込んだのは今よりもずっと日本らしい夏の日。蝉がじわじわ鳴いて山の上の青い空には竜の巣が。
「お前達も食べるかい」
「食べる!」
「おじいちゃんの田んぼ仕事の前のアイスだったんだけど……」
貴女はいつだってそこに一言小言があった。いつものことだったから気にしなかった。だってその後には必ず「ま、いっか!」っていたずらっぽく笑うしわだらけの子どもの笑顔があったから。
その日のアイスはいつももらうアイスとは大きく違っていた。
いつもならチューブのアイスを半分にちぎって弟と分け合っていた。でも今日はカップアイス。スーパーカップだった。
その頃の僕達にとっては量が多かった。でも初めて食べたそのアイスはおじいちゃんのを食べちゃったという感情も相まってとても美味しく感じた。喉の向こうにバニラのシロップの味がして、夏なのに腕が寒かった。多すぎた、のだろう。
蝉がじわじわ鳴いていた。
「夏と言えばさ――」
この家族、五人のうち四人がピアノを習っていた。そして、夏と言えばピアノコンクールであった。先生は厳しかったけれど、僕は大好きだった。長い年月を共に過ごし、確実に自分の実力を上げてくれる。第二の親という感情さえ起こっていたぐらいだ。
しかし、それが何の助けも無しに成就するはずも無く。
ルーティンは貴女達がくれる三ツ矢サイダーだ。
「おぉ(おい)、ジュースいるか」
そう言って、くれるのは三ツ矢サイダー。一時期コーラに取って代わられた日もあったが、大体は三ツ矢サイダーだった。
クーラーボックスにジュースを入れて持たせてくれる。
一夏の間に何本の三ツ矢サイダーを飲んだか知れない。
それは彼らなりの、声が届かない場所に行く僕達への応援メッセージだっただろう。
貴女達がピアノを見つける度に
「お前達、弾けば良いじゃねえか」
って笑う。
きっと三ツ矢サイダーがそれを代弁してる。頑張れよって。
ありがとう。
おかげで三ツ矢サイダーは僕の良き友だ。
貴女がくれた思い出が
サイダーの泡となって
――大晦日は必ず貴女の家で過ごした。最初は皆そこで泊まったのに、何で親は途中から帰るようになったのだろう。
でも、初詣は貴女達と一緒に行けたから気にすることは無かった。
溶ける溶けゆく二酸化炭素
嗚呼、微炭酸に変わりゆく
――貴女達が親とちょっとした口喧嘩をして、しゅんとしながら帰るのを見るのは耐えられなかった。
でも貴女の命を救ったのは母だという。
これだから人生は分からないけど、母が医療人で良かったと心から思っている。
医療人である為にストレスを溜めやすかったのだが。
アイスが溶けるよ、早くお食べ
待って、これね、シェイクにするの。ほら、マックシェイク。
――貴女は時たま座敷童のようないたずらをすることがあった。僕達がハンバーガーを食べているときにやって来て、ポテトをひとつかみ。こっそり、テレビに夢中な弟のポテトケースから抜き取ってパクリと食べていた。貴女のご主人も同じ事していた。
夫婦だな、って。似ているな、って。
ほら、垂れてる。そんなにずっとかき回しているからだよ
平気。だって僕のアイスだもん。
「早く食べないと悪くなるよ、ほら、玉子焼き」
――たくあんでしょ
「早く洗わないとご飯が乾くよ、ほとばしておくからね」
――面倒臭いなぁ
「早く」
「早く」
「早く」
……そんなに早くに行こうとしないでよ。
『やだ、そんな縁起でも無い』
きっと貴女なら言うだろう。
『お前達の十二月の発表会、行くから』
そうだね、そうだよね
嗚呼、待ってる。きっと待ってるから。
肉体に宿っている間に、貴女に聞かせよう。あの革命を。
どんな事があっても貴女は遠くまで発表会を聞きに来た。
そんな貴女の背は僕よりもいつの間にかずっと小さくなって小さくなって……。
貴女を蝕むガンが代わりに小さくなってくれれば。
――今日も朝七時からいないいないばあまでEテレをきっちり見て、家を出る。
ストックしてあるのは三ツ矢サイダー。執筆時、ピアノの練習の合間にあの時みたいにちびりちびりと飲む。
スーパーのアイス売り場ではスーパーカップを手に取って、今日も蓋の下のラベルを剥がす。ラベルについたアイスはあの日のバニラシロップの味がする。茶色の冷たい廊下の先で、蒸し暑い玄関を開け放しながらすくったアイスクリーム。あの日の麦わら帽子を台所の影から送り出してる。
貴女がもし。
もしもいなくなってしまっても。
夏の青空と竜の巣が山の上にあれば僕はそれを変わらず続けるに違いない。
――宇宙の終わりを怖がる。幼いときからこの人生は夢で、死ぬときに目が覚めて本当の人生が始まったらって思ってる。
そんな死の淵に貴女が立っていると聞いて、引き戻さずにはいられないだろう。
だから僕はこのエッセーを、消えることのないデータとして保存して
夕闇の中でひとりほっと思い出すこととしよう。
傲慢な、誰の為とも思っていない稚拙なエッセーはこれでお終い。
スーパーカップと三ツ矢サイダー 星 太一 @dehim-fake
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