all in all, it's not so bad

僕らは、パスタを食べると店を出た。彼女の予想通り、パスタはなかなか美味しかった。ムール貝と手長エビが入っていて、その味がトマトベースのソースによく溶け込んでいた。

 どちらが先導するでもなく、ビーチを歩いて帰路につく。やはり人はいなくて、畳んであるビーチパラソルがオブジェみたいに置いてあるだけだ。墓標と言い換えていてもいい。昼間の思い出を毎夜弔っているのだ。街の光で今日も入江が照らされていて、まるでスポットライトを浴びた舞台のようだ。遠くに船の灯りが見えた。この時間に漁だろうか。ナイトクルーズかもしれない。薄くかかった雲に、いくつかの濃密な陰が浮かんで消えたような気がした。それは僕に何かを訴えかけていた。

 陰に眼をこらしても、僕には実体を把握できない。それは、僕が掴み損ねた何かだった。ふとした拍子に現れては懐疑的な気分にさせる。本当に、これで良かったのかと。これが最善だったのかと。残念ながら歳を重ねるごとに陰は濃くなる一方だった。

 「ここの砂はさらさらだね」僕は足下に眼を向けた。

 「きな粉みたいでしょ?」彼女は自然に僕の右手を握った。とても冷たい手だった。それでも、心のささくれだった部分が平坦にならされていくのがわかった。

 「一人では、できないこと」

 「そうだね。一人ではできない」

 身体が触れあう。体温を分け合う。お互いの熱が混ざり合って均等を探す。これも快楽の一種だ。知ってしまえば、また求める。忘れるまで、求め続ける。

 「月が見えない」僕は言った。

 「変わらないですよ、日本と月も星も」

 彼女は残った右手で遠くの崖を指さした。「あっちはお金持ちがたくさん住んでいる地域です。もう凄いですよ。毎日パーティーして」

「やっぱり、それも欧米の人なのかな?」

「プーケットってヨーロッパ人が開拓した島なんです。だから、欧米っていうよりは、欧州の人が多いですね。あっちの人って数ヶ月休みを取るから、お金持ちは豪邸を。庶民はコンドミニアムなんかを借り切ったりして暮らすんです」

 始めて、この海を見たヨーロッパの人は何を思っただろう。この大きな島は緑と青で埋め尽くされていたのだ。少しずつ切り開いて、自分達のいるスペースを確保した。それを見ていたタイ人はどう思っただろう。それでも、ここは俺たちの海であり、山であり、島だと胸を張って言うことができるのだろうか。比類無きものだと。

 未知なる世界を目の前して、心が躍らない人はいない。どこにでもいけるし、どこまでもいける。そして、どこに留まるのも自由だ。でも、僕はどこにもいけない。それを僕は生きて行く中で学んだのだ。諦めたのかもしれない。

 

 遠くで、粒子状の光が空に上がっていくのが見えた。

 「あれはなに?」僕は訊いた。

 「あれは、コムローイです。紙で作った灯籠のような箱を飛ばす。中に火を入れて。気球と同じような原理で空に昇っていくんです」

 「綺麗だ」

 「一つ、一つに願い事をするんです」

 「燃料が切れたら、落ちていくのかな」願いも祈りも夢も恋愛も燃料が切れれば落ちていく。根本の想いが無くなれば落ちていく。無くなった後は、もうそれが何だったのか思い出せない。大きな溜まりに溶けていく。

 「落ちないです」彼女は足を止めて、もう一方の手も掴んだ。僕らは向かい合う形になる。下から僕の手を優しく握り、支える。「落ちないですよ。ずっとずっと上がっていくんです」そう断言した。

 彼女の瞳を見つめる。熱を浴びた黒糖のように艶っぽく瞬いていた。風が頬を撫でて髪がばらけた。桃のような甘い香りがした。彼女の輪郭を揺らすのは、その匂いだろうか、それとも僕の中で濃度を増したアルコールだろうか。

 「落ちない?」つまりは、無くなりはしないのかと。問う。

 「落ちないです。どこかに辿り着くんです。空をつたって」

 しばらく、僕らは立ち止まり、お互いを見つめていた。彼女の眼には僕が写っていた。僕の眼にはしっかり彼女が写っているだろうか。何故か、怖くなって片手を離す。彼女は少し目を細めた。



 気がつけば、空へ昇る光は数を増やしていた。何十、何百と蛍のように瞬いていった。あの下には何百もの人がいて、想いを込めて空に灯籠を捧げているのだろう。地球と似た人類が生きていける星を探しにいく宇宙船の一群のようにも見える。希望の気配がする。

 「明後日から、お祭りが始まるんですよ。タイの正月です」


 空を割っていく幾重ものぼんやりとした光。天空と地上を繋ぐ滝となる。

 「あれは、前祝いのようなものですね」彼女は笑う。夜の静けさが良く似合う表情だ。


 僕は想う。

 

夜の帳の下、消えていく願いに対して。

 すべての願いが叶うわけではない。すべての出来事が記憶に残るわけではない。あの半島の灯りがいつか消えるように、何もかも無くなってしまう時がくるだろう。大切なものほど僕の手からすり抜けてしまうのだ。注意深く確かめながら握り直して、けして離すことのないようにしつこいほどに引き寄せ、たぐり寄せ続けなくてはならないのだ。時の流れに負けないように。移ろいに晒されないように。それ以上の想いと力で。

 

 


 「また、会えるかな?」僕は彼女に訊いた。

 「会えますよ。私はずっとここにいますから」何の躊躇いもなく繋いだ手を離して彼女は言う。きっと、僕は困ったような顔を浮かべていただろう。指先の感触を惜しむ気持ちは僕の方が大きかった。


 僕らはホテルが管理しているプライベートビーチの手前で別れた。従業員の宿泊施設はホテルから少し離れたところにあると彼女は説明した。「明日、午後から出勤なんですけどホテルのロビーまで見送りにいきますね」そんな事を言っていた彼女はチェックアウトの朝に姿を見せなかった。特に落胆することもなく、僕はそれを受け入れた。何故かそんな気がしたのだ。


 辛いフライトを終えて、日本に戻るとすぐに実家に帰った。犬は、生きていたし意識もあった。

 「蘇ったのよ」と母は大げさに表現した。

 去り際に一つ彼女が言っていた言葉を僕は思いだした。

 「木元さんのわんちゃん。大丈夫ですよ。絶対に大丈夫です」根拠のない事を言う子だとそれまでの会話でわかっていたので、僕は何も反論せずに頷いた。希望を信じる子だった。彼女の言う通りだった。

 「あんた。いくら電話しても出なかったじゃない。いったいタイのどこにいたのよ」母は責める口調で僕に言った。

 「いや、電話は繋がるようにしてたし、こっちも連絡してたけど、母さんにも兄貴にも繋がらなかったよ」

 そんなはずはないと母は携帯の発信履歴を見せてきた。僕も携帯電話を取りだしたけど、発信履歴には何も残っていなかった。着信履歴には母と兄貴の番号が並んでいた。


 プーケット島に行ってから、一ヶ月が経とうとしている。犬は元気を少しだけ取り戻して軽い散歩にいけるくらいになった。僕は三日と空けずに会いに行くようにしている。僕の生活は順調に歪んだままだ。どうしようもなく。どうなりようもなく。

 

彼女に対してホテル宛に近況を綴って手紙を送ったけど返事はなかった。

 フロントに問い合わせるとそんな従業員はいませんと丁寧に説明された。ただ、副支配人の娘が同じ名前だが、9年前のスマトラ沖地震で起こった津波で行方不明だとのことだった。それ以上、確かめようとせずに電話を切った。

 

 僕はときどき、あの夜ことを思い出す。

 どこまでが現実でどこまでが彼女の世界の出来事だったのかと。

 レストランと音楽

 食べた食事に会話

 夜の砂浜と彼女の冷たい手


 空に昇っていく灯籠。

 その下に今も彼女はいるのだろう。

 一つ一つの願いが辿り着くのを見守るように。

 ずっとそこにいるのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コムローイ @kamonohashinoopo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る