第2話 猫のいる路地
ぼくとチカは、カフェに向かっていたはずだった。いつも行く、安いチェーン店の。ぼくらは大通りを歩いていた。服屋だとか雑貨屋だとかがあり、新しいタイルが地面に敷いてあり、やけに女の子が多い通りだ。ところがチカが突然、
「あ、猫」
と言って走り出したのだ。狭い路地に入り込むチカを、ぼくは慌てて追いかけた。大通りとは違って電信柱や電線が目につく。建物の壁も安っぽいクリーム色のモルタルだったりする。地面はアスファルトやコンクリート。すばしっこいチカの細い腕を掴んだときには、すでにぼくらは来たことのない種類の場所にやって来ていた。
小さな家が密集している住宅街。どの家もやけにくすんでいる。欠けて苔むした屋根瓦、トタンで覆われた壁。長く続くコンクリートブロックの塀。日本にならどこにでもありそうな住宅街だが、どこか違う。何か、古いのだ。空気がかび臭い気がする。それに、猫が多い。
人っ子一人いないのに、猫には頻繁に出くわす。黒猫白猫三毛猫虎猫。どの目も鋭く、射抜きそうな視線でぼくを見る。ぼくは猫が苦手だ。犬のような無邪気さがないからだ。それに宇宙人のような気味の悪さと知性を感じる。何もかも、見抜かれている気がする。ぼくが苦手としているからか、ぼくは猫に好かれない。チカは逆だ。チカは、
「猫だ!」
としゃがみこんで、舌を小さく鳴らしながら猫を呼んだ。猫はあの真面目くさった顔で、甘くどこまでも伸びる声を上げながら近づいてきた。ぼくを素通りして、白地に淡い茶色の美しいぶち猫はチカに擦り寄る。チカは慣れた手つきで猫のあごを撫でた。ごろごろと、気持ちよさそうな猫の声がする。
「チカ、猫飼ってたっけ?」
ぼくは少し距離を保ち、彼らを見下ろしながら訊いてみた、チカは唇を三日月形に伸ばして笑い、
「ううん」
と答えた。
「猫、飼ったことない。知ってるでしょ? 幼馴染なんだから。うちの親は動物飼わないの。動物を飼うのは残酷だって主義」
「チカもそういう主義?」
「ううん。でも、そうだな。動物のほうがわたしと住むことを望まなければ、わたしは動物を飼おうとは思わない。親の影響受けまくりだね」
チカが猫を見下ろすと、猫はひたすらにチカの手を舐めていた。どんな味なのだろう、とふと思う。
「甘ーい味ですよ。卵ボーロのような」
ふと、猫が喋った。ぼくはびくりと肩を震わせ、猫の顔を覗き込んでみた。琥珀色の目の中に、針のように細い瞳がある。顔を振り向けた猫がぼくに向き直り、不思議な抑揚のある高い声で話し始めた。
「あれまあ、慣れっこだっていう顔ですね。うんざりだって顔でもある。わたしもね、あなたのような人間は慣れっこですよ。我ら猫族に対して奇妙な嫌悪感を持っている人間ですね」
「あれ、今度は猫が喋ったの」
ぼくの代わりにチカが話した。チカも慣れっこだという顔だ。むしろ嬉しそうでさえある。
「この間は燕が喋ったよ。高野君といると、小さいころから色んな不思議なことが起こって退屈しないんだよね」
「燕はおいしゅうございます。ぴちぴちと口の中で動いて、とても満足できる食べ物でございます」
ぼくをのけ者にした、不思議な両者の会話が始まった。
「燕はあなたたちと言葉が通じるの?」
「そりゃあね。ただ、燕はお馬鹿さんでございますからね。助けてー、やめてー、と単純に叫ぶのが関の山です」
「可哀想だと思わない?」
「ちっとも。強いものは正義ですよ」
「そーお?」
「そうですよ。まあ平等なんてものはこの世にはありません。生きるには、強くなるしかありませんね」
「でも、あなたたち猫は結構ひ弱じゃない?」
「そうでしょうか? わたしたち猫族は、人間という思い上がった生き物を支配する術を知っています。人間たちは美しい猫族を見て、食べ物を貢いだり、寝床をこしらえたりするではありませんか。美は強い。強いは正義です」
「あなたたちの美が通じない人間がこの世には存在するけど」
「そういった人間からは去るのみです。猫を愛する人間はいくらでもいますからね」
「そーお?」
「そうです」
ぼくはこの会話の間に、猫がむくむくと大きくなってきていることに気づいていた。柔らかそうな毛皮がどんどん毛量を増し、膨らむ。次第に後ろ足で立ち始める。チカはその様子を当たり前のように見ている。警戒心がないのは考え物だ。この猫はどう甘く見積もっても化け猫だ。
「化け猫じゃございませんよ」
ぼくと同じ背丈で、ぼくと同じ高さの視線を向けて、猫は言った。
「我々猫族なら誰でもできることです。あなた、鍋島の猫騒動をご存知ありませんか。猫又化なるものはわれわれ猫族全てに起こりうる現象です。子猫だって二足歩行できますよ」
巨大な目。むやみに輝いて、本当の琥珀のようだ。
「ところで、あなたはどうして猫がお嫌いなのでしょう。言ってごらんなさい」
「そうです、言ってごらんなさい」
いつの間にか、路地には二足歩行の巨大な猫が数匹集まってきていた。どれも犬のような明るい表情をしていない。真顔だ。
「犬と比べるのはおやめなさい。どうして人間は犬と猫を比べるのでしょうね。その差は歴然としているのに」
最初のぶち猫が他の猫に笑いかけ、猫たちは皆で目を細め、ちっとも笑っていない口元で、は、は、は、とゆったり笑った。チカはしばらく黙って猫たちを見ていたが、
「すごーい! 大きなしゃべる猫がたくさん!」
とはしゃぎだした。ぼくがはらはらしているのをよそに、チカはぶち猫に飛びついた。
「ふかふかー」
「チカさん、おやめなさい。今が夏だということをお忘れですか?」
「そうだね。ちょっと暑い」
チカがにこにこ笑う。猫たちは、は、は、は、と今度は哄笑する。
「チカさんは無邪気ですね。かわいいものだ」
猫たちが口々にチカを褒め、肉球のついた手でその頭を撫でる。チカは頭を差し出す格好で嬉しそうにしている。チカの子供っぽさもここまで来ると危うい。第一猫に撫でられて喜ぶなんて、あべこべではないか。
「あべこべではありませんよ。我々の『擦り寄る』、『舐める』という行為は、『撫でる』という行為に近いですからね」
ぶち猫が言うと、他の赤猫、白猫、三毛猫、虎猫がうなずいた。
「さて、あなたは何故猫がお嫌いなんですかな。言ってごらんなさい」
ぼくはしばらく黙り、チカを見つめていた。チカはぶち猫にしっかりと肩を抱かれ、困ったような顔をしている。まるでぼくのことを「困った人」だと思っているかのように。
「猫は」
ぼくは久しぶりに声を出した。何だかかすれていて上手く出てこない。猫たちがぼくを取り囲んだまま、真面目な顔で見つめている。
「猫は怖い。だから嫌いだ」
小さな声で言ったつもりだった。しかし、猫たちはしんと静まり返ったまま、ゆっくりと膨らみ始めていた。最初の時よりももっともっと大きく。高く、広く。肉が膨張する。地面がみしみしと鳴る。目の前に毛皮の壁ができる。猫たちはそれぞれが高層ビル並みの大きさになっていた。
は、は、は、は、は。
そのまま、大きく、愉快そうに笑い始めた。
は、は、は、は、は。
ぶち猫はもう、足元しか見えない。体にしては小さな、それでもぼくらからすれば巨大な、爪を隠した四つの指がぼくらに向いている。チカは、見上げながらぼんやりと立ち尽くしていた。
は、は、は、は、は。
「おかしいなあ」
「ああ、おかしいおかしい」
「そんな理由か」
猫たちが上空で会話を交わしている。声まで膨らんで、やけに響く。
「人間なんてそんなものさ」
「そんなものだよ」
ぼくはいらいらしながらそれを聞いていた。けれど、猫を否定する発言が、それ以外ひとつも出てこないのだった。猫は本当に完璧なのかもしれない。怖いのは、本当に完璧だからなのかもしれない。しかし、チカはちょっとぼくのほうを横目で見て、
「高野君、変なの。猫ってちっとも怖くないのに」
とつぶやいたのだった。途端に笑い声がとまる。
「怖くない?」
悠然とした動きで、猫たちがしゃがみ込む。先程とは立場が逆転している。猫のほうが立場は上に見える。それなのに、チカは言うのだ。
「猫はかわいいじゃない」
猫たちは顔を見合わせる。
「こんな姿なのに?」
「かわいいよ、猫ちゃん。全然怖くないから安心して」
チカはにっこり笑う。すると猫たちは、どんどん縮み、溶け出す蝋のように小さくなり、やがて当たり前の猫の姿になった。猫たちは路地にふさわしい格好で気まずそうに黙っていたが、ぶち猫が、
「おや、昼寝の時間だ」
とつぶやくと、そうだそうだ、わたしもそうだ、とめいめいにひとり言を言いながら、どんどん路地から消えていった。ぼくとチカは、最後の猫のかぎ尻尾が曲がり角に消えるのを確認したあと、呆然としていた。しばらくして、チカがぼくを見る。
「今の、禁句だった?」
「そうみたいだね」
「褒めたのに」
「『かわいい』の意味を今一度考え直すべきだね」
ぼくが言うと、チカは何だか悲しそうに考え込み始めた。対して、ぼくはとても愉快な気分だった。猫をやっつけた初めての経験に、満足しているのだった。
美しいは強い。けれどかわいいは脆い。
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