プール/夜
夜が来た。暮れなずんだ後の黒い夜が。昏い世界を暗くする夜が。冥い魂を黒くする夜が。
プール再訪の途に就いた霊視者は三人。男、女、そして女。増えた一人は、まだ十代半ばの少女。もっとも年若い彼女こそが、この少数からなるボランティアチームの切札だった。
懐中電灯を手にした砂原と槇村の後ろを、水木は影のようについて歩く。うつむいて。おののいて。
歩行。霊が視える者たちの、霊がいる廃墟に向かっての。街灯はなく。空の月、手にした懐中電灯、携えた武器、闇に慣れた眼、鎮魂への意志。それだけが頼りだ。導きの光だ。群れなす夜を切り抜けるための。
「見えてきたな」
眠りそこねた蛇のようにうねりくねった、ウォータースライダーの影が、外からもうかがえる。昼も目にした荒みきった光景。禍々しさだけが、倍加している。
砂原は武器を入れたケースを肩に掛けなおし、槇村はスポーツバッグのストラップをぎゅっと握った。
プール入口の券売機。耳ざわりな音がする。だれかが機械を殴りつづけている。無意味で不毛な閉じた暴力。拳を振るう黒い影は、怒りを湛えてうめいていた。
「なんで……なんで、入れてくれない。俺は天国には入れないのか。地獄すらも……。どこでもいいんだ、入れてくれ。入るべき扉を教えてくれ。いつまで待てばいいんだ。門の外で、なぜ、俺は半端なままに、こんなにも……」
昼間の落ち着いた物腰は見るかげもない。全身が黒い影となり、男の霊からは表情が消失していた。
「いつかは入れる時が来るさ。たぶん、きっと、もしかしたら。だから、あせることはないよ。あせっていいことなんて、この世にはなにもない」
砂原は気の毒そうに慰めの言葉をかけた。影が振り返る。懐中電灯の光芒に照らされても、黒い影はその場に立ちつくしている。それは陰影ではなく、黒化した魂だからだ。
「……ああ、ああ……。あんたらは生きている。俺は死んでいる。なぜだ? 死ぬって、なんなんだ? どうすればいいんだ? 答えられるのか、お前らに……」
「残念だけど、答えられない。でも、お願いだから手出しはしないでくれ。手を出して来られたら、あんたを殺さなくちゃならなくなる」
「……いっそ、殺してくれ……。死んだはずなんだろ、俺は……」
影はその場に膝をついて、頭をかきむしった。
「残念だけど、俺たちは案内人じゃない。悪いな。いつかは光に迎えられる時が来るさ。たぶん、きっと、もしかしたら」
砂原は影を横切り、奥へと進む。
「夜は長く、痛むものですね。あなたに安らかな光がありますように」
槇村はせめてもの祈りを口にして、砂原に続く。
しんがりの水木は、何も言わない。黙したままだ。自らの内面にだけ眼を向けて、鋭利な研ぎ澄ましに没頭していた。
入口から入る。昼間と同じルートをたどるため、女子更衣室の方を選ぶ。下見した道から外れるのは、必要がないかぎり、避けた方がいい。
更衣室は、昼よりもなおうらぶれていた。ここはもう終わった場所だと、懐中電灯に照らされた埃のきらめきが、傷口をさらすように告げていた。
「あいかわらず、女の霊はなし、と」
「そんなに見たいの? 黒い影でも?」
「だから、期待なんかしてねーって。ただの確認だよ」
「どうだか」
三人はプールへと続く、細まった通り道へ進む。壁に取り付けられたシャワーヘッドから、なにかがぽたぽたと垂れている。砂原が懐中電灯を向ける。血のようだった。赤い染みが、床面に広がっている。
「芸のないこけおどしだな」
「傘、持ってきた方がよかったかな。濡れるだけならともかく、血に汚されるなんて、嫌だもの」
「あの鴉男が紳士であることを祈ろう」
「紳士は半妖化しないでしょ」
「怨霊にもエチケットぐらいあるさ」
砂原が試すようにシャワー下を通る。血の雨が降りそそいだりはしない。ぽたぽたと、リズムを崩さずにしたたっているだけだ。
槇村と水木もシャワーを通りすぎ、霊視者御一行の、巡礼にも似た夜の
音楽はなかった。ピアノの出迎えはなかった。
代わりにスピーカーから流れてきたのは、すすり泣きのようなうめきだ。
「……うっ、ううっ……ううう……うっうう……」
あちこちのスピーカーから、幼い声の、震えるようなうめきが聞こえてくる。痛みに耐えるような、理解を拒むような。
「…………」
砂原も槇村も、なにも言わない。水木はもちろん、一語も発さない。
霊視者たちは先へ進む。ライトはついていた。プール全体が薄く明るんでいた。ひょうたんのような形に外周が曲がりくねった、水の涸れた、流れるプール。そこにばらまかれたように、小さな黒い影が、おびただしくうずくまって、すすり泣いていた。
「うううううううううう……」
死に納得できず、死を受け入れられず、ただ、泣いていた。昼間の夏休みの風景は、煉獄の暗闇に変貌していた。スピーカーが、一人一人の嘆きを拾うように、闇に泣き声を響かせていた。
「…………」
黒い子どもたちの哀しみを、
それを言うなら、老幼を問わず、死は不条理だった。鎮魂の半面は、欺瞞でできている。ただ、大人の多くは嘘を内面化しているから、子どもに対してよりも、罪が軽くなる気がするだけだ。
霊視者たちは進む。階段をのぼり、売店の跡にたどり着く。もう、売られているものなどなにもない。それを必要とする者もいない。金銭も商品も、文明を営む生者にしか用はない。
昼間と同じように、鴉の顔をした霊は、ベンチに座って待っていた。
「やあ、うら若い霊能者諸君。どうやら約束は守ってくれたみたいだね」
黒化はしていないし、自我も保っている。少なくとも見かけ上は。だが、この場でもっとも憎悪を抱えているのが、この鴉男なのだ。呪力の発信源だ。
「夜にあんたを殺すって、約束したからな」
「物騒なことを言うね。最近の霊能者は、みんなこうなのかな」
「一臣と一緒にしないでください。こいつは脳が筋肉でできていますから」
「槇村もだろ」
「……一人、増えているね」
鴉男は、いぶかしむように、物珍しげに、砂原と槇村の後ろの少女を眺めた。
水木沙苗は、眼を見開いて、滅ぼすべき相手を直視していた。
「剣呑な目つきだな。霊能者の、期待のホープってところかい? 若き新星だな。実に潰し甲斐がある」
「あんた、これまでにも人を殺してるだろ」
砂原は淡々と告発した。
「廃れたプールを見物に来たカップルと、退魔を謳っていたおっさんと。三人も殺せば、もう十分だろ。この国では、その数は高確率で死刑だぜ。ま、霊に刑法なんて関係ねーけど。最後に訊いておくが、憎しみをほどく気はないのか?」
「ないね。三人? 足りないね。見ただろう、子どもたちの嘆きを。幼い命が何人死んだと思う?」
「それとなんの関係があるんだ。あの子どもたちは災害で死んだんだろ? あんたが人を呪い殺していい理由にはならない。犠牲者とはなんの関係もない」
「いわば、世界への怒りだな」
「やっぱりあんた、手遅れだな。終わってるよ、あんた」
「何をいまさら。とっくに終わっているよ。だから、力の及ぶかぎり巻き込んで、のうのうと生きている人間を終わらせるつもりだ。終末は万人に降りかかるべきだ。すべて終わってしまえばいい」
「今夜殺すから、終わるのはあんただけだ」
「そちらのお二方も同意見かな?」
鴉男に問われて、槇村は不承不承、うなずいた。
「私も、世界を許すことなどできません。ですが、呪いを正当化することもできません。あなたが人を殺し続けるなら、あなたを排除するだけです」
「なるほど。きみたち二人の意志は固いようだ。さて、無口なお嬢さん。きみはどう思う?」
鴉男は返答を期待せず、さっきからずっと押し黙ったままの少女に声をかけた。意外にも返答はあった。
「死ね」
吐き捨てるように、水木は端的な一言をあびせかけた。
「――なんだ、沙苗じゃなくて、
「鏡子ちゃん、相変わらず口が悪い……」
砂原と槇村の言葉もものともせず、水木沙苗/水木鏡子は、鴉男に殺意を込めた視線を送り続けていた。
「どうやらお三方とも、私を殺すつもりらしいね。結構。これで躊躇なくきみたちを殺せる」
「最初から殺る気だろ、あんた」
「刑法がどうとか言っていたが――死刑囚に正当防衛の権利はないのかな?」
「知らねーよ」
「あなたは囚人ではなく怨霊です」
砂原と槇村はそれぞれ言葉によって意志を表明し、水木は氷結した視線によって意志を叩きつけていた。
鴉男は楽しげに笑った。
「――きみたちは、面白いね。愉快な三銃士だ。殺すには惜しいが、そうもいかない。人間はひとり残らず死ぬべきだ。だからきみたちも死ななければならない」
「やってみろ、鳥野郎」
鴉男はベンチから立ち上がった。砂原と槇村は懐中電灯を水木に渡し、砂原は肩に掛けたケースから、槇村はスポーツバッグから、それぞれ武器を取り出した。
砂原の手には、金属バットが。槇村の手には、硬球が。
「スポーツでも始めるつもりかな?」
「もちろん。おまえを殺す狩りだ。霊狩りは、命がけのスポーツだ」
「一臣さ、楽しんでない?」
「悪いかよ」
「別に」
「……霊能者というのはよくわからないな。まあ、それもいい。安らかに殺されてくれ」
鴉男の服が、音を立てて引き裂けた。背から一対の翼が生え、腕と脚が膨張し、鉤爪が飛び出し、嘴からよだれをしたたらせ、荒い息を吐いた。獰猛な悪鬼の姿をさらした。獣の鬼気が、空気に満ちあふれた。
「……やばくない?」
「……こけおどしだろ」
その姿を目の当たりにしても、霊視者たちはどことなく呑気だった。死ぬとしても、楽しみながら死にたい。無償のボランティアにも、個人的な楽しみは見出せる。死が迫っても笑っていたいと願う人種に彼らは属していた。
鴉男が、吠えたけりながら疾走してきた。猟犬のような速さだった。砂原はそれを見て、子どもの頃に犬に追いかけられて泣いたときのことを思い出した。――プールで泳いだ帰りだったかな、あれは。
鴉男の腕が、砂原の胸を貫通した。盛大に血がほとばしった。獣はそのままぶんぶんと砂原を振りまわし、地面に叩きつけた。腕を引き抜き、砂原の顔を踏みつぶし、何度も踏みにじり、腹部を嘴でついばんだ。
砂原の顔が潰れ、臓物が夜風にさらされ、握りしめていたバットが転がった。
「……メチャクチャ負けてんじゃん」
呆れたように槇村がつぶやいた。あまりにも早く仲間が死んだので、攻撃するのを忘れて、つい見とれてしまった。
鴉男は砂原を思うさまなぶりものにすると、臓物をついばむのをやめて、槇村の方を向いた。眼がぎょろつき、嘴から血がしたたっていた。
「――やばっ!」
槇村は、綺麗なフォームのアンダースローで、硬球を投げつけた。霊力を込めた渾身の一球が、鳥頭に命中した。片目がえぐれて、脳漿の一部が弾け飛んだ。鴉男はうめき声をあげてひるんだ。
「あれ、ボールが戻ってこない。……めりこんじゃったか」
槇村はスポーツバッグをごそごそとまさぐり、二球目の硬球を取り出した。しかしその隙に、鴉男は槇村へと駆け寄り、投球フォームに入ろうとした腕をつかんだ。
――死んだな、こりゃ。
鴉男は怒りのままに槇村の腕を引きちぎり、鉤爪で首根っこをつかんで、高々と持ち上げた。片腕をなくした槇村が、しおたれた茄子のようにぶらさがった。
吊られたまま、首がぎりぎりと絞められていく。槇村は泡を吹き始めた。意識が朦朧としていく。かすんだ眼に、水木の投げかける懐中電灯の光芒が映った。鴉男は満足げにうなり、なおも腕に込めた力を強めていく。
その腕が、一閃されて断ち切られた。首に腕をくっつけたまま、槇村はその場に倒れこんだ。一瞬の間を置いて、溺れかけた子どものように、ごほごほと咳き込んだ。
鴉男は驚愕をあらわにして、自分の腕を切断した相手を見た。血のこびりついた金属バットを握っている。
「やっぱり、鳥ってアホだな。三歩あるいたら、もう俺を忘れたのかよ」
殺したはずの砂原が、こともなげに言い放った。そして両手で霊力を込めたバットを握りしめ、子どもの頃から飽きずに練習した一本足打法で、鴉男の頭蓋めがけてフルスイングした。
鴉男の頭が、粉々に吹き飛んだ。翼を持った胴体が、糸の切れた人形のように、くずおれた。それと同時に、場に満ちていた呪力が四散した。プールを照らしていたライトが次々に消えていき、泣き声を拡散していたスピーカーは沈黙した。廃墟と化したプールに闇と静寂が舞い戻り、月だけが、冷たい眼のように見下ろしていた。
「除霊完了!」
ゲームセットを知らせる掛け声のように、砂原が快活に宣言した。
ところが、地面に落ちた嘴の残骸が、未練がましげに動いて、言葉をつむいだ。超現実主義絵画のように悪夢的な光景だった。
「……な、なぜきみは生きているんだ?」
「おいおい、それで喋れるのかよ……。チェシャ猫みたいなやつだな。チェシャ猫って、知ってる? 『不思議の国のアリス』、読んだことある?」
「なぜ……生きている……」
「無視かよ。まあいいや。こっちには、とっておきの切り札があるんだよ。最終兵器だな。おしとやかなヒーラーさ」
砂原はバットで槇村の方を示した。片腕を失った槇村が、懐中電灯に照らされていた。光にいたわられるように、その傷が癒えていく。巻き戻されるように、失ったものが甦っていく。
懐中電灯を持った水木が、見開いた眼で回復を凝視していた。
「あの子は聖眼の持ち主だからな。俺たちは所詮、たかの知れた霊力の群小霊視者だけど、水木は別格だ。傷つけられた霊体を癒やすことができる。怨霊はどうせ霊体にしか手は出せないからな。あんただって、見られることで弱体化してたんだぜ。気づいていたかどうか、知らねーけど」
嘴の残骸はなおもぱくぱくと動いていたが、言葉にはならなかった。だんだんと透けて、淡くなっていく。翼の生えた、頭を失った霊骸もともに。
傷の治りきった槇村が、消えていく鴉男のそばに立ち、憐れむように見下ろした。
「さようなら。安らかに眠ってください」
怨霊は消失した。彼がどうなったのかは、霊視者たちにもわからない。魂のゆくえなど、だれにもわからない。現世にとどまった霊しか、彼らには観測できないのだ。死と魂の秘密は、彼らにもほとんど明かされていない。
「さて、帰るか」
三人の霊視者は階段をおりて、出口へと向かう。プールにはもう、子どもたちの影は見当たらない。いなくなったわけではない。呪力の源が途絶えたので、黒化した魂も希薄化したというだけだ。昼間に来れば、子どもたちはきっと、なおも永遠の夏休みにとどまっているだろう。死者たちの夜の苦しみを、ほんの少し和らげただけにすぎない。
だが、やらないよりはマシだった。少しなりとも、それが供養となるのなら。無意味な祈りでも、鎮魂はなされるべきだった。それが、彼らがだれに頼まれずともボランティアに従事する、なけなしの理由だった。
「……あ」
水木が、なにかに気づいたように立ち止まり、息をのんだ。
「どうしたの?」
槇村の問いにも答えず、水木は、のたくった蛇のようなウォータースライダーの残骸に眼を向けている。
「……あ、あそこ、に、りゅ、龍が、そ、そだ、育とうと、し、してる……こ、子どもたち、の、な、な、嘆きを、な、な、涙を、す、す、吸い上げてる……」
つっかえながら、水木沙苗は話した。いまは鏡子ではなく、沙苗だった。そのおびえるような口調で明らかだった。
「龍? なんだか厄介そうだな……。鳥類の次は、爬虫類かよ」
「それ、育ったらどうなるの?」
「……わ、わ、わ、わからないけど……じ、じ、地震とか、お、起きたり、す、す、する、か、かも、かも……」
「ナマズみたいな話だな、そりゃ」
「も、も、もしかし、たら、の、の、話、だ、だけ、けど……」
「ふうん……」
三人は不吉な思いで、ウォータースライダーの方を見つめた。とはいえ、どうしようもない。はっきりと霊として現れたわけでもない。水木に、かすかな気配が感じられただけだ。そして水木にも、予感の内実などあやふやなものでしかなかった。全知の人間などいないのだ。
「子どもたちの涙、か……」
鳥の顔をした霊の怒りは、砂原にもわからないわけではなかった。小さく弱い存在が、不条理に損なわれつづける世界。だが、自分が生きているかぎりは、死者ではなく、生者に与するべきなのだろう。生がどれだけ厭わしいものであったとしても。
「人の死なない世界って、ないのかな」
「さあ。死んだらわかるんじゃない?」
「他人に死をすすめるなよ、冷血女が……」
「バカなこと言うからよ」
「さ、さ、さ、砂原さん、て、ナ、ナ、ナイーブ、で、で、ですね……」
「ほら、沙苗ちゃんにまでバカにされてる」
「……えっ、いまのって、バカにされてたのか?」
「ち、ち、違います……」
冴えた月明かりの下、涼しい夜風の中、霊視者たちは語らいながら、プロムナードの帰路を歩んだ。
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