第4話 兄妹の約束.2

「素直にはいって言うのは無理があるかな。確かに神崎さんからの報酬が入った前に、彼女はすでに墨刀二文字ぼくとうにもんじの『下の句』は確かに寒桜高校のどこかにいるって話は聞いた。でもそれは俺が元の高校を離れた原因にはならない」


 言葉を選びながらゆっくりと語る俺に、紅華は耳を傾けた。


「俺は正義大好きマンでもなければ、道徳超人でもない。いわば普通だ。目の前にあるものに興味を注ぎ、目の前にあるものだけに集中する。だからどこで、誰があの外道アイテムに苦しめられていると聞いたところで、俺と関係があるとも思わないし、熱血漢ぶって助けに行こうとすることも当然しない。夏休みの件は大事な妹が関わってしまったから、俺は母上との約束を一時忘れることにしたんだ。当事者が別の、それこそ誰だろうと、俺は何ら関心も抱かなかったのだろう」


「分かって……います」


 控えめで、乾いた声で呟く妹に、俺は微笑みかけて、責任を感じることはないと目と表情で伝えた。


「後、当たり前だけど、金のためでもない。確かに神崎さんは、誰がどういう手段で、もう一振りの墨刀ぼくとうを手に入れたとしても、彼女は同じ値段で買い取ると宣言した。でもそれこそ命懸けのミッションだし、その前に寒桜高校の狂ったような額の学費が先決だし、どう考えても割に合わない」


「では、一体……?」


 妹の言葉は俺によって、食い気味に中断された。


「必要……だからかな。俺にとっては。それしか言えないし、それしかないだろう」


 苦笑いを浮かべながら、俺は言った。


「それは……それは理由になりませんよ、お兄様」


 耐えきれず、一かけらの悲しみを露わにした妹。


 それをすぐに隠したつもりだろうけど、その瞳にはしっかりと刻まれていて、俺にはハッキリと分かった。


「そうだな。突き詰めれば、過去との決着」


 妹に俺の選択を理解してもらえるよう、俺も尽力して、自分でもよく分かっていない自分の心境を解釈した。


「何故か、あの男と決着を付けることで、俺は母上との約束から解放されるような──」


「それは約束など言えません!ただの呪縛でしょう!」


 急激に、紅華は左手で胸元を抑えながら、勢いよく立ち上がった。


 怒りと無念で満ちている、俺のために発せられた怒号。


「あ……ご、ごめんなさい」


 激情が少し引いたところ、紅華はすぐに慌ただしくなり、俺の機嫌を損ねたのかと心配しているようだ。


「いや、気にしてないよ」


 もちろんそんなことはなく、俺は紅華に座ってくれとジェスチャーを送ったが、彼女は立っているままだ。


「この愚かしくも奇異な状態を、自主的に、忠実に保ち続けていられたことに、張本人である俺が一番信じられないよ」


 母上が科した、一方的な「約束」。


 それを守るため、常人では絶対に耐えられない肉体的な鎖を自ら掛け続けてきた。


 自分でも何故こんなに律儀にこれを維持しているのかが分からないぐらいバカバカしくて。


 何せ、あの俺が母と呼んていた女は、俺のことをこう呼ぶ。


「バケモノめ」と。


 彼女から見ると、愛する夫を殺したのは俺の「才能」だろう。


「誰よりも他人の痛みを理解する」才能。


 天が与えし、自身が与えし、「ギフト」。


 その贈り物を、俺が持ちたいかどうかも関係なく。


 その贈り物が、本当にギフトと呼んでいいのかも関係なく。


 母は、自分を、自分が産み落とした「怪物」を、果てしなく憎悪している。


 気が狂うほどに長かった三年間、俺は間近でそのどす黒い感情を飲まされ続いていた。


「安心してくれ、紅華。あの男の情報が未だ寒桜高校に存在しているかは分からないが、どっちみちすぐ終わることだ。あればパパっと調べ上げ、なければ潔く諦めて、俺は元の学校へ、あなたの元へと帰る。手続きや学業などで問題が生じれば、最悪もう一振りの墨刀ぼくとうを手に入れ、あなたの分の学費も稼いてくれば……」


 長々と言い訳を垂れていたら、自分の失言を気付いた。


「いや、その、紅華が転校して来たいならの話で……」


 慌てて付け加えた言葉の薄弱さを自覚しながら、俺は妹の顔を緊張しながら観察した。


 約束を先に破った俺が、自分勝手に妹の生活環境を変えようとするなど、いくらなんでも傲慢すぎる。


 さらに墨刀ぼくとうの危険性も顧みないこの発言は、無神経で、無鉄砲で……愛してくれる人の心情に無配慮であった。


「いやな訳……ないじゃないですか」


 それでも、妹は消え入りそうな声で呟いてくれた。


「お兄様さえいれば、他のものなんていらない」


 まろやかな声とは対照的に、燃え上がる線香花火のように躍動している眼差しは、彼女の揺ぎ無き灼熱な信念を語ってくれた。


 その言葉を、何らかの形式で、細心の注意の払いながら、やんわりと否定しないと、妹はしばらく今の社交スタイルを保つことは簡単に予想される。


 大学に入って、ひいては社会人になったら、妹のためにはならない。


 それでも。


「……ありがとう」


 それでも俺は、ありがとうとしか言えなかった。


 そうだとも。俺だって一緒にいたいよ。それが何の飾りもない本心。


 三年も我慢させられていた、「兄(妹)と一緒に楽しく遊びたい」気持ち。


 単純で、強烈な、子供たちの願望。


 紅華が俺を大事に思っているだけではない。


 学校の時間で、せっかくまた親密になった妹と離れ離れになる。


 たまには休み時間でお互いの教室を訪れ、他愛のない会話をしたり。


 お昼で一緒に食事をしたり。


 同級生にシスコンと笑われたりしながらも、紅華のことをこれでもかというほどに惚気たり。


 殺気立つ紅華に「その女の人は誰ですか」と、高々一緒に体育用具を片付けた程度の付き合いしかない同級生との関係を詰問されたり。


 そんなこともしばらくはできないだろう。そう思うと、苦痛で仕方がない。


 それ故、俺の「背信」は人に損をさせて尚自分の得にもならないことであり、今妹がしているように軽々しく許されていいものではない筈だ。


「どうやら今日のお題から離れすぎていたようですね、お兄様」


 支離滅裂になりつつある俺の陰鬱な思考と居間に充満している抑圧的な空気を粉砕したのは、思いやりの心をこの世で一番持っている俺の妹の挑発的な笑みだった。


「登校時間まであと二十五分。今からでも、私のパンツについての話題は論文が書ける程に語れる筈です」


 俺にチャーミングな笑みを見せながら、妹はゆっくりと席に着いた。

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