第3話 兄妹の約束.1
「ではパンツに関する話題を歓談しましょう。三十分ぐらい」
二人ともテーブルにつき、妹が準備してくれた朝食を摂ろうとした時、彼女はあたかも当然のように言ってきた。
ちなみに、紅華からその三種の神器を没収し、とてもお淑やかなミディ丈のスカートと白パンツに着替えさせた。文句を言わなかったのでいい子だ。
「さっきの漫才を引っ張る気なのか……」
「引っ張るとは何事でしょうか。兄妹の大事な約束です。一生忘れません」
「そこまで重く受け止められてもな……えっと、第一巻のキーパーソンである、一時間後に俺と邂逅するであろう序章で言及していたあの少女が登場する前に、妹のタイツや俺の半裸裁判に纏わる話で既に七千文字ぐらい使ったんだけど。後大事なところなんだが、さっきのあの七千文字が進行していた中で、フルチンでありながらも妹と普通に会話していたところに何故誰もツッコまなかったんだよ!最初のところで俺が必死に作り上げたバトル物の雰囲気やシリアスの中二展開の予感とか、全部まとめて妹のエロアタックと涙と一緒に流れていったんだけど!」
「そんな物を求める者はいません。流されて当然です。今大事なのは妹のパンツではないでしょうか」
「いや、流石に妹のパンツの重要性は物語の本筋より劣ると思うが……」
弱気に言ってみたところ、それは妹の絶大なる不満を買った。
数秒間、ピーナッツバターをトーストに塗る動作をフリーズした後、紅華が面を上げて射ってきた殺人視線に、俺は思わず正座した。
「それはどういう意味でしょうか?」
トーストとジャムナイフを放り投げ、妹は雷霆の勢いで立ち上がった。
彼女の全身に恐ろしいオーラを纏い、室内なのに、何故かその髪は風に吹かれているようなイメージを幻視した。
「お兄様は私のパンツになんら興味もありません、ということですか?」
紅城紅華、十六歳。
「兄が自分の下着に高度な執着を示していない」ことについて、厳正なる抗議をした。
ちょっと待った。何か若干ズレているぞ。
普通の兄妹はこんなじゃないような気がするんだよね。
兄として、妹に正しい大人の姿勢と人生観を示す責任がある。
ここは、優しくも兄の威厳を失わないよう、柔和な口調でしっかりと妹の間違いを正すべきだ。
なので俺はテーブルをパンっと叩いて立ち上がり、
「ふざけるな!お兄ちゃんがあなたのパンツに対する好奇心を失うことなど、後五十年は起こらんわ!」
全力で言い放った。宣言した。宣誓した。
紅城楠、十七歳。
「妹の下着に対する興味は後五十年は持つ」と峻厳なる声明を発した。
うん、認めよう。妹の性格の歪みは一部、俺のせいかもしれない。
ほんの一部だけどね。
「お兄様の気持ちは嬉しいのですが、四十九年後、六十五歳になった私のパンツにも多大な興味を示されたら、流石の私もそれなりに困ると思います……社会的なイメージも最悪ですし……」
紅華は両手で口元を塞ぎ、「妹は心配です」という目線を送ってきた。
おい。その両手の仕草は別に女の子的な驚愕と恐れを表しているのではなく、ただほくそ笑む口元を隠しているということぐらい、お兄ちゃんは知っているんだぞ。
何なんだこいつ。釣った魚を突いたりしていたぶる趣味かな。
社会的なイメージもなにも、妹とパンツの話題を歓談できる時時点でもうとっくに最悪だよ。
「それで、私があれ程懇願したのに、お兄様が頑なに転校を辞めなかった理由は、何だったのでしょう?」
……心行くまで兄をいじめた後、妹は当然のように話題を変えた。
しかもまた、こういう俺が明らかに劣勢になるような話題を。
「せめて高校卒業までは、お兄様と一緒にいられると思っていました」
淡々と語る妹に、返す言葉は見付からなかった。
当たり前だが、紅華がさっき言っていた「兄妹の大事な約束は一生忘れない」というのは、このための伏線だろう。
俺が登校するまでの間、二人で何か本当に下らなくて、痛くも痒くもない話題を見付けて、楽しい朝を過ごすことも出来たのだろう。
でもいずれ処理しなければならない問題は、早めにやっといた方が気楽でいいんだ。
……そうだ、俺が。
「あなたが逆にお兄ちゃんを守れるようになるまで、お兄ちゃんが守ってあげよう」
そう、言っていた。
具体的に言えば、彼女が一人で人間関係を円滑に進めることが出来、かつ外での言行をちゃんと制御出来るまで、俺がずっとすぐそばにいて、一緒に青春してやろうと。
遠い昔に約束した。
そして別に遠くはない昔にも、約束し直した。
なので俺の転校はある程度「背信」であり、
「約束を破る」ことであり、
「裏切り」でもある。
紅城家的な言い回しをすると、「刑に処すべき」ことだろう。
妹は今でも俺以外の人間と上手く付き合えず──半年前は俺でさえもまともに会話が出来なかった──、本気で友達だと言える人間も多分一人もいないだろう。
冷たい態度のせいで他人との口論になりやすいし、それがエスカレートしていくと、ついつい手を出してしまうのが紅華だ。
勿論相手が余程悪質じゃなければ紅華も武力行使に走ることはないが、「やるならとことんやる」がモットーみたいな性格なので、一度そういう状況になれば大事になる。
基本的に、手を出したくなるような人間なら、病院送りにしないと気が済まない性質だ。
……彼女が負けるっていうことは正直考慮していない。紅華にすら勝てるような人間ならすなわち彼女の力量を図れる人間。そもそもそういう状況に発展しないだろう。
紅華がいじめられるより、正直彼女が別の誰かをボコるのはギリギリよしとしても、社会的にそんなんじゃだめってことぐらい分かる。
そんな未だ不安定な妹を放置し、俺はやはり転校を選択した。
神崎さんの口から「カンザクラコウコウ」という言葉を聞いた瞬間、脳裏はあの男の映像で埋め尽くされた。
壊れた映写機のように、色鮮やかな、光度鮮烈な映像だった。
俺の上に何かの意識があって、それが俺の代わりに決断をしたかのように、俺は転校手続きを済まし、転校試験と資格試験の件も神崎さんが働きかけてうやむやにした。
妹を放っておくつもりは当然ないし、彼女がもう「大丈夫」、「一人でもやっていける」という独りよがりの感想も勿論抱かない。
ただ自分のやりたいように、あの大金を手に入れた後、勝手に、何の前振りもなく決めた。
「やはり夏休みの件と関係があるのですね?」
しばらくして、黙り込む俺を見て、紅華は静かに訊いた。
俺にプレッシャーを掛けたくないし、軽々しく甘えたくない。
そんな思いは、彼女のか細い声から伝わってくる。
ただ、知りたい。納得したい。
違う学校になるだけど大袈裟だなと、誰もが言うのだろう。
でも俺たち兄妹にとって、それは些事ではないんだ。
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