He is not so black as he is painted
ホテルの中ではなく僕らは、ビーチ沿いのマクドナルドの前で待ち合わせをした。宿泊客と、プライベートで会うのがあからさまにわかると、彼女の勤務評価に悪い影響が出るような気がしたからだ。
外に出ているベンチに座りながら、僕は人を眺めて、椰子の木を眺めて、その先にあるビーチパラソルを眺めて、そして海を眺めていた。知らない人の事をこれから知っていくという妙な高揚感と、それが若い女性だという事実が混ざりあって変な気分だった。あまり、今までにないことだ。いや、まったくなかったことだ。相変わらず、母と兄からの連絡はなかった。それでも、幾分気分はマシになっていた。
「お待たせしました」
ゆっくりと歩いてきた彼女は、髪をほどいていた。頭のてっぺんで分けた髪を両肩まで垂らしている。ざっくりとしたロングスカートと編み込みのストラップのついたサンダル。上は水色のカットソーだった。改めて、挨拶をして僕らは食事に行くことにした。彼女は片山美菜と名乗った。僕は僕の平凡な名前(木元拓という)を名乗った。北側の海岸線沿いにお勧めのレストランがあるとのことなので、そこまで歩くことにした。
露店に座っているタイ人が冷やかしの声を僕らに投げかけた。何故か、そこには「アジノモト―」だとか「ナカータ」だとか「アイシテル―」の聞き取れるけど意味のわからない言葉が並んだ。
「とりあえず、覚えている日本語を全部言っているのかな」
「そうみたいです。ナカータはサッカー選手だし、アジノモトはこっちで売っているし、愛しているは…なんでしょうかね」彼女は惚けるように笑った。頬はほんのり赤くなっている。薄皮一枚向いたように、素の部分が少しだけ見える笑い方だった。
レストランは海岸から数メートルの見晴らしのいい高級ホテルの中にあった。ステージ上では生バンドをバックに大柄の白人女性が古いジャズの名曲をアレンジして歌っていた。ほんのりと身体の芯が暖かくなるような歌声だった。自己主張が少なく、会話の足りない部分をそっと伴奏してくれるような優しさがあった。店の中央にはエビ、カニ、貝類のシーフードが氷りに囲まれた状態で飾られていた。客が調理方法と素材を指定して注文するシステムのようだった。観光客とウェイターが食材を指さしながら楽し気に会話をしていた。
彼女は出入り口にいるタイ人に「ここのお店は美味しいですか?」と悪びれなく質問していた。不味いという人はいないと思うけど…と僕は思った。
「なんでも美味しいって」と僕に言う。「じゃあ、ここにしようか」と彼女に答えた。眼を合わせてくすくす笑う。定型文をわざとなぞっていく。
「最初からここに来るつもりだったくせに」言葉に出さないアイコンタクトでの会話。気安い雰囲気が心を軽くする。
蝶ネクタイをした品のあるウエイターがテーブルに案内してくれた。パラソルのついた机に僕らは座る。僕はいつも通りビールを、彼女はスイカのカクテルを注文した。
「ありがとう。でも、実はもう犬について話せることはないんだ。どんな性格をしてて、どんな容姿をしていて、どんなエピソードがあって、そんなことならいくらでも話せるけど、そういうことじゃない気もするし」
彼女は、首を傾げてカクテルを少し飲んだ。
「いいんです。何の話をしてもいいんです」ストローを軽く指で弾いた。グラスの縁をストローが動いて止まる「私、凄く嫌いな言葉があって、それは自粛って言葉です。例えば、大切な人を亡くすとか、或いは大きな災害があって人がたくさん亡くなったとしますよね?」
僕は頷いた。或いは、犬を亡くす。と思った。
「人は、すぐに自粛自粛っていって楽しいことや、嬉しいことを遠ざけようとするんです。それだけならまだしも、他人が楽しいことや嬉しいことをしようとすると、不謹慎だって責めたりするんですよ。それって馬鹿らしいと思いませんか?」
彼女はあくまでも穏やかな口調でそう言った。
「例えば、レジャーに出かけたり、飲みに行ったり、今の季節なら…日本であれば花見をしたりそういうこと」そう訊くと彼女はゆっくり頷いた。
「悲しむべき当事者が、喪失に対して何らかの折り合いをつける為に自粛する。これなら意味があるんですけど、形式的な自粛になんの意味があるか良くわからないんです。亡くなった人や動物って、自分がいない後に大切な人が悲しみに暮れる姿を見たいと思うでしょうか。絶対に楽しく笑ってくれてた方が嬉しいと思うですよ」
彼女の主張をもっともだった。悲しみが心を支配する期間は人それぞれである。でも、それは短ければ短いほど良い。その後は心のアンテナがそちらに向いた時だけ悲しめばいい。
「うん。僕もそう思うよ。本当にそう思う」
でも、彼女のその理屈は大多数の人を前にした時に通じるだろうか。自分の頭で物事を考えようとしない連中は、彼女を非難するように思える。状況に抗うわけでもなく、自主性も持たない、誰かの主義思想に沿って、責任を持たずに残酷なことをする人間がまともな顔をして街中を歩いてる。それは、僕が社会人を数年経験してわかったことだった。彼女はまだ若くて、それを知らないのかもしれない。もしくはそんな人たちに負けないくらい強いのかもしれない。
「だから、今日は何も考えずに話せばいいんです。気にしなければいけないのは自分の携帯電話が着信だけ、いまはそれだけでいい。違いますか?」
「うん。じゃあ何の話をしよう」
「その前に料理を注文しませんか?」
「そうだね。忘れてた」
「真面目な顔をして惚けているんですね」口に手を当てて笑う彼女はメニューを開いてお腹ペコペコですと言った。
ビールを一口、また一口と飲む。その度に世界は僕の頭の上でぐるりと一周する。いつもより、アルコールが速く回るなと僕は想った。彼女の顔をもう一度見る。視線はメニューに向かっている。まつげが長い。唇は薄いピンクで今は一文字に結ばれている。音楽は、愛の言葉を残して消えていく。風が代わりに潮騒の音が遠くから運んでくる。不思議と塩の匂いは感じない。僕は、ビールを飲み。彼女は食事を吟味している。春雨のサラダとエビの炒め物、ローストチキンとパスタを頼んだ。
タイのパスタはろくな物ではないけど、ここのは美味しいと思う。と写真付きのメニューを僕に広げて指さした。僕は微笑んで頷いた。
ステージでは大柄な白人女性歌手が去り、ファンクが流れ始めた。彼女はこの音楽を知っているようだった。「オルガンがベースラインを引くんです」そう嬉しそうに言った。バンドの名前を尋ねるとよく知った野菜の名前が返ってきて笑う。
僕らは、パーソナルデータをいくつも交換した。
彼女の年齢は二十四歳だった。血液型はO型。北陸の出身で地元の大学を卒業して、そのまま留学をした。働きながら語学を学べるところを探していたところ、今のホテルを紹介してもらったのだ。実家には両親と祖母が暮らしていて、弟が一人いる。一つ年下の恋人とは去年別れた。
「恋人と長続きしない」と彼女は言った。「わたし、凄く記憶力がいいんです。だから、物の貸し借りからお金の貸し借り、または労力の貸し借りまで全部覚えているんです。友達くらいだったら良いんですけど、恋人くらい近い関係になると駄目なんです。付き合うと男の人って女性に甘えてくるでしょ?でもけっこう甘えさせてはくれないですね。物もお金も所有権が凄く曖昧になってきて、それで結局は嫌になってしまうんです。好きなんですけど、ちゃんと好きなんですけど、許せないんです。なにかをもらったら、返すのが当たり前だし、お礼を言うのが当たり前だし、何かを挙げたら、やっぱり少しは返ってくることを期待しちゃうし。そんな自分が凄く嫌なんですけど、でもしょうがないんです」
僕は、視線を顔の角度で聞いてることを示しながら春雨サラダを口に運んでいた。ナンプラーの塩気と不思議な甘みがした。最後に辛味が残る。まだ、彼女が話したりなそうだったので、次の言葉を待った。
「これって、なんでなのかなぁ。って考えてみたんですけど、わたし今のお父さんって本当のお父さんじゃなくて、母が再婚してお父さんになった人なんです。だから、どうしても養われてる感覚が消えなくて、本当に良いお父さんなんですけど、でもいつかもらったすべて返さなくてはいけないって小さな頃から思ってたんですよ。だから、もらった物も渡した物も覚えていようって。いつか。いつか。すべて精算しようって思ったんです。これでも、大学の時は会計学を習ってたんです。本当に記憶力いいんですよ。簿記だって一級持ってますよ」
「それを彼氏にも求めてしまうんだ?」
「そうなんです」
「話を訊くと至極まっとうな事だと思うし、何も間違ったことをしているわけじゃないのにね」僕は五秒ほど沈黙してから続けた。「たぶん、与えられることに馴れてる人はそういう貸し借りの感覚が麻痺しているんだと思うよ。それは良いことでもあるし、悪いことでもある。与えても借りても忘れてしまうのだから。そして、君はそれが許せない」
「そうやって、ふわふわと生きていることが許せないんです。たぶん、人生ってそんなことではないと思うんですよ。自分に大切な人、大切なもの、大切な出来事をしっかり胸中に持っていないと容易く損なわれてしまう」彼女も春雨サラダフォークを乗っけて一気に口に放り込んだ。喋りながら、実に上手く食べるなぁと僕は感心していた。
「そういう人って、えっと、そのビールで言うと泡しか呑んでないんだと思うんです。でも、ビールの本当の美味しさって泡にはないでしょう。上辺だけで、人生における本当の苦楽がもたらす果実をいつまでも得ることなく生きていくんです」
「でも、ビールの泡が好きな人もいるし、泡しか呑んだことのない人はそれがビールだって思い込んでいるから教えることが必ずしも幸せには繋がらない」
「そう、私はただのお節介なんです」
確かに厄介な性格かもしれない。
でも、僕は思う。今まで僕が付き合った女性達はそんな決意と覚悟を持って僕の人生に介入しようとしたことがあっただろうかと。僕らは、出会い、お互いを恋人同士だと認め合って、一緒に愉快なことを探して出かけたり、身体を重ね合ったりした。
彼女達は優しかったし、僕も彼女達に優しくあろうとした。でも、彼女達が僕を変化させるような事はあっただろうか。考えてみたけど、何も浮かばなかった。思い出せる彼女達の顔は固定されていて表情がない。声はもはや思い出せないし、出会った場所も別れた時に交わしたはずの言葉はどこかへ消えてしまっていた。恐らくはそこには重大な約束があったはずだ。素晴らしい言葉があったはずだ。未来を左右するような暗示があったはずだ。それを僕はすでに失っている。
「応接室に座って、難しい顔をしている木元さんは重大な問題に立ち向かっているように思えたんです。だから、声をかけたんです。私は逃げない人が好きだし、逃げない人に優しくありたいし、逃げない人間になりたい」
僕はそんな良い人間じゃないよ。そう言うと。セロリを口に放り込んでから彼女は首を振った。
「むかし、日本の有名な俳優さんが薬物を一緒に摂取して中毒症状で苦しんでいる女性を見殺しにしてしまった事件がありましたよね」
「そんな事あったね。確か、意識不明の女性を置いて、その場から逃げてしまったって」
「もちろん、薬物を摂取することはとても悪いことだと思いますでも、それより悪いことがあって、それは逃げてしまったことだと思うんです。どんなことであれ、いつかはケジメをつけなくてはいけない時があって、その時にちゃんと向き合わないと、いざという時に逃げる人になってしまう。もっと言えばそういう人って逃げたという事実にさえ気づかない。なかった事にしてノウノウと残りの人生を生きていくんです」
「それも許せない?」
彼女は頷いた。「ちょっと、私は頭がおかしいです」
料理は、エビの炒め物とローストチキンに移っていた。僕はビールのおかわりを頼んだ。彼女はジンバックを頼んでいた。彼女は怒りながらローストチキンにナイフを入れて取り分けてくれた。話してくうちに興奮が増していくタイプみたいだった。僕はエビの炒め物を取り皿に移して、そっと彼女の方に寄せた。どちらの料理もニンニクの匂いがして食欲をかき立てる。
今度は僕の話をする番だった。自分の大して面白くもない人生の中で話せそうな事を選ぶ。
三十歳、独身、恋人はいない。去年五年間付き合った人と別れたばかり。父親は所在不明で、母は最近2回目の結婚して幸せそう。兄がいて、実家の近くで奥さんと子供二人と暮らしている。今は、海外から日本に健康食品を輸入する会社にいる。そのくせ今回が初めての海外で、飛行機が嫌い。
彼女はまず年齢で驚いた。けっこう僕は童顔なので、良くあることだった。
「仕事する上では、若く見られて何も良いこと無いよ」と自嘲気味に言うと「それ意外では良いことありまくりだからいいじゃないですか」と反論された。
姿形があまり変わらないのは、年月の洗礼を受けていないから。
人が経験するべき、何かをすっ飛ばして来たからのような気がしている。その後ろめたさがずっとある。
「お母さんはおいくつなんですか」
「五十七歳だったかな」僕は少し考えて言った。
「人はどの年齢でも、幸せになれるんですね」彼女は感嘆した。
― 人はいつ、どこで、どんな風に幸せになるかわからない
幸せは救われるに置き換えてもいい。僕も彼女と同じように思っていることだった。
母は、三十代で父と離婚した。その後はずっと週一回の休みで働きながら家事をこなしていた。本当はずっと休みたかったし、何かに寄っかかりたかったのだ。
僕も、兄もできるだけの協力や援助をしたけれど、結局は母は自らが持つもので(容姿、性格、要領の良さ、家事能力)で新しい幸せを手にした。
それは、とても素晴らしいことだと思う。
義理の父は、母より五つ年上だ。花火職人の親方をしていて、寡黙でどこまでも優しい人だった。
犬に会いにお邪魔をする度、食事をしながら「拓ちゃんさぁ、うちの部屋は空いているしわざわざ家賃払って別のところに住むことはないよ。うちに来ちゃいなよ」とべらぼうめ口調でさらりとあまり重くならないように気を使った声量で言ってくれる。
僕は遠慮しながら、いざとなれば帰れる場所があるのは嬉しいと感謝する。なかなか、後妻の連れ子にそんな大らかなことを言える人はいない。本当に凄いと思う。
「凄い人ですね。義理のお父さんもお母さんも」
「うん、まぁ上手くやって欲しいよね」なんだか、肉親の話は照れくさい。
「なんで、恋人とは別れてしまったんですか」
「なんでだろう。これといって理由がないんだ。上手く付き合ってたはずなのに、少しずつ会わなくなってっいったんだ。会わなくても平気になっていったと言えば良いのかも知れない」
何かを決断したのはきっと相手の方だ。僕の生活に恋人が合わせてくれていた。頻繁に家にきてご飯を作って泊まっていった。それが月に十日だったのが五日になり、三日になり…来なくなった。
その事に気づいたとき、僕は恋人に連絡するのを躊躇った。どう問いかけていいのかわからなかったのだ。
「きっと、いつからか関係を維持する努力を忘れてしまったんだ」
僕は、持っていたナイフとフォークを置いた。残りのビールを飲み干した。店員がすぐにやってきたので、モヒートを頼んだ。
彼女は何かを考えているようだった。すでに、チキンもエビの炒め物も皿にはなかった。店員に皿を下げるように呼び掛けた。
「昼間、雨が降ったでしょ」
「降ったみたいだね」
「タイの四月は雨期の始まりなんです。スコールが突然やってきてどこかへ抜けていくんです」
「もう、少し日程があればどこか案内するんですけど…ここから東へ行くとピピ島があって凄く綺麗なんですよ。ここよりも何倍も綺麗な海です。自動車で感慨沿いを行くとサイモンキャバレーっていう素敵な元男性達のショーもあります。案内したいところはたくさんあるんです」
「ありがとう」
恋愛の始まりは、今の彼女のように与えたい気持ちが大きくて。
あそこに連れてってあげたいだとか、あそこの料理を食べさせてあげたいだとか思うのに。なんで無くなってしまうんだろう。
「でも、僕は一人でも大丈夫みたいだ」
たまに、心が揺れてしまい、照準が定まらないことはあっても、修正し、一人で問題を解決して、解決しなかったとしても、何かしらの決着をつけて、得て、失って、生活していくのだろう。悲しいくらいにそうなのだろう。
モヒートが運ばれてくると、彼女のマンゴーカクテルに近づけた。彼女は黙って、コップを軽く合わせた。
僕の歪な人生に乾杯。そう心の中で呟いた。首を傾げた彼女は、眼を細めて笑う。その顔で充分だと思った。
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