どうして「好き」って言わないんですか?



 俺は今日、学校を休んだ。


 原因はただ一つ。昨日、彼女と別れたことだ。



     ※   ※   ※



「私たち、別れよう」


 そう唐突に、有海あみは告げた。放課後、並んで帰ったいつもの道で。


 俺は咄嗟に反応できなかった。予兆も前兆もなく、突如として襲いかかった波に呑まれるだけだった。喉から出そうとする声に、唇が重くのしかかる。ああ、人は驚くと何もいえなくなるっていうのは本当なんだと、この時初めて実感した。


「私たち、もう無理だと思うの。このまま、一緒にいると」


「え……」


「ごめん、知季ともきくん」


「なんで……なんで、お前が謝るんだよ」


「ううん、違うの」


「何が違うんだ」


「わかんない、でも……ごめん」


 脈略のない彼女の言葉は、一つずつ、俺の心臓を殴りつけていた。


「今まで、ありがとうございました」


 そう深々とお辞儀をすると、全速力で前のほうに走り去っていった。後ろを絶対向くまいという頑なな背中を、俺はただ茫然と眺めるだけだった。



     ※   ※   ※



「はぁ、ったく、なんだよもう……」


 ベッドの上で、寝返りを打つ。うめき声に答えてくれる人は誰もいない。


 カチッ、カチッ、と時計の針だけが部屋に響く。いつもなら授業を受けているはずの時間帯だ。今頃、彼女はいつもどおり教室にいるのだろう。真面目にノートを取り、顔を上げて、黒板を見つける。斜め後ろから眺めるその横顔は、真剣で、子どもっぽさが残っていて、なにより綺麗だ。


 俺の恋は、途絶えてしまったのだ。


「もう……なんで、ちゃんと、いってくれないんだよ」


「それはあんただろ」


 えっ、と瞬時に身を起こした。ほかに人がいないはずの自室。ましてや、家にも俺はただ一人だけだ。よもや、独り言に返答してくれる妖精なんかはいるはずもない。


 あたりを見回すまでもなく、そこには人がいた。勉強机にどっかりと座り、こちらを見据える女子。俺は信じられなかった。制服を着たその子は、どこからどう見たって有海だったのだ。


「なんで、お前が……」


「いるのかって? あんたを助けにきたのよ」


「助ける? ちょっとまて、有海。学校はどうしたんだよ」


「心配しないで。有海はちゃんと学校に行ってるわよ。私は彼女の代理でここにいるの」


「代理? 悪い、理解が追い付けない」

 

「わかりやすくいえば、私は分身した体ってこと。本体のほうは、ちゃんと教師の声を聞いているわ」


 分身……。俺は落ち着くことにした。確かに、彼女の口調はいつもの有海とは違って乱暴だし、いつもの愛嬌がある丸顔には、博士のような銀縁の丸眼鏡をかけている。非現実的だが、何かにすがる思いで訊いてみた。


「てことは、学校にいる有海と俺の前にいる有海とは、意識や記憶が一致することはないんだな」


「少なくとも、今日ここにいる私の記憶は本物の記憶になることはない」


「よかった。それを聞いて、安心したよ。いろいろと、訊きたいことがある」


「おや、奇遇ね。私もいくつか質問があるわ」


「じゃあ、俺からでいいか。なんで、俺はフラれたんだ?」


 単刀直入の問いに、有海の分身は肩をすくめた。


「それを聞いて、どうするの?」


「決まってる。もう一度、やり直すんだ」


「本当に、できるの? あんな別れ方をして」


「どういうことだ」


 分身は深々と、ため息をついた。


「どうして有海があんたのことをフッたか、わかる?」


「それは……わかんない」


「じゃあ、ダメに決まってる」


「わかんないから! 俺は訊いているんだ!」


「は? なにそれ」分身は、目を大きく見開いたかと思うと、鼓膜がはち切れんばかりの大声が響き渡った。「ちゃんと考えもしないで、人に訊いてんじゃねえよ! それで恋人名乗ってたのか?」


 俺は唇を噛み締めた。「考えてるさ……昨日から、ずっと」


「違うな。てめえはただ悩んでただけだ。現実逃避したいから、考えもせず、ウダウダと悩んでただけ。違うか?」


 俺は声が出なかった。その代わりに、分身が続ける。


「私から質問するよ。あんた、最近有海とデートしたか? 一緒に帰るのも、前までは頻繁だったのに、ここ数週間は減っただろ?」


「それは……お互い、忙しくて。俺も、練習試合だったり勉強だったり大変で、有海のほうも……部活を頑張ってたから」


「ふうん。それだけ。そんなんで、別れちゃうような仲だったんだ」


 冷めたコメントに、俺は噛みついた。


「どうして、そのことに関して俺だけが責められるんだ? あいつにだって、ちょっとは悪いところはあっただろ」


「さあ、どうかしら」ふう、と分身の有海はどうでもいいように息を吐いた。


「ねえ。あなたは有海のことを好きなの?」


「なんだよ、いきなり……」


「いいから」


 俺は答えるのに躊躇した。目の前には、心は違うといえど、同じ外見を持った彼女がいる。丸眼鏡の奥にある瞳が、こちらの動向を見守っていて、思わずそっぽに首をそらした。


「……好きじゃなかったら、付き合わない」


「どのあたりが?」


「どのあたりって……優しいところ」


「他には?」


「ほか……」


 有海の好きなところ? 


 俺は、黙りこくってしまった。ひどいやつだ。最低だ。恥ずかしさ、というよりかは、自らのバカさに頭を上げられなかった。


「ほら、答えられない」


 図ったような分身の声がした。


「で、でも……俺は、有海のことが、好きなんだ! これだけ、この気持ちは、確かだ」


「そう。でも、今のままじゃまた同じこと繰り返すよ」


 分身の有海はさらに畳みかけた。「それで、いいの?」


 ふるふると首を横に振った。いいわけがない。


「行けば」


「え?」


「走れよ、カレシなんだろ?」


 そうか。俺は、笑みがこぼれた。小さく、けど確かに頷く。


「ああ」



     ※    ※    ※



 息を切らせながら、コンクリートを蹴っていく。走る。足が一歩でも、一秒でも前に前にとせかしていく。疲れは感じなかった。ただ、すぐにでも彼女に会いたい。彼女と話をしたい。彼女に謝りたい。彼女と笑いたい。そしてもう一度、笑顔を見たい。


 ほかのものは、何もいらない。


 何分か、走った。さすがに、息が上がっている。この河川敷を超えれば、学校はすぐそこだ。


 すると、その河原。土手にたたずんでいる、女子が目に入った。まさか、と思いつつも、俺は目をパチパチさせた。


 彼女が、そこにいた。


「有海!」


 大きく、叫んだ。ゆっくりと振り向いた顔に、丸眼鏡はない。


「知季くん……?」


 俺はすぐに坂を滑り降りた。バランスを崩しそうになりながらも、なんとか彼女の横にたどり着く。


 俺は、ドキりドキりと心臓が鳴っているのに気付いた。ええい、なんでだ。なんで、ここにきて。すぐ近くに来たからか? 緊張。気にするな、昨日まで隣にいた彼女だぞ。落ち着けよ、落ち着け。


「……なあ、有海。いいたいことがある」


 息を吸う。彼女の丸い瞳を見つめる。見つめあうと、やっぱり彼女は、美しくて、可愛くて、とろけそうだった。やばい。心臓が、はじけそう。でも、絶対目をそらすな。何があっても。


「……俺は、有海のことが、そ、その、えっと、え……」


 言葉が出ない。二文字だぞ。たった。それだけだぞ。


「……え、す、す……」


「知季くん、今は眼鏡してないんだ……」


 ポン、と彼女は発した。眼鏡? 俺は何秒間か固まった後、あ、と気づいた。


「……有海も、今は眼鏡してないんだな……」


 今度は、彼女が固まる番だった。何かを理解したのか、彼女は恥ずかしそうに唇をほころばせた。


 俺も嬉しくて、ちょっぴりと笑った。

























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