第4話 松江までの一人旅で出会った髭の紳士

受験勉強の英語をラフカディオ・ハーンの『日本印象記*』一本で勉強した。松江の町の様子が書かれていた。受験前だったが、矢もたってもいられず冬の松江を訪れた。本に書かれている明治期の松江とは当然違うが、それでも何処か忍ばせるものがあって、僕は松江の町を気に入った。八雲の寓居跡を見、彼のつつましやかな生活を偲んだ。


その時に読みかけのドストエフスキーの文庫本『罪と罰・上下』を鞄に入れておいた。冬の列車は空いていた。山陰は雪景色であった。鳥取から僕の前に一人の紳士然とした背の高い男性が座った。紳士然とは、キッチンと三揃えを着ていたのと、当時としては珍しい口髭を生やしていたから僕はそう思ったのだ。年の頃は40ぐらい、彼はカバンから青表紙の本と眼鏡を取り出して読み出した。しばらくして、しきりに僕の方を見出した。


「面白いですか?」と僕に問いかけて来た。

「・・・・・・」どう答えていいか、僕。

彼は読みかけていた自分の本の表紙を見せました。青表紙の本の題名は『罪と罰』。僕は丁度ラスコリーニコフが老婆を殺し、ソーニャと出会う場面であった。

「やっと面白く感じられてきました。名前がややこしく、誰が誰だか分かり辛くって・・」と言うと、男性は「主だった人物名を簡単に書いたものをしおり代わりに使うといいですよ。僕は最初そうしました」と答えてくれました

「2度目ですか?」と、僕。

「3度目です」

「そんなに面白いですか、ラスコリーニコフは捕まるんですか?ソーニャとは結婚するのですか?」僕は、半ば探偵物、恋愛物的に考えていたのです。

「言ったら面白くないでしょう・・最後まで読まれたら必ず感動しますよ」

と言って、

「高校生・・?どこまで行くのですか?」と問いかけてきた。

ハーンの日本印象記を読んでの話をした。

「英語で読む、いいですね。ハーンの英語はいいですよ」と言って、夏目漱石が東京帝大の英語を教えることになって、ハーンは帝大の職を失ったことや、神戸の居留地で英字新聞「クロニクル」の記者をやっていた話など、僕の知らない話をしてくれた。男性は浜田まで乗るという。僕は松江で降りたが、振り返ると、汽車の窓からその男性が笑って手を振ってくれていた。

今から思うと中学校か、高校の教師ではなかったろうかと推測される。


松江から三保ヶ関に行く積りで船に乗った。皆が降りるので終点かと思って降りた。そこは中ノ海の真ん中にある大根島*というところであった。海は荒れていて次の船は出ないという。島の反対側に夏、海水浴時期に旅館をやっているとこなら泊めてくれるだろうと聞いて、島の中を横切る道を歩いた。おりからの雪で、島の名物朝鮮人参畑は一面の白い雪景色であった。


 泊めてもらえたのは、宴会にも使うのだろう、2階の大広間。海鳴りの音がして、あんまり広い部屋で一人寝るのは心細く、それを紛らわす意味でこの時に一気に『罪と罰』を読み終えた。朝方、ウトウトと眠りについた途端、家の女性が「船が出るさかい、この天候では後は出んじゃろー」と急かして、起こしに来た。朝食もとらず服を着て船に飛び乗ったが、布団の下に敷いていた財布を忘れて来たのに気がついた。往復切符もその中に入っている。三保ヶ関について、家には送って貰うように連絡は入れたが、船では取りにいけない。汽車には事情を話、家人に大阪駅に出迎えてもらい、なんとか帰れた。その時は大変な思いなのだが、失敗のある旅はまた、記憶に残るものである


また、入試の英語にハーンの文が出たのである。受験のその年は忘れられない年となった。そしてその髭の男性がハーンにも、ドストエフスキーにも重なってしまっている。その男性を習ったのではないが、『罪と罰』は三回読んだ。


*注釈

日本印象記:この中には『知られざる日本の面影』『焼津にて』『怪談』が収められていた。

大根島:今は橋があり陸続きとなっている。

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