That's not a bad idea
彼女と会ったのは五日目の夕暮れだった。
小さなモバイルパソコンを僕は持ってきたのだけど、五日目の朝に初めてホテルのロビーの隅にある応接室の回線を使ってインターネットに繋いだ。すると、母と兄から実家の犬の危篤と告げるメールが入っていた。
急いで連絡をしてみたが、母にも兄にも電話が繋がらない。一応、自分がタイにいること。そして、翌日の夜中には東京へ戻ることをメールで打って返事を待つことにした。一端は自室に帰ってみたものの、頭の中に悪い映像ばかりが思い浮かぶ。いてもたってもいられない気持ちになり、しかし日本に状況がわからないまま先に帰るわけにもいかずに僕はメールの返信を待つためホテルの応接室にいることになった。部屋の中には応接セットが二つとソファーが一つあった。部屋の色彩は焦げ茶がベースになっていて、差し色に黄緑色が使われている。空調も効いているし、防音もしっかりしていてホテルのプールで遊ぶ外国人の声も聞こえない。うっすらとハッカの匂いが香っていて、ゆっくりするには良い部屋だった。いまは牢獄だろうとホテルのスィートだろうと寛ぐことはできないけど。とにかく僕はソファーの隅に座ってパソコンをじっと眺めていた。
幾人が部屋に入り、出て行った。そのうちの何組かは、応接セットを使ってチェックインの説明を受けているようだった。アクティビティについて質問している声を僕の耳は拾った。また、何名かは水着にTシャツという格好で入ってきて備え付けのパソコンで何かを検索し遊びに出て行った。プールにかかった陰の面積が狭くなり太陽が中天にあることを連想させた。木蓮の花が光りを浴び初め存在を主張していた。
同じ会社の同僚が通り過ぎることもあったが、控えめに手を振るだけだった。僕も、おざなりに手を振った。夕暮れになると、少しの時間、雨が降った。大粒の雨が出窓を濡らした。
僕は返事を待ち続けた。時折、電話もしてみたが、やはり不通だった。
気がつけば、僕の前には冷たいお茶が置かれていた。フロントを見ると、忙しく動き回る数名のスタッフの前に立っている若い女の子が手だけで「どうぞ」と指し示す動きをした。僕は軽く頭を下げてお茶を口に運んだ。ジャスミンの香りが口に広がった。
「どこか、出かけないんですか?」
しばらくすると女の子は近づいてきてそう言った。僕は視界の隅にその姿を捉えながら反応を示すことができなかった。パソコンを膝に乗せて仏頂面しているだけだけで意識はぐるぐると意味のない回転を繰り返していた。つまり、混乱していた。女の子の声のトーンには休み時間に外に遊びに出かけない同級生をからかうような気安さがあった。でも、見上げて眼が合うとその笑顔はくすんでしまった。差し出すハンカチを受け取って気づいた。どうやら、僕は涙を流していたらしい。女の子の笑顔に答えるに相応しい明るい表情を作ろうと努力をしたけど叶わなかった。
「日本の方ですか?」僕は逆に質問を返した。
なんでもないと質問をはね除けることも、適当な嘘をつくこともできた。何故だか、わからないけど沈んだ僕の周波数はぴたりと目の前の女の子に合ってしまった。
「ええ。そうです。ここのホテルは副支配人が日本人である関係で常時一人は日本人スタッフがフロントにいるようにしているんですよ。チェックインの時に説明ありませんでしたか?」
「ああ、すいません。その時、たぶん具合悪くてあまり話を訊いてませんでした」
そうですか、次からちゃんと訊いてくださいね。とクスクスと彼女は笑った。僕が慌てたからだと思う。ようやく、善意に少しだけ報いることが出来た気がして僕はホッとした。
年の頃は二十代の半ばに見える。栗色の髪を後ろで一つに束ねていた。白い肌に黒目の大きな瞳が印象的だった。その黒は濁りがなくて、綺麗にカットされたオニキスのようだった。すべての光を永遠の中に吸い込んでいく。それと同じくらいすべての意識を相手に戻すようなつじつまの合わないものがそこには同居していた。
「いや…」少しの躊躇いの後「実は飼っている犬が死にかかってまして、その連絡を待っているんです」僕は正直に話し始めていた。
実家にいる犬は、大柄なゴールデンレトリバーで人なつっこい、寂しがりやな雄犬だ。僕が高校二年生の時から一緒に暮らしている。もう十三歳になる。大型犬の平均寿命が十歳くらいだから、長生きな方だ。同居している時は雨の日も風の日も一日二回の散歩は欠かせなかった。多感な時期に最も長い時間を供に過ごしたパートナーだった。
母の再婚を機に実家から出て一人暮らしを始めた僕は仕事の忙しさにかまけて、月日が経つにつれて会いに行く頻度が減った。足が悪くなってきたとか変な咳をするようになったとか、母から随時連絡はきていた。それでも、すぐにどうにかはならないだろうと思っていたのだ。そんな浅はかな自分を恥じた。
「今も恥じているんです」僕は言った。「たぶん、このまま犬が死んだら後悔すると思うですよ」
彼女は黙っていた。僕は、ふとなんでこんな事を行きずりの相手に話しているのだろうと可笑しく思った。
「ごめんなさい。こんな事を話して。たぶん、旅行先で日本語に飢えていたんだと思うんです。迷惑お掛けしました」
僕はモバイルパソコンを閉じると部屋に戻ろうとした。なんだか、急に恥ずかしくなったのだ。
「待ってください」彼女はそう言うと、そこにいるように僕を押しとどめた。
「もうすぐ、五時になります」彼女の言葉に僕は腕時計を見た。確かに文字盤の長針は五十の文字を過ぎるところだった。「そうなると、私の業務も終わります。少し食事に行きませんか?そしたら、もっとちゃんと話を聞けますので」
「でも、悪いですよ」
「いいんです。どうせ、職務が終わってもやることなんてないんです。それに…」彼女はにこやかに言った。「私も日本語に飢えてるんです」
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