霊視者たちのプロムナード

koumoto

プール/昼

 今日も人は死ぬ。明日も人は死ぬだろう。そして昨日。そのまた昨日。過ぎ去った日々の、おびただしい死者たち。

 雨が降っていた。雨滴を一粒一粒数えてみれば、死者の数に勝ることもあるだろうか。死者は降ってこない。降りそそぐのは死だ。雨のなかを歩いて、濡れずに済む者はいないように、生まれて生きて、死なずに済む者は

どこにもいない。

 いま、死者を視る霊視者ふたりは、肩を濡らしながら歩いていた。人はふたり、傘はひと振り。柄を握っているのは、男の方だ。女の両手は、パーカーのポケットに入れられている。

「この雨は、幽霊ではないのかな」

 男が、不可解な疑問を口にする。眼は雨を追っている。おびただしい墜落を見届けるように。

「さあね。実際に濡れているから、違うんじゃないの」

 女は、こともなげに返す。眼は空を眺めている。雨の起原を見定めるように。

「なにが実在しているのか、ときどきわからなくなるんだ」

 茫洋とした男の口調。生まれたばかりの眠たさが、いまでもついてまわるかのように。

「そう」

 ため息のような女の相槌。共感も否定も億劫そうだ。時間をひきのばすためだけに、言葉を発するかのような。

 相合傘の目的地は、とうに廃れた潰れたレジャープール。この街が災害指定都市になってから、どれくらい経つことだろう。廃墟はそこかしこに佇んでいた。それそのものが霊であるように。そしてもちろん、霊のような廃墟には、霊は必ずいた。

 最後の徒花ともいうべき、国を挙げてのお祭り騒ぎ。あの歴史的オリンピックが幕を閉じて以来、この国にはもうなにもなかった。経済は破綻し、福祉は瓦解し、文化は摩耗した。弱者は見捨てられ、ゆるやかに消えていった。弱者が消えてしまうと、かつての強者は踏み台を失い、ぶざまに転げ落ちて、弱者と同じように姿を消した。賢明な人々の大半は、とっくの昔に海の向こうへと渡ってしまった。未来は海の向こうにあるのだ。この国に未来はなかった。この国にあるのは過去の残響だけだ。廃墟と、亡霊と、死のような静寂……。なにもない国。なにもない街。

 それでもここに残りつづける者はいた。新天地に向かう意欲も能力もないからか。生まれ育った地縁ゆえか。心の底では滅びを望んでいるからか。救いようのない愚かさからか。

 砂原一臣さはらかずおみ槇村忍まきむらしのぶ。彼と彼女、ふたりの霊視者も、ここに残りつづけている。なぜかはわからない。なんの望みも展望もここにはないのに。ただ、自分たちで見出だした、やるべきことはあった。だれに頼まれたわけでもない、いわばボランティアだ。だれに視えるわけでもない、霊たちを相手の。

 廃棄されたプール施設の外観が見えてきた。ひときわ目につくのはウォータースライダー。プール専用の大がかりなすべり台。いまでは踏みにじられた蛇のように、ひしゃげている。そのまま滑ろうとしても、宙に放り出されるばかりだろう。使いものにならないのは明白だ。

「子どもの頃の夏休みを思い出すな」

「私は、あまりいい思い出はないな。泳げないから」

「へえ、知らなかった。槇村って、カナヅチだったんだ」

「その言い方はやめてくれる? 鈍器になぞらえられるなんて、すごく重たいやつみたいじゃない」

「気にしすぎだよ」

「重たい女呼ばわりされたくない」

「だから気にしすぎだって」

 プールの入り口へと向かう。入場券を購入する販売機があった。男の霊が、むなしくボタンを押している。何度も何度も、繰り返し。

「その機械は、もう壊れているよ」

 砂原の声に、男の霊は振り向いた。ネクタイを締めて、スーツを着ている。ふたりとおそらく同年代。二十代前半。そして、死んでいる。

「知っています」

「そりゃよかった。ついでに、あんた、もう死んでるよ」

「それも知っています」

「死んだことに気づかない霊もいるからな」

「それは気の毒に」

「もうその機械はガラクタだ。このプールに入るのに、券なんて必要ない」

 男の霊は、ぼんやりと販売機を眺めた。いま初めて見るかのように。

「そうですね。この機械はもう終わっている。このプールも。ぼくの人生も」

「プールが好きなの?」

 槇村が訊いた。

「子どものころに、よく通っていました。夏はいつも。大人になると、夏なんて、暑いだけの季節になりましたけど。子どものころは、特別な季節でした」

「わかるよ」

 砂原はうなずいた。傘が少しだけ揺れた。

「ふうん」

 槇村は、霊を見つめた。

「あなた、この場所に執着してるんだ」

「執着? ……どうですかね」

「あんた、いつからここにいるんだ?」

 砂原の質問に、男の霊は考え込んだ。

「さあ……。どうだったかな。よく憶えていませんね」

「少しは意識的になった方がいい。霊はたいてい、時間の感覚が狂ってるからな。あんた、もう何年もここにいるのかもしれないぜ」

「そうなんですか? ……そうかもしれませんね。でも、それで別に困ることもないですけど」

「まあ、そうだろうな」

「夜が来る前に、いちど離れてみなよ。同じ場所にとどまるのはよくないから」

 槇村の慎ましやかな助言。男の霊は、あいかわらずぼんやりと聞いている。

「夜、ですか。夜は、あまり記憶がはっきりしないな。……そうか。今日も、夜は来るのですね」

「毎日、夜は来るものだよ」

「そうでしたね。では、出来ることなら、ここから離れてみることにしましょう」

 そう言って、男の霊はまた券の販売機に向き直り、ボタンを繰り返し押す作業に戻った。

「……まあ、好きにすればいいさ」

 砂原はその場を通りすぎた。槇村は悲しげに霊を見て、傘の下へ避難するように、砂原の後を追った。

 屋根のある、二手に別れた道。砂原はいったん傘を閉じた。左は男子更衣室。右は女子更衣室に続いている。どちらかを通らなければ、プールには行けないらしい。

「さて、どちらを通るかな」

「男のくせに、女性の更衣室に入っていいと思ってるの?」

「いけないのかよ?」

「裸の霊なんて、いないと思うけど」

「期待してねーよ、そんなの」

「なら安心した」

 ふたりは女子更衣室に入った。照明がついていないので中は薄暗かった。開けっ放しになったロッカーやぼろぼろの簀の子、ひからびたマット、埃の積もった扇風機などが目につくが、生きている者も死んでいる者も、だれの気配もなかった。

「霊はいない、と。残念だな」

「やっぱり期待してるじゃない」

「槇村が変なこと言うからだよ」

「人のせいにして……」

 ふたりも、泳ぎに来たわけではないので、更衣室は素通りするだけだ。そもそも、水着など持ってきていない。それでも、更衣室を通ると、プール独特の青い残り香を嗅いだ気がして、砂原は少年時の休暇感覚が、身内によみがえるのを感じた。

 細まった通り道の壁にシャワーが取りつけてあった。プールに入る前に、水を浴びるためのものだ。すでに錆びついていて、もはやお飾りでしかない。

 それでも砂原はいちおう警戒して、傘をまた差した。ポルターガイスト現象はありふれている。服を着たままシャワーを浴びるのはごめんだった。

 傘の下に、ふたりで縮こまったまま通りすぎる。シャワーは特に反応しなかった。

 視界が開けた。屋根の外に出て、ふたりはまた雨空にさらされた。一歩踏み出す。と。プール周りの各所に設置されたスピーカーから、不意に音が鳴り始めた。

「なんだ? ……ピアノ? 音楽か……」

 サティの、ジムノペディ第一番だった。テンポのゆったりした、物静かなピアノ曲。雨のそぼ降るなかで、水の音にまぎれるように、旋律がつむがれる。スピーカーが機能しているはずなどないのに。霊のいたずらだろうか。幽霊はなぜだか音楽好きが多い。死後の永遠のような沈黙に、耐えきれなくなるからかもしれない。未来のない静けさは、きっと寂しいものだろう。

「歓迎されてるのかね。それとも、帰れって意思表示かな」

「どちらでもなかったりしてね」

「というと?」

「ただ単に、いま、音楽が聴きたくなっただけなのかも」

「俺たちなんて、どうでもいいってか。ご機嫌だね」

 ふたりは先へ進んだ。水の涸れたプールが、眼前に広がっていた。上空から見ると、歪んだひょうたんとでもいうような形に外周が曲がりくねった、流れるプール。本物ではない偽物の船の、大きなオブジェが真ん中あたりに鎮座しており、それをひとめぐりすると、小さな橋をくぐり抜け、なだらかなカーブをたどり、そしてまた船をめぐるコースに戻ってくる。砂原は昔、飽きもせず、何度も何度もこの流れるプールを周回していたときのことを思い出した。ポイントごとに、水の流入口、水流のほとばしる地点があり、流れに逆らって泳いでは、馬鹿みたいにはしゃいでいた。

 いま、流れるプールに水はたまっておらず、積もった枯葉に、雨だけがしとしとと降りそそいでいた。

 それでも不思議なことには、その涸れたプールに、なおも泳ぐ者たちがいた。水のないプールで、遊びつづける者たちが。

「子どもの霊……」

「空中を泳いでる……器用なもんだな」

 空をただよう妖精のように、何人もの、水着姿の少年少女の霊が、流れるプールを飛びまわっていた。水などないのに、水に浮かんでいるかのように、宙を泳いでいた。それはどこか、解き放たれた幾多の風船のようにも見えた。

 幼い霊たちは、楽しそうに笑っていた。互いに水をかけあったり、追いかけあったり……。死でさえも、彼らの夏休みを終わらせることはできなかったのだろうか。

 砂原と槇村は、傘を差して立ったまま、しばらく子どもたちを眺めていた。ジムノペディは、ループ再生のようで、曲が終わると始めに戻り、周回を重ねるように、スピーカーから流れつづけていた。

 やがて、遊ぶ霊たちの中の一人の少女が、不思議そうに声をかけてきた。

「お姉ちゃんたちは、泳がないの?」

 ふたりは返答に窮した。生きた身では、水のないプールを泳ぐのは難しい。とはいえ、カナヅチの槇村にとっては、水があったとしても同じようなものだった。

「――うん。私、泳げないんだ」

「えー? 大人なのに、泳げないの? あたしでも泳げるのに」

「泳げない子どもがいるなら、泳げない大人もいるわよ」

「へー、そうなんだ。お兄ちゃんも泳げないの?」

「いいや。今日はあいにく、泳ぐ気分じゃなくてね」

「変なの。こんなにいい天気なのに。もったいない」

 少女は大人との会話に飽きたかのように、プールの見えない水流へと戻り、仲間の方へと泳いでいった。姿勢のいいクロールで、華麗に空を切った。雨空の涸れたプールで、死んだ子どもたちは、幸せそうに遊びつづけていた。

「……死んだことに気づいてないのね」

「そうみたいだな」

「伝えた方がいいかしら」

「どうかな。この子たちには、生死なんて関係ないのかもしれない。雨も曇りも関係ないみたいだから」

「天気と生死は、一緒じゃないわよ」

「一緒かもしれない。実際、空模様みたいなものかもしれないぜ。少なくとも、あの子たちにとってはな」

 ふたりの霊視者の相合傘は、なおも進んでいった。階段をのぼり、小高い場所にある売店の跡にたどり着く。ホットドッグやポテトフライ、ソフトクリームやかき氷を売っていた、野外で食べる美味しさを最大限に引き出す、堅苦しさとは無縁の食事処。破れかけた、薄汚れたのぼりが風にひるがえっている。

 その売店のベンチに、呪力を持った霊が座っていた。身体は人間だが、首から上は人間のものではなく、黒々とした鴉になっている。死せる鳥頭。半妖化していた。

「やあ」

 鴉の顔をした霊は、ベンチの背にもたれたまま、気さくに声をかけてきた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 霊視者ふたりは、その鴉男に、丁重に挨拶した。

「きみたちは、生きているんだね」

 鴉男は、くちばしをもぐもぐさせながらも、はっきりとした声音で喋る。

「あの子どもたちは、ひとたまりもなく押し流されて死んだ。別れを告げるいとまもなく。鬼畜の所業と思わないか? もしも、神がいるとしたら……」

 鴉男は、納得のいかないように、首を振る。

「でも、恨むのはやめた方がいい。あんた自身が、鬼になりかけている」

 砂原の忠告に、鴉男は笑った。

「それならそれでいいさ。この世は憎しみにあたいする。そうは思わないか?」

「憎悪は救われませんよ」

 槇村が静かにさとす。鴉男は、これにも笑った。

「救いなど求めていない。救われる者なんていない。意味なく生きて、意味なく死ぬだけだ。こうやってまだ存在しているのも、意味なんてないんだ」

「私は、すべての事物には意味があると信じています。あなたが存在していることにも。私たちに、霊が視えるということにも」

「見解の相違だな」

「恨みをほどく気はないのか? あんたが憎悪に凝り固まるほど、この場所の瘴気は深まってしまうようだ」

「恨みをほどく? そんな器用な真似はできんよ。それだけが、最後に残された感情だからな」

「そうかい」

 砂原は、傘を視界からずらして、空をあおいだ。少しだけ晴れ間が差している。遠からず雨は止みそうだった。

「それなら、俺たちは夜に、あんたを滅ぼすことになる」

 霊視者はこともなげに宣告した。

「ご自由に。できるものならね」

 鴉男は、愉快そうに手を叩いた。

「行こう、槇村」

 砂原はそう言って、施設の出入口へ引き返し始めた。この場を侵している、呪力の源は確認できた。昼間の用件は済んだ。あとは夜だ。

「残念です。夜にまた会いましょう」

「またね、お若い霊能者たち」

 槇村も、砂原の後を追う。霊視者たちの相合傘が、階段をおりていく。夜にまた来ると、つたない約束を交わして。

 ベンチに座ったまま、鴉男は、ピアノの音に合わせるようにハミングした。音楽は、スピーカーからなおも流れつづけて、空虚なプールに浸水するかのようだった。

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