第4話 未来の樹

 もう、六時だ。けれど夏の日差しはまだ辺りを弱く照らしていて、暗いとは決して言えないくらいだった。

「高野君。公園の木」

 チカが通りかかった狭い公園に生えている一本の大きな木を指差していた。楠だ。チカは笑ってぼくを見て、

「最後にあの木のところに行ってみようよ」

 と笑った。あんな木が何だっていうんだろう。ぼくが不思議に思っていると、質問するまでもなくチカが答えた。

「あの木は、願い事が叶う木なんだよ」

 それを聞いて、ぼくは苦笑した。

「こういうの、好きだね、チカは。まあ構わないよ。行くだけ行ってみよう。何か起こるといいね」

 チカはにっこりと微笑んだ。

 木は、子供の遊具の向こう側にひっそりと立っていた。その遊具もきれいで新しいとは言いがたい。ずいぶん古い公園のようだ。木は、遊具の年月さえ遥か超えて生きているように見えた。楠はぼくもいくらか見たことがあるけれど、母校である小学校の校庭に植えられていた樹齢三百年の楠よりも大きい。一体いつごろから生きているのだろう。ごつごつした樹皮は、強く手を押し付けると少し痛い。

「願い事、何にする?」

 人気のない公園で、ぼくらは二人きりで話をしていた。少し、妙な感じだ。二人きりでいることなんていつものことなのに。

「何にしようかなあ」

 チカが呑気に木を眺めているその横顔を、ぼくは眺めていた。チカの横顔は整っている。正面から見たらそんなに完璧な顔ではないけれど、横顔はきれいだ。だからたまにどきりとする。チカは美しいんじゃないかと思ってしまう。

「あ、決めた」

 チカは木を見上げ、「お願いします」と言って、先程神社でやったように拍手を打った。気づくと、ぼくらは――。

 少しずつ、老いていった。ぼくはチカを見つめている。チカもぼくを見つめている。そのチカの顔が、段々大人びていくのだ。頬の肉が落ちてすっきりした顔になる。二重まぶたのしわが、濃くなる。チカは、本当に美しくなってきた。

 そう思っていると、今度はチカの肌が衰え始めてきた。少しずつ、ふやけたようになる。微妙に、垂れていく。しわだってできる。けれどチカの顔は、決して醜くならない。しみもなく、常に微笑んだような顔立ちは変わらない。ぼくはチカがどんどん愛おしくなっていく。

 太陽が昇ったり落ちたりする。勢いよくそれは起こる。時間がどんどん進んでいる。ぼくは最初そう認識していたけれど、段々それを忘れ、ただチカを、目の前の老いていくチカを眺めていた。

「高野君」

 老いた声で、チカは言った。それもそうだ。チカはもう七十歳。ぼくと同じ老人なのだ。

「チカ」

 やはり老いた声で、ぼくは答える。喉が渇いたようになって、話しにくい。

「チカはとうとうおれのこと、下の名前で呼ばなかったよな」

 ぼくは笑う。本当におかしい。チカは子供のころからぼくを「高野君」と呼んでいたのだ。

「だって高野君には高野君って呼び名が一番しっくり来るもの」

 チカは笑い、目を細める。

「チカは、どうしておれを高野君って呼び始めたの?」

 ぼくは本当に気になっていたことを、何十年も経ってやっと訊いた。今まで、チカは話してくれなかったのだ。チカは考え込むように頭を沈め、やっと顔を上げる。

「あのね、高野君は小さいころから優しかったの。わたしが何かわがままを言っても、はいはいって言うこと聞いてくれたの。わたし、高野君が大好きだったのね」

 ぼくは微笑み、続きを促す。

「高野君はわたしの神様だったの。簡単に、友達みたいに下の名前を呼んじゃいけないと思ったの」

「え、じゃあチカはおれのこと、友達と思ってなかったの?」

「うん」

 ぼくはびっくりして言葉を失った。神様。そう言われてもあまり嬉しくない。

「神様だから包み込んでくれるし、助けてくれるし、時には叱ってくれたりする。わたし、神様の高野君をずっと尊敬してたの」

「それは、嬉しくないなあ」

 ぼくがしょんぼりと肩を落とすと、チカはぼくに近寄ってきた。にこにこ笑っている。

「でも、小学生のころだったかな。高野君が転んだり、泣いたり、お母さんにわがままを言ってるのを見て、ああ、この人は神様じゃないんだ、って思い始めたの」

「へえ」

「で、ただの幼馴染に戻って、でも口癖は戻らなくて、わたしは高野君を高野君って呼び続けたの」

 ははは、とぼくは笑う。

「ただの口癖か」

「そう」

 チカは明るくなっては暗くなる周りのことを気にしない。ぼくらは八十歳になっていたけれど、それは瑣末なことだった。

「人生ってあっという間に過ぎていくよね、高野君」

「うん。そうだね」

「わたしたち、もうすぐ死んじゃう」

「うん」

「死ぬ前に、ちょっと訊いてもいいかな」

「うん。いいよ」

 ぼくはチカを見た。チカは困ったように眉をひそめていた。

「わたしたち、どうして年を取ってるの? わたしたちは、十八歳なのに」

 その瞬間、光がまぶしくぼくらを照らし、一瞬にして暗くなった。そこは薄暗い公園で、木は相変わらずそこにあり、ぼくとチカは十八歳の姿をしていた。

「え? え? え?」

 ぼくが混乱し、自分の姿を確認して、チカの顔を覗いたりしていると、チカは深いため息をついた。

「今のは辛かったねえ」

「今のって、やっぱり『不思議なこと』?」

 ぼくが訊くと、チカは呆れたようにぼくを見た。でも薄暗いからよく見えない。

「決まってるじゃない。わたし、体中がだるかったんだよ。年取ってたから。いつ終わるのかなって思ってたんだよ」

「そうなの?」

 チカはくすくす笑い出した。ぼくは何が何だかよくわからない。

「でも、高野君といるとほんとにおかしなことばかり起こるよね」

 ぼくからすると、「チカといるとおかしなことばかり起こる」のだが。

 いや、違う。もしかして、ぼくがおかしいわけでも、チカがおかしいわけでもなく、ぼくとチカが一緒にいるということが異変を巻き起こすのかもしれない。一緒にいるというのは語弊がある。チカの家に行ったときのように、ぼくとチカが一緒にいない場合もあるのだから。あのときは、ぼくがチカの家に近づいた途端、おかしなことは起こったのだった。

 それに、気になることがある。

「チカ、おまえ、いつも冷静だよな」

「え?」

 チカはぼくに振り向いた。それまで木を見つめていたのだ。

「もしかして、何が起こるのか、お前にはわかってるのか?」

「そんなわけないよ」

「そうじゃなくても、イメージはしてるよな。この鏡台は清朝の女性が使っていたんだ、とか、猫が話したらな、とか、あのときの赤ちゃんに会いたいな、とか」

「うん。よくわかったね」

 ぼくは愕然とした。全てはチカのイメージから起こっていたのだ。それでは、今までのどの現象も?

「じゃあ、今度の願い事は何だった?」

 ぼくは極めて真剣に訊いたつもりだった。しかしチカは急に笑い出したのだ。

「何で笑うんだよ」

「あのね」

「うん」

「高野君とずっと一緒にいられますようにってお願いしたの」

 ぼくの頭の中の時計が、とまった気がした。

「ずーっとね。それが一番の願い事だから」

 チカの顔ははっきりと見えない。薄暗くて顔色がよくわからない。でも恥ずかしがっている様子はない。

 ぼくは、手を伸ばした。そして、チカの手を探り当てて、握った。ほっそりした滑らかな手触りだった。

「いられるといいね。ずっと」

 ぼくはようやくそうつぶやいた。チカは、無言だった。

 ぼくらは帰った。手は離し、いつもの距離感で。チカの家に着くと、

「帰ったら電話してね」

 とぼくに言った。

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