第3話 思い出の子供
大きな神社に着いた。この神社はぼくらの地元でも知られている、有名なところだ。真っ直ぐな通りに木の鳥居がいくつも並んでいる。平日だからか、人が少ない。秋になったら祭りがあって、たいそうな賑わいを見せる場所である。それはテレビで見て知っていた。多分ぼくはそのときもチカと一緒に行くのだろうな、とぼくは思い、ため息をつく。
「立派な神社だね、高野君」
チカは白いハンカチで首筋を拭きながらぼくに笑いかけた。確かに、神社の建物は時代を感じさせて何となく凄みがあった。朱色の柱に反りあがった屋根。平屋建てだ。
チカは正式なやり方ではなく、鈴を鳴らすといきなり拍手を二回打って目を閉じるという方法で「願い事」をした。
「何をお願いしたの?」
「言ったら無効になるでしょ。言わないよ」
チカは少し膨れ面になると、「おみくじおみくじ」とつぶやいて本殿の前にあるおみくじの箱に百円玉を二枚置いて、むき出しのおみくじを引いた。年の初めでもないのに、もったいない。
「大凶だろ?」
「違うよ。中吉。待ち人来たり。願い事叶う。いいことばっかり」
チカは嬉しそうにしている。おみくじくらいで幸せになれる、得な気質なのだ。
「次はお守りを買わないと」
チカの発言に驚いて、ぼくは口を挟んだ。
「ちょっと。年始じゃないんだよ。もう夏なんだ。何でお守りなんだよ」
チカはまた膨れ面になる。
「いいじゃない。神社に来たら、願い事、おみくじ、お守りでしょ?」
そんな決まりは知らない。しかしチカをとめようがないし、どうせチカの金だからと、ぼくは放っておくことにした。チカはうんうんうなって、赤い袴を穿いた巫女から一つお守りを買った。
神社を出て、通りを歩く。ぼくらは他愛のない話をしていた。主に子供のころのことだ。ぼくらは田舎町で静かに暮らしていた。近所に同性の同級生がいないぼくらは、一緒に山を探索し、一緒に宿題をした。ぼくらはいつもお互いを隣に感じていた。思春期に入っても、なお。冷やかされることもあった。ぼくらが恋人同士なんじゃないかと疑うおせっかいな連中が騒いだのだ。ぼくらは二人とも苦笑いをして否定し、平気で毎日一緒に帰った。学力が同じくらいだったので、ぼくらは小中高と同じ学校に通った。学校が少ないのだ。だけどさすがに大学は別になるかと思った。大学は全国にたくさんあるのだから。けれど不思議なことに、ぼくは志望校を落ち、チカが第一志望として受けていた大学を後期試験で受けて上がった。ぼくらはまた一緒に過ごすようになった。当たり前のように。
「不思議だよね。こんなにずっと一緒にいる幼馴染って他にいないんじゃない?」
「そうかもね」
ぼくは苦笑する。
「家族よりもたくさんの思い出を共有してるかもね」
「そうかなあ」
「あ、覚えてる? わたしたちの前で不思議なことが起こったこと」
それはあまりにも多すぎる。
「池でザリガニ釣りしてたときのこと、覚えてる?」
「ああ」
あれはとても涼しい日のことだった。あの日起きたことを、ぼくは――。
不意に、チカがしゃがみ込んだ。ぼくは驚いてチカに触れる。チカは、息を荒くしていた。
「どうしたんだろう」
不規則な呼吸の中、チカがつぶやく。
「高野君、わたし、お腹が大きくなったみたい」
えっ、とぼくは素っ頓狂な声を上げてチカの下半身を見た。確かに、膨らんでいる。腹部が、臨月の妊婦のように膨らんでいるのだ。どうして。
「チカ、お前処女だろ?」
ぼくの大声をとがめるように、チカはぼくをにらんだ。ぼくは知っている。チカはぼく以外の男を寄せつけないのだ。大人しめの女友達か、ぼく。チカはひどい人見知りで、男性恐怖症だった。
「何でかなあ。ああ、もう、苦しい」
裾の長いワンピースでよかった。チカは普通の妊婦に見える。ぼくらはゆっくりと移動し、歩道のところどころにある石のベンチに座った。
「何、何なの? また、『不思議なこと』?」
「多分ね。もう、高野君、混乱するのやめて。いつものことじゃない」
チカは苦しそうだが、落ち着いている。更には愛おしそうにお腹を撫でている。まるで本物の妊婦だ。
「高野君。さっきの話の続き」
「それどころじゃないよ。どうしたら元に戻るのか考えないと」
ぼくの声はうろたえていた。チカの体に起こる異変なんて初めてだ。ぼくらの周りで何かが起こるとしても、僕ら自身には何もなかったはずなのに。
「あのね、ザリガニ池に来た赤ちゃんの話」
「ああ」
ぼくは一瞬にして落ち着いた。
それはこういう話だ。
十歳だっただろうか。ぼくとチカは近所の汚い池でザリガニ釣りをしていた。ザリガニは面白いように釣れた。棒をつけた糸を垂らすだけで面白いように池から出てくる。ぼくとチカはきゃっきゃと騒いでいた。
それは突然起きた。ふわふわと、生後三ヶ月くらいの赤ん坊が空に浮かんでいる。赤ん坊は裸。男の子だ。笑っている。それはもう、嬉しそうに。見つけたのはチカだった。赤ちゃんだ、と叫んだのだ。赤ん坊は嬉しそうにぼくらの元に降りてきた。受け取ったのはぼくだった。
どうしよう。ぼくはつぶやいた。誰の子だろう。早くお母さんに届けてあげなくちゃ。
チカはピンク色の上着を脱ぎながら、とにかく服を着せてあげようよ、と言ってそれで赤ん坊を包んだ。赤ん坊は奇妙な声で笑ってチカを見た。お母さん。そう言った。お母さん。ははは! ぼくはぎょっとして赤ん坊から手を離した。赤ん坊は、落ちない。ふわふわと浮いている。ははは! とまた笑い、空に上がる。バイバイ、またね。赤ん坊はそれだけ言うと、空高く上昇し、見えなくなった。大気圏の外に出たのだろうか、と科学の本が大好きなぼくは思っていた。
「あの赤ちゃんが来たんだ。きっとね」
「でも、処女懐胎じゃないか、まるで。その子が神の子だっていうの? チカは仏教徒じゃないか。変だよ」
「まあまあ。『不思議なこと』はいつも自然に収まるのです。ゆっくり話でもしてようよ」
チカはぼくの手を突然取って、膨らんだ腹部を触らせた。ぼくはどきりとした。これじゃあ、まるで。
「仲のいいご夫婦だこと」
通りかかった二人連れの老婆が笑った。ぼくは真っ赤になっていたと思う。だって、ぼくらはただの幼馴染で、まだ十八歳だ。恥ずかしいなんてものじゃない。
けれど、触っているうちに変な感じがしてきた。
「高野君。わたしね、あのときの赤ちゃんのことをよく考えるよ。名前、とか」
チカはくすくす笑った。彼女は余裕だ。どんなときでも。
「どんな名前?」
ぼくは目を合わせずに訊く。
「あのね、名前は」
ははは! 赤ん坊の笑い声が聞こえた。駄目駄目。それは駄目だよお母さん。それは今言っちゃ駄目だ。ぼくはちょっといたずらをしただけ。今度こそ正式にやってくるからそのときに取っておいてよ。
あっ、とチカがつぶやいた。チカのお腹はいつの間にか元通りになっていた。ぼくも目を見開く。
ははは! 見上げると、赤ん坊が空高く昇っていくところだった。あのときと同じ。
じゃあね、お母さん。じゃあね。
赤ん坊は手を振り、それはもう嬉しそうな表情のまま、見えなくなった。ぼくらは呆然としている。
しばらくすると、チカは思い切り伸びをして、
「へーんなの」
と大声を出した。ぼくはチカを見る。チカもぼくを見る。
「いつものことだよ、高野君。気にしない、気にしない」
チカは笑っていた。ぼくはもやもやした妙な気持ちを抱えたまま、そうだね、と返事をした。
あとで気づいたことだけれど、チカは間違えて安産祈願のお守りを買っていたのだった。何てそそっかしい奴なんだろう。
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