第1話 女の川

 まず、女が現れた。続いて女。更に女。次々と、とめどなく女たちは現れ、やがて女の川を作り、水分子のように滑らかに流れて行った。女たちはチカの家から往来へとあふれ出しているのだった。開け放たれた玄関のドアからは特に多くの女が早足で出てきて、玄関の右横にある大きな窓からはリズムよく飛び降りてきている。左の小さな窓からは、女のマヨネーズのように搾り出されていく。マヨネーズと言っても女たちは軟体ではない。あまりに柔らかで素早い動きのためにそう見えるのである。道を左右に歩き出した女たちは皆背が高く、蜂蜜色の肌をし、黒髪を後頭部で丸く結っている。そしててらてらと光る原色の中国服を着ている。顔は全く同じだ。小さく膨らんだ唇、細い鼻筋、釣り上がった切れ長の目。表情までもが同じだ。人形に似た、見せかけの無表情。

 女たちがチカの家から突然出てきた瞬間を、ぼくは見た。窓とドアが一斉に開かれ、まさに水のように彼女たちは生じ始めたのだった。会う約束をしていたのだから、家の中にはチカがいるはずである。ぼくはチカがどうなっているのかとても心配になり、ぼくを避けて通る女たちの中に飛び込み、強い人間の匂いがする彼女たちを強く掻き分け、玄関と小さな窓の間にある、女の川の合流地点の向こう側に行った。三角形の緩衝地帯である。ぼくはそこから大きな声で叫んだ。

「チカ! いるんだろう?」

 声はない。音らしい音は、女たちが優しげな中国靴で歩くときの音ばかり。白いコンクリートで覆われた地面は、余計に音を立てにくくしている。ぼくはどうやって中に入ろうか、知恵を絞った。ドアや窓を閉めて、女たちを家の中に充満させるというのはどうだろう。女たちは家の質量を超えて生まれだしているように思えるから、家を爆発させてくれるのではないだろうか。いや、女たちは手があり、ドアや窓に対応できるようである。ぼくが外から全てのドアや窓を閉めたところで、ぼくが押さえつけることのできないところから出てくるに違いない。それに女たちが家に充満したら、チカが押しつぶされてしまう。それでは家を壊してしまうのは? いや、これは重機を使わなければできない作業だし、チカが安全だとは決して言い切れない。家を壊す以外に方法は? しばらく考えたけれど、何も思いつかなかった。

 仕方なく、ぼくは女たちの流れに飛び込んだ。さっきのように女たちを掻き分けて中に入るしかないと思ったのである。女の川は、恐ろしいほどの圧力があった。決壊したダムの流れを行くような気分だ。ぼくが押しても嫌な顔一つしない女たちの、出てくる速さを超える速さでぼくは玄関に入った。狭い玄関と廊下を流れる女たちの匂いはますます強くなり、甘く不快な感じが鼻の中で滞留している。靴など脱がない。第一女たちは靴のまま歩いているではないか。

 女たちは平屋建ての家中を歩き回っているが、特に密度の高いのはこの廊下だ。チカは玄関廊下横の座敷にいるかもしれない。彼女がいるのは大抵、寝室として使っているその部屋なのだ。ぼくはチカを呼ぶ気力もなく、ただ無言で女たちを横に押しやり、開きっぱなしの引き戸の内側に入った。

 女たちが部屋の中を歩き回っている。ある程度回ったあと、女たちは流れに加わるようになっているらしい。ぼくは部屋の中を四角く回る女たちの流れに身を任せながら、その中心を見つめていた。古い鏡台、シンプルだけれど、鏡の枠や引き出しの取っ手に異国的な意匠のあるそれ。かかっていたであろう臙脂色の布のめくられた鏡の中から、女が次々と出てくる。一定のリズムで、同じ顔の女が。鏡台の前にはチカがいた。原色の服を着た女たちの中では一際目立つ、乳白色のワンピースの彼女。染めていないと自慢していた肩までの艶のある髪、丸い目。彼女は凍り付いていた。仕上げの赤い口紅を筆で唇に塗りつける格好で、全くとまっていた。

「チカ」

 ぼくは声をかけた。女たちは女の匂いをさせて、生じては輪に加わり、やがて開け放たれた引き戸から出て行く。チカは反応しない。目の前に現れては土足で台を踏み、降りていく女たちに驚いている表情でもない。

「チカ」

 今度は回りながら触れてみた。ぞっとすることに、チカは冷たい石像も同然の感触だった。

「チカ!」

 叫んでみる。チカは何も反応しない。ぼくは先程から覚えていた困惑が、強い怒りに変わるのに気づいた。何でもいいから壊したい。女たちを殴りたい。それなのにぼくは従順に女たちの流れに合わせて歩いている。あまりの馬鹿馬鹿しさに怒りが頂点に達した。畜生、と叫び、ぼくは鏡台に突進して女が出てきた直後の鏡を殴った。さすがに女を殴る勇気はなかった。凍りつくような鋭い音をさせ、鏡は割れた。拳に熱い痛みが燃えるように響いた。

 ひびの入った鏡の前で、チカは口紅を塗る姿勢のままとまっている。ただ、女はもう出てこなくなった。女たちは何周か回ってから、玄関に出て行き、往来に出て、道の左右に消えた。

「ちょっと、高野君」

 縁側の窓、先程女たちが出てきていた窓からぼくは彼女たちが消えていく様子を見つめていたのだが、背後から低いチカの声が聞こえてきた。振り向くと、口紅を塗っていないチカは大いに不満げな顔でぼくを見ていた。ぼくの気持ちが一気に軽くなっていく。先程の奇妙な出来事がどうでもよくなるほどに。手からは血が流れていたが、気にならない。

「わたしの鏡、割った? 古道具屋さんから届いたばっかりなんだよ。ひどいじゃない。清朝の中国で作られた貴重な品だって言われて、すっごく気に入ってたのに」

 ぼくはしばらく黙っていた。チカが唇を尖らせてぼくに文句を言っている。ぼくの先程までの苦労も知らずに。

「聞いてる?」

「聞いてるよ」

「割られる時の記憶、ないんだよね。高野君といると変なことばかり起こるから、もう慣れちゃった」

 ぼくもだ、と思った。チカはよく、奇妙な事態に巻き込まれる。今日の約束でも何か起こるだろうとは思っていたが、まさか初っ端からこんなことになるとは思わなかった。中国の鏡? 古道具屋? チカはしょっちゅうそんな怪しげなものに手を出すが、それが原因だとは思わないのだろうか。ぼくはもう、チカに何かが起こるたびに説明をするのを諦めてしまった。もちろん、チカに記憶がないのなら今回の話もしない。

「高野君」

「ん?」

 チカは手鏡をどこからか取り出して、口紅を塗っていた。ピンク色の唇が、一気に赤く染まる。上下の唇を合わせて押しつけあったあと、チカは笑った。

「怪我の手当てをしたら遊びに行こうよ」

 ぼくはため息をつき、そうだね、と答えた。

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