第2話 "Conversations with God" Book 1:1章-1:P7-16

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┌《注記》

・対話上の「ニールの言葉」には、P10 以降は、文頭に「N:」を付けました。

・「P」は英文のページを表します。

・末尾に英文を掲載しました。

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P7


(1)第1章


1992年の春―イースターの頃だったと思うが―異常な現象が私の人生で起きました。神はあなたと話し始めたのです。私を通して。


説明させてください。


私はその頃、個人的にも、仕事的にも、感情的にも非常に不幸な状態でした。


私の人生はあらゆるレベルで失敗だった、という気持ちでした。私は、自分の思いを手紙に書くという長年の習慣があったので(いつも投函はしなかったが)、黄色の便箋を取り出し、私の気持ちをそこに吐き出しました。


今回は、私を苦しめていると思っている人への手紙というより、根源、つまり人間を苦しめている最も偉大な根源に、ダイレクトに送ろうと私は思いました。神に手紙を書くことに私は決めたのです。


それは、悪意があって、激情的で、混乱、歪曲、非難などいっぱいの手紙でした。


そして、たくさんの怒りの質問を書いたのです。


なぜ私の人生はうまくいかなかったのですか?


うまくいくには何が必要でしょうか?


なぜ私は人間関係で幸せを見つけることができないのですか?


私は十分なお金を得ることは、永遠にできないのですか?


最後に―最も重要なことだったが―こんなもがき続ける人生を生きなければならないなんて、私は何をしたのでしょうか?


驚いたことに、最後の苦い、答えのない質問を書いてから、ペンを脇に放ろうとしたとき、まるで見えない力で押さえつけられているように、私の手は紙の上にのったままでした。


突然、ペンは自動的に動き始めました。私は何を書こうとしているのか分かりませんでしたが、アイデアは来ていると思われたので、そのまま続けることにしました。そうすると……


   あなたは本当にこれらの質問の答えを知りたいのか?ただ、怒っているだけなのか?


私はまばたきをして、その返事を思いつきそれを書きました。


どちらもです。怒っているのは確かですが、これらの質問に答えがあるのなら、(地獄のように確信して)それを聞いてみたいです!


   あなたはよく、地獄のように確信して、というね。だが、天国のように確信して、の方がよくないのかな?


私は書いた。


それはどういう意味ですか?


私が気づく前に、対話は始まっていたのです。私は、書くというより、ロ述筆記をしていました。


その口述筆記は3年間続きましたが、当時は話しがどこに行くのか分かりませんでした。


私の質問に対する答えは、質問を完全に書き終え、自分の考えを捨てるまで、私には来ませんでした。


しばしば答えは、私が書くより早く来て、私はそれに追いつくためになぐり書きをしていました。


私が混乱したり、言葉が別のところから来ているという感覚を失ったりしたときには、私はペンを下ろして、再びインスピレーションを感じるまで対話から離れました-申し訳ないが、それが本当にピッタリする表現です-そして黄色の便箋に戻って、もう一度書き取りを始めたのです。


P7


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P8


これらの対話はまだ続いています。そしてその多くは、この本に書かれています。


この本は、最初は私も信じられなかった驚くべき対話を含んでいて、個人的な価値があるものと思っていました。しかし、今私は、私だけのものではないということを理解しています。


この本は、あなた、そしてこの本を読みに来たすべての人のためのものなのです。なぜなら、私の質問はあなたの質問だからです。


あなたにできるだけ早くこの対話に参加して欲しいのです。ここで本当に重要なことは、私の物語ではなくあなたの物語だからです。


ここにあなたを連れて来たのは、あなたの人生です。そしてあなたの個人的な経験です。さもなければ、あなたは、たった今、ここにはいないでしょう。


それでは、私が非常に長い間尋ねてきた質問をして、対話に入ることにしましょう。


神はどのように、そして誰に話すのですか?


私がこの質問をしたとき、私が受け取った答えはこうです。


   私は誰にでも、いつでも話す。問題は誰に話すかではなく、誰が聞くかではないか?


興味をそそられて、私は神に、この話しをもっとするように頼みました。


神はこう語りました。


   まず、語るという語をコミュニケートするという語に変えよう。その方がはるかに良く、はるかに完全で、より正確なものだ。


   私たちはお互いに話をしようとすると、信じられないほどの言葉の限界に出くわし、すぐに制限される。このため、私は言葉だけではコミュニケーションをしない。実際のところ、ほとんどしていない。私の最も一般的なコミュニケーションの方法は感情を通してだ。


   感情は魂の言葉だ。


   あなたが何かについて本当のことを知りたいのであれば、それについてどう感じるかを見なさい。


   感情は時に見つけるのが難しい。認識することはさらに困難だ。しかし、あなたの最も深い感情に隠されているのは、あなたの最高の真実だ。


   そのコツは、それらの感情になることだ。


   あなたにどうすればいいかを、教えてあげよう。あなたが希望するならね。


私は願っていたことを神に話しましたが、今は最初の質問に対する完全な答えを望みました。


神はこう語りました。


   私も思考とコミュニケーションをとる。思考と感情は同じではないが、同時に起こることもある。思考とのコミュニケーションに、私はしばしばイメージや画像を使う。このため、コミュニケーションのツールとしては、単なる言葉よりも思考の方が効果的なのだ。


   感情や思考に加えて、私は偉大なコミュニケータ(伝達手段)として、経験という手段も使う。


   そして最後に、感情や思考や経験がすべて失敗した場合に、言葉を使う。言葉は実際には最も効果的でないコミュニケータだ。それらは誤解される可能性が最も高く、ほとんどの場合誤解されている。


P8

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P9


なぜだろう?それは言葉の性質のためだ。言葉は単なる音であり、感情、思考、経験を表す音だ。それらはシンボル、サイン、しるしだ。真実ではない。本物ではない。


言葉は何かを理解するのに役立つだろう。経験からは知ることができる。しかし、経験できないことがいくつかある。だから私はあなたがたに、知るための他のツールを与えた。それは感情とも呼ばれるし、思考とも呼ばれる。


今ここで最高の皮肉は、あなたがたは神の言葉をすべて重視していて、経験にはほとんどしていないということだ。実際あなたがたは、経験したことに価値はあまり高く置いていない。神から経験したことが、神から聞いたことと異なると、その反対であるべきなのに、あなたがたは自動的に経験を無視し、言葉を優先する。


物事に対するあなたがたの経験と感情は、事実上あなたがたが直感的に知っていることを表している。言葉は、あなたがたが知っていることを、ただ象徴化しようとするだけのもので、しばしば混同しうる。


これら経験、感情、言葉は、私がコミュニケートするためのツールだ。しかし、感情、思考、経験、言葉のすべてが私からのものだというわけではない。


多くの言葉が、私の名で、他の人々によって発せられてきた。多くの思考や感情が、私の創造物ではないものによって支えられている。これらから多くの経験が生まれている。


それらを区別することが必要だ。難しいのは、神からのメッセージと他の情報源からのメッセージとの違いを知ることだ。それには、基本的なルールを適用すればよい。


つまり、私からのものは、いつも、あなたがたの最高の考え、最も明快な言葉、最も偉大な感情だ。そうでないものは、他の源から来たものだ。


これなら区別する作業は簡単になる。


初めての生徒でさえ、最高で、最も明快で、最も偉大なものを認識するのは、それほど難しくないだろう。


だが、あなたがたにさらにガイドラインを与えよう。


最高の思考にはいつも喜びがある。最もきれいな言葉には、真実がある。最も偉大な感情は愛と呼ばれる感情だ。


喜び、真実、愛。


これらの3つは交換可能で、1つは他のものに常につながっている。どのような順序かは重要ではない。


これらのガイドラインに基づけば、どのメッセージが私からのもので、どれが他の源から来たものかを判断することができる。残りの問題は、私のメッセージに注意が払われるかどうかだけだ。


P9

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P10

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《注記》

・これ以降の対話上の「ニールの言葉」は、文頭に「N:」を付けました。

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私のメッセージは大部分、注意が払われていない。真実にしては良すぎるように思え、従うには難しすぎるように見えるからだ。多くは単に誤解されているだけだ。ほとんどは、メッセージが受け取られていないためだ。


私の最も強力なメッセンジャーは経験だが、これも無視される。特にこれは無視される。


あなたがたの世界は、経験に注意さえすれば、今のような状態にはならなかっただろう。経験を無視した結果、あなたがたは何度も何度も同じことをくり返す。私の目的は邪魔されたり、無視されたりはしないだろう。遅かれ早かれあなたがたは、そのメッセージを受け取るからだ。


しかし、私はあなたがたに強制はしない。決してあなたがたを威圧したりはしない。私はあなたがたに自由意志、選択する力を与えた。それをあなたがたから奪うようなことは決してしない。


それで、私は何千年もの間、あなたがたの住む世界のどんなところにでも、同じメッセージを何度も何度も送り続けている。私のメッセージをあなたがたが受け取って、つかみ、自分のものだと言うまで、私はメッセージを限りなく送る。


私のメッセージは、何百の形で、何千回も、何百万年にもわたって、送られるだろう。


あなたがたが本当にそれらを聞くなら、見逃すことはできない。一度本当に聞いたら、あなたがたはそれらを無視することはできない。


こうして私たちのコミュニケーションは、本格的に始まる。


あなたがたは過去に私に話しかけ、祈り、取りなし、懇願するだけだった。しかし、今や、ここでやっているように、私はあなたがたと話すことができる。


N:このコミュニケーションが神からのものであることを、私はどのようにすれば知ることができますか?これが自分の想像ではないことを、どのようにしたら分かりますか?


それらに何か違いがあるのかな?


私なら、他のことと同様に、あなたの想像力を通して、簡単に働きかけられると思わないか?


私はどんな時でも、1つ、あるいはいくつもの方法を使って、目的に正確に適合した正しい思考、言葉、感情をあなたにもたらすことができる。


あなたが自分の言葉で、これほどまでにはっきりと語ったことがないなら、これらの言葉が私から来ていることが分かるだろう。あなたがすでに、これらの質問にはっきりと語っていたら、あなたは尋ねる必要はなかった。


N:神は誰にコミュニケートするのですか?特別な人はいますか?特別な時はありますか?


すべての人は特別で、すべての時は黄金だ。他より特別な人も時もない。多くの人は、神が特別なやり方で、特別な人としかコミュニケートしないと信じている。


これによって、多くの人々は、私のメッセージを聞いて受け取る責任(これは別のことだが)は自分にはないと思っている。


そしてすべてについて、誰か他の人の言葉を聞くことをよしとしている。


あなたがたは私の声を聞く必要がないと思っている。なぜなら、他の人があらゆる事柄について私から聞いたと、決めつけているからだ。


私から聞いたという他人の言葉を聞いていれば、あなたがたは何も考えないでいられる。


これが、ほとんどの人が個人的なレベルで、私のメッセージから遠ざかる最大の理由だ。


私のメッセージを直接受け取っていることを認めた場合、あなたがたにはそのメッセージを理解し実行する責任が生まれる。


他人(たとえ2000年前にいた人たちであっても)の解釈を受け入れている方が、今いま、あなたがたが受け取っているかもしれないメッセージを解釈するより、はるかに安全で、簡単なのだ。


P10

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P11


しかし、私はあなたを神との新しいコミュニケーションのやり方に招待する。双方向のコミュニケーションだ。実のところ、私を招いたのはあなただ。だから私はあなたのところにやって来た。このやり方で、たった今、あなたの問いに答えている。


N:なぜ、ある人々、例えばキリストのような人々が、他の人々よりもあなたとのコミュニケーションがよく取れたのでしょうか?


その人々は本当に聞こうとしているからだ。


彼らは本当に聞こうとし、たとえそれが、怖く、狂ったようで、間違っているように見えても、コミュニケーションを続けようとする。


N:おっしゃることが間違っているように見える時でも、私たちは神に耳を傾けなければなりませんか?


特に間違っていると思われる時にこそ耳を傾けなさい。あなたがすべてについて正しいと思うなら、誰が神と話す必要があるのか?


あなたが知っているすべてにもとづいて前進し行動しなさい。しかし、時の始まり以来、あなたがたは、常にそうしてきたことに注意しなさい。


そして、今の世界がどんなふうになっているかを見なさい。


明らかに、あなたがたが見逃しいるものがある。理解していないものがある。


あなたがたは、自分が理解できることが正しいと思っている。


なぜなら「正しい」とは、あなたがたが同意することを示す用語だからだ。


だからあなたがたが見逃したことは、「間違っている」ように初めは見えるだろう。


これを前進させる唯一の方法は、「もし私が『間違っている』と思ったことが、実際には『正しい』ものだったらどうだろうか?」と自分に問うことだ。


偉大な科学者は、これを知っている。


科学者は、彼らの研究がうまくいっていない時、仮定の全てを脇に置いて、やり直す。


すべての偉大な発見は、正しくないことに向かう意志と能力から成し遂げられた。


それがここでは必要なことなのだ。


すでに神を知っていると自分に語るのをやめるまで、あなたがたは神を知ることはできない。


神の言葉はすでに聞いたと思うのをやめるまで、あなたがたは神の声を聞くことはできない。


あなたがたが私に、あなたがたの真実を語るのをやめるまで、私はあなたがたに私の真実を語ることはできない。


N:しかし、神についての私の真実は、あなたから来ていますよ。


誰がそう言ったのか?


N:他の人々です。


他の人々とは?


N:指導者。聖職者。ラビ。司祭。書物。聖書です!


それらは権威ある源ではない。


N:ないんですか?


ない。


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N:じゃあ、権威あるのは何なのですか?


あなたがたの感情に耳を傾けなさい。あなたがたの至高の考えに、あなたがたの経験に耳を傾けなさい。


これらのいずれかでも、あなたがたの教師から聞いたことや書物で読んだことと異なる場合はいつでも、その言葉を忘れなさい。言葉は真実の最も信頼性の低い媒体だ。


N:あなたに言いたいこと、尋ねたいことがあまりにもたくさん私にはあります。どこから始めるべきか分かりません。例えば、あなたが姿を現さないのはなぜですか?もし本当に神がいるなら、なぜあなたは私達みんなが理解できる方法で、姿を現さないのですか?


私は何度も何度も現われている。たった今もそうしている。


N:そうじゃないんです。私が言っているのは、誰も否定できないような疑う余地のない現れ方です。


というと?


N:たった今、私の目の前に現れるとか。


今そうしている。


N:どこに?


あなたが見るどこにでも。


N:いいえ、私の言うのは、疑う余地のない方法で、誰も否定できない方法で、ということです。


それはどんな方法なのか?あなたは私に、どんな姿や形で現われてほしいのか?


N:あなたが実際にお持ちの姿や形で。


それは不可能だ。あなたが理解できる姿や形は私にはないからだ。


私はあなたがたが理解できる姿や形になることはできるが、そうすると、彼らが見たものは、神の多くのうちの1つの姿形ではなく、神の唯一の姿形だと思ってしまうだろう。


人々は、私が、見えないものではなく、見えるものだと信じる。


しかし、私は偉大なる見えざるものであって、特定の瞬間に現われるものではない。


ある意味で、私は私でないものなのだ。


私は 'the am-notness’(私でないもの)から来て、いつもそれに戻る。


しかし、私が特定あるいは別の姿(それは人々が神だと理解できる姿だが)で来る時、人々は私を永遠にその姿だとみなす。


そして、他の形で、他の人々のところに私が現れれば、最初の人は、私が2番目の人には現れなかったと言う。


なぜなら、私が最初の人に見えたり、言ったようには、2番目の人には見えないからだ。だから、それが神だと、どうして言えるだろう。


私がどんな姿で、どんな方法で現れるかは、問題ではない。


私がどんな方法で現われようと、どんな姿をとろうと、あなたがたの疑いの余地はなくならないだろう。


N:しかし、もしあなたが、疑いの余地のない、疑問の余地のない、あなたの真実を証す何かをしてくださったら……


P12

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P13


...それでも、悪魔のものだとか、単に誰かの想像に過ぎないだとか、あるいは私以外の何ものかだとか言う者がいるだろう。


私が全能の神、天地の王として自分自身を現し、それを証明するのに山々を動かしたら、「それは悪魔に違いない」と言う者がいよう。


それはそうだ。


神は外側から見える物を通してではなく、内側の体験を通して自分自身を現す。


そして、内側の体験が神を現すのなら、外見は必要ではない。


もし外見が必要なら、内側の体験は不可能だ。


それから、もし啓示が要求されるなら、それは不可能だ。なぜなら、求めるという行為は、そこにはない、つまり、神の何ものも、今は現われていないということの表明だからだ。


このような表明は経験を生み出す。


何かについてのあなたがたの考えは、創造的であり、言葉は生産的である。


あなたがたの考えと言葉はいっしょになって、あなたがたの現実を極めて効果的に生み出す。


それゆえ、あなたがたは、神は今現れていないという経験をするだろう。


なぜなら、もし神が現われているのなら、あなたがたは神に現われてほしいと求めることはないからだ。


N:それは、私が欲しいものは求めることができない、ということですか?


何かを求めて祈るということは、現実には、私たちからそれを押しのけるのですか?


これは、時代を越えて尋ねられてきた質問だ。


そして尋ねられるたびに、答えられてきた。しかし、あなたがたはその答えを聞こうとはしなかったし、これからも信じようとしないだろう。


その質問は、今日の言葉と言語で、再びこのように答えられる。


あなたは求めるものを持てないし、望むものを持てない。


要望するということは、自分には不足していることを表明することだ。


欲しいと言うことは、「欲っしている」という経験を、あなたの現実に生み出すことになる。


したがって正しい祈りは、決して懇願の祈りではなく、感謝の祈りなのだ。


現実に経験したいことを前もって神に感謝することは、経験したいことがそこにあると、実際に認めることだ。


したがって、感謝は神に対する最も強力な表明だ。つまり、あなたが求める前に、神は答えているとあなたが認めることだからだ。


したがって願ってはいけない。感謝するのだ。


N:しかし、もし私が何かのために前もって神に感謝し、それが全く実現しないとしたら、どうでしょう?幻滅と恨みとなりますよ。


感謝は、神を操作する道具、宇宙をだます装置として使うことはできない。


あなたは自分自身に嘘をつくことはできない。


あなたの心はあなたの真実の考えを知っている。


「神様、これをくださってありがとう」と言っていながら、ずうっと現実にはそれは存在していないとあなたがはっきり思っていれば、神はその現実を作り出す。


神はあなたが知っていることを知っており、あなたが知っていることはあなたの現実として現れる。


N:しかし、そこにはないと知っていることに対して、どうして本当に感謝ができるのですか?


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信念だ。


からし種ほどの信念があれば、あなたは山を動かす。


私がそれはそこにあると言ったら、それがあることをあなたは知るだろう。


あなたが尋ねる前から私は答えるだろうと、私は言ってきた。


私の名においてあなたが選んだものは、何でもそうなると、あらゆる方法で、あなたが知っているすべての教師を通して、私は言ってきた。


しかし、多くの人々は、祈りは聞かれなかったと言う。


どんな祈りも聞かれないことはない。


祈りは、「その通りだ」という強い表明にほかならない。


すべての祈り、そして思考、表明、感情は創造的なものだ。


それが強ければ強いほど 、あなたの経験に強く現れる。


祈りが聞かれなかったと言われるとき、実際に起きたことは、最も強く持っていた思考、言葉、感情が作用したということだ。


さらに、知っておかなければならないことは—ここに秘密があるのだが—

常に、思考の背後にある思考—支える思考とでも呼ばれるもの—が思考をコントロールしている。


したがって、あなたが懇願や嘆願した場合、あなたが願っていることを体験するチャンスは、ずっと小さくなる。


というのは、すべての願いの背後にある支える思考は、あなたが望むものはあなたにはない、というものだからだ。


ないというその支える思考が、あなたの現実になるのだ。


これを克服することができる唯一の支える思考は、神は求めるものは何でも間違いなく与えるという信念だ。


一部の人々にはそのような信念があるが、ごくわずかな人だ。


神は常にすべての求めに「イエス」と言うと信じるより、むしろ、求めること自体が不必要なことを直感的に理解すれば、祈ることはずっと楽になる。


そこで、祈りは感謝の祈りとなる。


祈りは決して求めることではなく、「その通りである」ことに感謝する言葉である。


N:祈りが、「その通りである」という表明であるなら、神は何もなさらないということですか?祈りの後に起こることは全て、祈りの行為の結果なのですか?


神は全能な存在で、すべての祈りを聞いて、ある人には「イエス」、他の人には「ノー」、残りには「たぶん、しかし今ではない」と言うと信じるなら、あなたは誤解している。


神はどんなルールで決めるのだろうか?


神があなたの人生の物事すべての創造者であり、決定者であると信じるなら、あなたは間違っている。


神は観察者であって、創造者ではない。そして、神はあなたの人生を助けるが、あなたが期待する方法では助けない。


あなたの人生の環境や条件を、創造したりしなかったりすることは、神の仕事ではない。


神はあなたを神の姿に似せて創造した。


神が与えた力によって、あなたが残りを創造しているのだ。


神は、承知のように、人生のプロセスや生活を作り出した。


しかし神は、あなたが望む人生を自由に選べるようにしたのだ。


この意味で、あなたの意志は、あなたへの神の意志なのだ。


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P15


あなたは、自分の生き方で、人生を生きているが、私はそれについて選り好みはしない。


あなたがいだいている大きな幻想は、神があなたの生き方を気にしているということだ。


私はあなたがすることを気にしない。そう聞くのはあなたにとって厳しいことだろう。


しかし、あなたが子供たちを遊びに出すとき、子供たちがどんな遊びをするかを気にするだろうか?


子供たちが鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、あるいはままごと遊びをするかは、あなたにとって重要なことだろうか?


いや、そうではない。あなたは彼らが完璧に安全なことを知っているからだ。


あなたは子供たちを、居心地が良く大丈夫と思う環境に置いた。


もちろん、あなたはいつも彼らがけがをしないように願っている。


そしてもしけがをしたなら、あなたは子供たちを助けに行って、治してやり、再び安心させ、幸せになれるようにして、次の日も、行って遊べるようにするだろう。


しかし、次の日も、子供たちが、かくれんぼをするか、あるいはままごと遊びをするかは、あなたにとっては重要なことではない。


あなたはもちろん、どの遊びが危険かを子供たちに教える。しかしあなたは、子供たちが危険なことをしないようにはできない。


常に、いつまでも、今から死ぬまでのあらゆる瞬間にも、それはできない。


賢い親はこのことを知っている。


しかし、親は結果について心配しないことは決してない。


プロセスにはあまり気遣うことはなく、結果には大いに気を配るというこの二分法は、神の二分法をよく表わしている。


しかし神は、ある意味では、結果さえ気にしていない。究極の結果も気にしていない。


究極の結果は保証されているからだ。


そして、これは、人生の結果は疑わしいという、二つ目に人間のいだく大きな幻想だ。


究極の結果についての疑いが、あなたの最大の敵を生み出した。それが不安だ。


結果を疑うなら、あなたは創造主を疑うに違いない。神を疑うに違いない。


そして神を疑うなら、あなたは不安と罪悪感の中で、人生を生きなければならない。


神の意図と、この究極の結果を生み出す神の力を疑うなら、どうして平安でおられようか?


本当の平和を見い出すことができようか?


しかし神は、結果と意図を一致させる完全な力を持っている。


あなたはこれを信じることができない。(神は全能だとあなたは主張しているのに)


それであなたがたは、神の意志が妨害される方法を見つけるために、神と同等の力を創り出さなければならないと想像する。


それであなたがたは神話の中で、「悪魔」と呼ばれる存在を創造した。


この存在と神は戦っていると、あなたがたは想像さえしてきた。(あなたがたと同じ方法で神は問題を解決すると考えて)


そしてついに、あなたがたは神がこの戦いに負けることもありうるとさえ想像した。


これらすべては、あなたがたが神について知っていることと違うが、それは問題ではない。


あなたがたは幻想を生き、それで不安を感じる。全ては、神を疑うあなたがたの決意からなのだ。


しかし、もしあなたがたが新しい決意をしたらどうだろうか?結果はどうなるだろうか?


私はあなたがたに言う。


あなたがたは仏陀がしたように生きるだろう。イエスがしたように生きるだろう。あなたがたが今までに崇拝したすべての聖人と同じように生きるだろう。


しかし、これらの聖人に対したのと同じように、人々はあなたを理解できないだろう。


そしてあなたが、あなたの平和な思い、人生の喜び、内なる恍惚感を説明しようとしても、人々はその言葉は聞くが、理解はしないだろう。彼らはあなたの言葉をくり返すが、その言葉に新たなものを追加するだろう。


P15

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P16


彼らは、自分たちが見つけられないものを、どうしてあなたが持っているか、不思議に思うだろう。


そして、彼らは嫉妬をつのらせるだろう。


すぐに嫉妬は怒りに変わり、怒りの中で彼らは、神を理解していないのはあなただと、言い張るだろう。


そして彼らが、喜びからあなたを引き裂くことに失敗した場合、彼らはあなたに危害を加えようとする。怒りは甚大になるだろう。


そしてあなたが、「それは問題ではない、死でさえ、私の喜びを妨げることも、真実を変えることもできない」と彼らに言った時、彼らは間違いなくあなたを殺すだろう。


そして、あなたが安らぎをもって死を受け入れるのを見て、彼らはあなたを聖人と呼び、再びあなたを愛するだろう。


最も価値あるものを愛し、それから破壊し、それを再び愛するのが人間の本質だからだ。


N:しかし、なぜ?なぜ私たちはそんなことをするのですか?


すべての人間の行動は、最も深いレベルで、不安と愛という2つの感情のうちの1つによって、動機付けられている。


実際に2つの感情だけがある。魂の言語はこの2つだけだ。


これらは、知ってのとおり、宇宙とあなたがたの世界を私が創造した時、創り出した大きな極性の両端なのだ。


これらは2つのポイント-アルファとオメガで、それが、あなたがたが相対性と呼ぶシステムを存在させている。


これらの2点がなければ、そして物事に対するこれら2つの考えがなければ、他の考えは存在できない。


すべての人間の思考や行動は、愛または不安のどちらかに基づいている。


他に人間の動機はなく、他の考えはすべてこの2つの感情から派生した物だ。それらは単にバージョンが異なるだけで、同じテーマがゆがんだものだ。


これをよく考えてみると、正しいことが分かるだろう。


これが私が「支える思考」と呼んだものだ。愛か不安かのどちらかだ。


思考の背後にある思考だ!


それは最初の思考だ。最初の力だ。それは人間の経験のエンジンを駆動する、生のエネルギーだ。


そして、人間はどうして同じ経験を繰り返すかが、これで分かる。


それが、人間が愛し、破壊し、再び愛する理由だ。


常に、ある感情から別の感情に揺れ動く。


愛は不安を支え、不安は愛を支え、愛は不安を支える……。


……そしてその理由は最初の誤りにある。あなたが神について真実だと思っている誤りだ。


それらは、神は信頼できない、神の愛は頼りにならない、神は条件付きであなたを受け入れる、究極の結果は疑わしい、という誤りだ。


あなたが、いつもそこにいる神の愛に頼ることができないなら、誰の愛を頼れるのだろうか?


あなたが正しく行動しないと、神が手を引いてしまうというなら、単なる人間なら、なおさらのことではないか?


...だから、あなたがたは最高の愛を約束した瞬間に、最大の不安を感じる。


あなたが「私はあなたを愛している」と言った後に最初に心配することは、相手もそう言うかどうかだ。


そしてそう言うのを聞いたら、すぐに、あなたは今見つけた愛を失うのではないかと、心配し始める。


そしてすべての行動が、失うことに対する防衛反応になる。


神を失うことに対しても自分を守ろうとする。


P16

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"Conversations with God" Book 1:Chapter 1-1:P7-16

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《Notice》

The words of God on the conversation are expressed by lowering the sentence head.

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P7


(1)


Chapter 1


In the spring of 1992—it was around Easter as I recall—an extraordinary phenomenon occurred in my life. God began talking with you. Through me.


Let me explain.


I was very unhappy during that period, personally, professionally, and emotionally, and my life was feeling like a failure on all levels. As I’d been in the habit for years of writing my thoughts down in letters (which I usually never delivered), I picked up my trusty yellow legal pad and began pouring out my feelings.


This time, rather than another letter to another person I imagined to be victimizing me, I thought I’d go straight to the source; straight to the greatest victimizer of them all. I decided to write a letter to God.


It was a spiteful, passionate letter, full of confusions, contortions, and condemnations. And a pile of angry questions. Why wasn’t my life working? What would it take to get it to work?

Why could I not find happiness in relationships? Was the experience of adequate money going to elude me forever? Finally —and most emphatically—What had I done to deserve a life of such continuing struggle?


To my surprise, as I scribbled out the last of my bitter, unanswerable questions and prepared to toss my pen aside, my hand remained poised over the paper, as if held there by some invisible force. Abruptly, the pen began moving on its own. I had no idea what I was about to write, but an idea seemed to be coming, so I decided to flow with it. Out came…


   Do you really want an answer to all these questions, or are you just venting?


I blinked…and then my mind came up with a reply. I wrote that down, too.


Both. I’m venting, sure, but if these questions have answers, I’d sure as hell like to hear them!


   You are “sure as hell”…about a lot of things. But wouldn’t it be nice to be “sure as Heaven”?


And I wrote:


What is that supposed to mean?


Before I knew it, I had begun a conversation…and I was not writing so much as taking dictation.


That dictation went on for three years, and at the time, I had no idea where it was going. The answers to the questions I was putting on paper never came to me until the question was completely written and I’d put my own thoughts away. Often the answers came faster than I could write, and I found myself scribbling to keep up. When I became confused, or lost the feeling that the words were coming from somewhere else, I put the pen down and walked


P7

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P8


away from the dialogue until I again felt inspired —sorry, that’s the only word which truly fits —to return to the yellow legal pad and start transcribing again.


These conversations are still going on as I write this. And much of it is found on the pages which follow pages which contain an astounding dialogue which at first I disbelieved, then assumed to be of personal value, but which I now understand was meant for more than just me. It was meant for you and everyone else who has come to this material. For my questions are your questions.


I want you to get into this dialogue as soon as you can, because what's really important here is not my story, but yours. It is your life story which brought you here. It is your personal experience to which this material has relevance. Otherwise you would not be here, with it, right now.


So let’s enter the dialogue with a question I had been asking for a very long time: How does God talk, and to whom? When I asked this question, here’s the answer I received:


   I talk to everyone. All the time. The question is not to whom do I talk, but who listens?


Intrigued, I asked God to expand on this subject. Here’s what God said:


   First, let’s exchange the word talk with the word communicate. It’s a much better word, a much fuller more accurate one. When we try to speak to each other?Me to you, you to Me, we are immediately constricted by the unbelievable limitation of words. For this reason, I do not communicate by words alone. In fact, rarely do I do so. My most common form of communication is through feeling.


   Feeling is the language of the soul.


   If you want to know what’s true for you about something, look to how you’re feeling about it.


   Feelings are sometimes difficult to discover—and often even more difficult to acknowledge. Yet hidden in your deepest feelings is your highest truth.


   The trick is to get to those feelings. I will show you how. Again. If you wish.


I told God that I did wish, but that right now I wished even more for a complete and full answer to my first question. Here’s what God said:


   I also communicate with thought. Thought and feelings are not the same, although they can occur at the same time. In communicating with thought, I often use images and pictures. For this reason, thoughts are more effective than mere words as tools of communication.


   In addition to feelings and thoughts, I also use the vehicle of experience as a grand communicator.


   And finally, when feelings and thoughts and experience all fail, I use words. Words are really the least effective communicator. They are most open to misinterpretation, most often misunderstood.


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   And why is that? It is because of what words are. Words are merely utterances: noises that stand for feelings, thoughts, and experience. They are symbols. Signs.

Insignias. They are not Truth. They are not the real thing.


   Words may help you understand something. Experience allows you to know. Yet there are some things you cannot experience. So I have given you other tools of

knowing. And these are called feelings. And so too, thoughts.


   Now the supreme irony here is that you have all placed so much importance on the Word of God, and so little on the experience. In fact, you place so little value on experience that when what you experience of God differs from what you’ve heard of God, you automatically discard the experience and own the words, when it should be just the other way around.


   Your experience and your feelings about a thing represent what you factually and intuitively know about that thing. Words can only seek to symbolize what you know, and can often confuse what you know.


   These, then, are the tools with which I communicate, yet they are not the methods, for not all feelings, not all thoughts, not all experience, and not all words are from Me.


   Many words have been uttered by others, in My name. Many thoughts and many feelings have been sponsored by causes not of My direct creation. Many

experiences result from these.


   The challenge is one of discernment. The difficulty is knowing the difference

between messages from God and data from other sources. Discrimination is a

simple matter with the application of a basic rule:


   Mine is always your Highest Thought, your Clearest Word, your Grandest Feeling. Anything less is from another source.


   Now the task of differentiation becomes easy, for it should not be difficult even for the beginning student to identify the Highest, the Clearest, and the Grandest.


   Yet will I give you these guidelines:


   The Highest Thought is always that thought which contains joy. The Clearest Words are those words which contain truth. The Grandest Feeling is that feeling which you call love.


   Joy, truth, love.


   These three are interchangeable, and one always leads to the other. It matters not in which order they are placed.


   Having with these guidelines determined which messages are Mine and which have come from another source, the only question remaining is whether My messages will be heeded.


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《Notice》

From this page, the words of Neale on the conversation are expressed by attaching "N:" to the beginning of the sentence.

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Most of My messages are not. Some, because they seem too good to be true.

Others, because they seem too difficult to follow. Many, because they are simply

misunderstood. Most, because they are not received.


My most powerful messenger is experience, and even this you ignore. Especially

this you ignore.


Your world would not be in its present condition were you to have simply listened to

your experience. The result of your not listening to your experience is that you keep

re-living it, over and over again. For My purpose will not be thwarted, nor My will be ignored. You will get the message. Sooner or later. I will not force you to, however. I will never coerce you. For I have given you a free will—the power to do as you

choose—and I will never take that away from you, ever.


And so I will continue sending you the same messages over and over again,

throughout the millennia and to whatever corner of the universe you occupy.

Endlessly will I send you My messages, until you have received them and held them

close, calling them your own.


My messages will come in a hundred forms, at a thousand moments, across a

million years. You cannot miss them if you truly listen. You cannot ignore them once

truly heard. Thus will our communication begin in earnest. For in the past you have

only talked to Me, praying to Me, interceding with Me, beseeching Me. Yet now can I

talk back to you, even as I am doing here.


N: How can I know this communication is from God? How do I know this is not my own imagination?


What would be the difference? Do you not see that I could just as easily work

through your imagination as anything else? I will bring you the exact right thoughts,

words or feelings, at any given moment, suited precisely to the purpose at hand,

using one device, or several.


You will know these words are from Me because you, of your own accord, have

never spoken so clearly. Had you already spoken so clearly on these questions, you

would not be asking them.


To whom does God communicate? Are there special people? Are there special times?


All people are special, and all moments are golden. There is no person and there is

no time one more special than another. Many people choose to believe that God

communicates in special ways and only with special people. This removes the mass

of the people from responsibility for hearing My message, much less receiving it

(which is another matter), and allows them to take someone else’s word for

everything. You don’t have to listen to Me, for you’ve already decided that others

have heard from Me on every subject, and you have them to listen to.


By listening to what other people think they heard Me say, you don’t have to think at all.


This is the biggest reason for most people turning from My messages on a personal

level. If you acknowledge that you are receiving My messages directly, then you are

responsible for interpreting them. It is far safer and much easier to accept the


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interpretation of others (even others who have lived 2,000 years ago) than seek to

interpret the message you may very well be receiving in this moment now.


Yet I invite you to a new form of communication with God. A two-way

communication. In truth, it is you who have invited Me. For I have come to you, in

this form, right now, in answer to your call.


N: Why do some people, take Christ, for example, seem to hear more of Your communication than others?


Because some people are willing to actually listen. They are willing to hear, and they are willing to remain open to the communication even when it seems scary, or crazy, or downright wrong.


N: We should listen to God even when what’s being said seems wrong?


Especially when it seems wrong. If you think you are right about everything, who

needs to talk with God?


Go ahead and act on all that you know. But notice that you’ve all been doing that

since time began. And look at what shape the world is in. Clearly, you’ve missed

something. Obviously, there is something you don’t understand. That which you do

understand must seem right to you, because “right” is a term you use to designate

something with which you agree. What you’ve missed will, therefore, appear at first

to be “wrong.”


The only way to move forward on this is to ask yourself, “What would happen if

everything I thought was ‘wrong’ was actually ‘right’?” Every great scientist knows about this. When what a scientist does is not working, a scientist sets aside all of the assumptions and starts over. All great discoveries have been made from a

willingness, and ability, to not be right. And that’s what’s needed here.


You cannot know God until you’ve stopped telling yourself that you already know

God. You cannot hear God until you stop thinking that you’ve already heard God.


I cannot tell you My Truth until you stop telling Me yours.


N: But my truth about God comes from You.


Who said so?


N: Others.


What others?


N: Leaders. Ministers. Rabbis. Priests. Books. The Bible, for heaven’s sake!


Those are not authoritative sources.


N: They aren’t?


No.


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N: Then what is?


Listen to your feelings. Listen to your Highest Thoughts. Listen to your experience.

Whenever any one of these differ from what you’ve been told by your teachers, or

read in your books, forget the words. Words are the least reliable purveyor of Truth.


N: There is so much I want to say to You, so much I want to ask. I don’t know where to begin.


N: For instance, why is it that You do not reveal Yourself? If there really is a God, and You are It, why do You not reveal Yourself in a way we can all understand?


I have done so, over and over. I am doing so again right now.


N: No. I mean by a method of revelation that is incontrovertible; that cannot be denied.


Such as?


N: Such as appearing right now before my eyes.


I am doing so right now.


N: Where?


Everywhere you look.


N: No, I mean in an incontrovertible way. In a way no man could deny.


What way would that be? In what form or shape would you have Me appear?


N: In the form or shape that you actually have.


That would be impossible, for I have no form or shape you understand. I could adopt

a form or shape that you could understand, but then everyone would assume that

what they have seen is the one and only form and shape of God, rather than a form

or shape of God—one of many.


People believe I am what they see Me as, rather than what they do not see. But I

am the Great Unseen, not what I cause Myself to be in any particular moment. In a

sense, I am what I am not. It is from the am-notness that I come, and to it I always

return.


Yet when I come in one particular form or another—a form in which I think people

can understand Me—people assign Me that form forevermore. And should I come in

any other form, to any other people, the first say I did not appear to the second,

because I did not look to the second as I did to the first, nor say the same things—

so how could it have been Me? You see, then, it matters not in what form or in what

manner I reveal Myself—whatever manner I choose and whatever form I take, none

will be incontrovertible.


N: But if You did something that would evidence the truth of who You are beyond doubt or question…


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…there are still those who would say, it is of the devil, or simply someone’s

imagination. Or any cause other than Me.


If I revealed myself as God Almighty, King of Heaven and Earth, and moved

mountains to prove it, there are those who would say, “It must have been Satan.”


And such is as it should be. For God does not reveal Godself to Godself from or

through outward observation, but through inward experience. And when inward

experience has revealed Godself, outward observation is not necessary. And if

outward observation is necessary, inward experience is not possible.


If, then, revelation is requested, it cannot be had, for the act of asking is a statement that it is not there; that nothing of God is now being revealed. Such a statement

produces the experience. For your thought about something is creative, and your

word is productive, and your thought and your word together are magnificently

effective in giving birth to your reality. Therefore shall you experience that God is not now revealed, for if God were, you would not ask God to be.


N:  Does that mean I cannot ask for anything I want? Are You saying that praying for something actually pushes it away from us?


This is a question which has been asked through the Ages—and has been

answered whenever it has been asked. Yet you have not heard the answer, or will

not believe it.


The question is answered again, in today’s terms, and today’s language, thusly:


You will not have that for which you ask, nor can you have anything you want. This

is because your very request is a statement of lack, and your saying you want a

thing only works to produce that precise experience— wanting—in your reality.


The correct prayer is therefore never a prayer of supplication, but a prayer of

gratitude.


When you thank God in advance for that which you choose to experience in your

reality, you, in effect, acknowledge that it is there… in effect. Thankfulness is thus

the most powerful statement to God; an affirmation that even before you ask, I have

answered.


Therefore never supplicate. Appreciate.


N: But what if I am grateful to God in advance for something, and it never shows up? That could lead to disillusionment and bitterness.


Gratitude cannot be used as a tool with which to manipulate God; a device with

which to fool the universe. You cannot lie to yourself. Your mind knows the truth of

your thoughts. If you are saying “Thank you, God, for such and such,” all the while being very clear that it isn’t there in your present reality, you can’t expect God to be less clear than you, and so produce it for you.


God knows what you know, and what you know is what appears as your reality.


N: But how then can I be truly grateful for something I know is not there?


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Faith. If you have but the faith of a mustard seed, you shall move mountains. You

come to know it is there because I said it is there; because I said that, even before

you ask, I shall have answered; because I said, and have said to you in every

conceivable way, through every teacher you can name, that whatsoever you shall

choose, choosing it in My Name, so shall it be.


N: Yet so many people say that their prayers have gone unanswered.


No prayer—and a prayer is nothing more than a fervent statement of what is so—

goes unanswered. Every prayer—every thought, every statement, every feeling—is

creative. To the degree that it is fervently held as truth, to that degree will it be made manifest in your experience.


When it is said that a prayer has not been answered, what has in actuality happened

is that the most fervently held thought, word, or feeling has become operative. Yet

what you must know—and here is the secret—is that always it is the thought behind

the thought—what might be called the Sponsoring Thought—that is the controlling

thought.


If, therefore, you beg and supplicate, there seems a much smaller chance that you

will experience what you think you are choosing, because the Sponsoring Thought

behind every supplication is that you do not have now what you wish. That

Sponsoring Thought becomes your reality.


The only Sponsoring Thought which could override this thought is the thought held

in faith that God will grant whatever is asked, without fail. Some people have such

faith, but very few.


The process of prayer becomes much easier when, rather than having to believe

that God will always say “yes” to every request, one understands intuitively, that the

request itself is not necessary. Then the prayer is a prayer of thanksgiving. It is not a

request at all but a statement of gratitude for what is so.


N: When you say that a prayer is a statement of what is so, are you saying that God does nothing; that everything which happens after a prayer is a result of the prayer’s action?


If you believe that God is some omnipotent being who hears all prayers, says “yes”

to some, “no” to others, and “maybe, but not now” to the rest, you are mistaken. By what rule of thumb would God decide?


If you believe that God is the creator and decider of all things in your life, you are

mistaken.


God is the observer, not the creator. And God stands ready to assist you in living

your life, but not in the way you might expect.


It is not God’s function to create, or uncreate, the circumstances or conditions of

your life. God created you, in the image and likeness of God. You have created the

rest, through the power God has given you. God created the process of life and life

itself as you know it. Yet God gave you free choice, to do with life as you will.


In this sense, your will for you is God’s will for you.


P14

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You are living your life the way you are living your life, and I have no preference in

the matter.


This is the grand illusion in which you have engaged: that God cares one way or the

other what you do.


I do not care what you do, and that is hard for you to hear. Yet do you care what

your children do when you send them out to play? Is it a matter of consequence to

you whether they play tag, or hide and seek, or pretend? No, it is not, because you

know they are perfectly safe. You have placed them in an environment which you

consider friendly and very okay.


Of course, you will always hope that they do not hurt themselves. And if they do, you will be right there to help them, heal them, allow them to feel safe again, to be happy again, to go and play again another day. But whether they choose hide and seek or pretend will not matter to you the next day, either.


You will tell them, of course, which games are dangerous to play. But you cannot

stop your children from doing dangerous things. Not always. Not forever. Not in

every moment from now until death. It is the wise parent who knows this. Yet the

parent never stops caring about the outcome. It is this dichotomy—not caring deeply

about the process, but caring deeply about the result—that comes close to

describing the dichotomy of God.


Yet God, in a sense, does not even care about the outcome. Not the ultimate

outcome. This is because the ultimate outcome is assured. And this is the second

great illusion of man: that the outcome of life is in doubt.


It is this doubt about ultimate outcome that has created your greatest enemy, which

is fear. For if you doubt outcome, then you must doubt Creator —you must doubt

God. And if you doubt God, you must live in fear and guilt all your life.


If you doubt God’s intentions—and God’s ability to produce this ultimate result—then how can you ever relax? How can you ever truly find peace? Yet God has full power to match intentions with results. You cannot and will not believe in this (even though you claim that God is all-powerful), and so you have to create in your imagination a power equal to God, in order that you may find a way for God’s will to be thwarted.

And so you have created in your mythology the being you call “devil.” You have even imagined a God at war with this being (thinking that God solves problems the way you do). Finally, you have actually imagined that God could lose this war. All of this violates everything you say you know about God, but this doesn’t matter. You live your illusion, and thus feel your fear, all out of your decision to doubt God.


But what if you made a new decision? What then would be the result? I tell you this: you would live as the Buddha did. As Jesus did. As did every saint you have ever idolized.


Yet, as with most of those saints, people would not understand you. And when you

tried to explain your sense of peace, your joy in life, your inner ecstasy, they would

listen to your words, but not hear them. They would try to repeat your words, but

would add to them.


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They would wonder how you could have what they cannot find. And then they would grow jealous. Soon jealousy would turn to rage, and in their anger they would try to convince you that it is you who do not understand God.


And if they were unsuccessful at tearing you from your joy, they would seek to harm

you, so enormous would be their rage. And when you told them it does not matter,

that even death cannot interrupt your joy, nor change your truth, they would surely

kill you. Then, when they saw the peace with which you accepted death, they would

call you saint, and love you again.


For it is the nature of people to love, then destroy, then love again that which they

value most.


N:  But why? Why do we do that?


All human actions are motivated at their deepest level by one of two emotions—fear

or love. In truth there are only two emotions—only two words in the language of the

soul. These are the opposite ends of the great polarity which I created when I

produced the universe, and your world, as you know it today.


These are the two points—the Alpha and the Omega—which allow the system you

call “relativity” to be. Without these two points, without these two ideas about things, no other idea could exist.


Every human thought, and every human action, is based in either love or fear. There

is no other human motivation, and all other ideas are but derivatives of these two.

They are simply different versions—different twists on the same theme.


Think on this deeply and you will see that it is true. This is what I have called the

Sponsoring Thought. It is either a thought of love or fear. This is the thought behind

the thought behind the thought. It is the first thought. It is prime force. It is the raw

energy that drives the engine of human experience.


And here is how human behavior produces repeat experience after repeat

experience; it is why humans love, then destroy, then love again: always there is the

swing from one emotion to the other. Love sponsors fear sponsors love sponsors

fear…


… And the reason is found in the first lie—the lie which you hold as the truth about

God—that God cannot be trusted; that God’s love cannot be depended upon; that

God’s acceptance of you is conditional; that the ultimate outcome is thus in doubt.

For if you cannot depend on God’s love to always be there, on whose love can you

depend? If God retreats and withdraws when you do not perform properly, will not

mere mortals also?


… And so it is that in the moment you pledge your highest love, you greet your

greatest fear.


For the first thing you worry about after saying “I love you” is whether you’ll hear it back. And if you hear it back, then you begin immediately to worry that the love you have just found, you will lose. And so all action becomes a reaction—defense against loss—even as you seek to defend yourself against the loss of God.


P16

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