第1話 フルチン裁判.1

「お兄様」


 断片的な思考から俺を現実に呼び戻したのは、妹の氷のような声だった。


「今日は新学期の始まりですよね。それで、朝から何をなさっていらっしゃいますか?」


 そのあまりにも冷たいトーンで、俺は思わず自分を顧みた。


 俺が視線を下げると、即座に彼女が見たものを理解し、そしてまさに今彼女が推測していることも大体分かる。


「何故うちの兄は朝っぱら『全身に』シャツ一枚しか着ていない状態で、パソコンの前に座っているのでしょう」


 ざっとこんな感じのはず。


「違うんだ。聞いてくれ、紅華べにか


 否定から入る俺であった。


「人間とは視覚情報に騙されやすい生き物なんだ。見た情景がそのまま真実である場合の方がむしろ稀だろう。それだけを頼りに物事を判断するのは愚者のすることであると言わざるを得ない」


「はい」


「両目で情景を受信し、情景が脳裏で映像となり、そして映像が脳によってその意味を解析されるという一連のプロセスは、今の人類の科学力ではまたその全貌を解明していないと思われる」


「それなりにしていると思います」


「いやしていない」


「そういうことに致しましょう」


「ありがとう。それで、合理的な科学的解釈がない以上、我々は理性を用いて、目が受信した情報を思弁するしかないと思うんだ」


「はい」


「つまり、何らかの『現象』を意味づけるということは、観測、分析、理解を経てやっと辿り着ける終着点であり、観測から直接結論に飛躍するのは、聡明であるあたなが選択すべきやり方ではない、ということだ」


「はい」


「俺が知っている紅城紅華あかぎべにかは、頭脳明晰、容姿端麗、スポーツ万能と名高い高スペック女子で、俺の自慢の妹だ。まさかそのような愚かなことをするとは思えない」


 俺は極めて冷静に妹を善導し、理知的なポーズで眼鏡をクイッと直す。


 でも俺はそもそも眼鏡をかけていないことに気付いていないので、結論から言うと自分で自分の目を二回も指で刺しただけという、不本意ながら、何かやましいことを隠そうとするマヌケな人に見えたのかもしれない。


 そのような事実は一切ないのに。


「そうですか。お兄様の言う通りかもしれませんね」


 穏やかな声で紅華は答え、俺のベッドの上に座り、黒タイツで覆われているその艶やかな美脚を組んだ。


 俺に優しげな視線を配りながら、紅華は首を傾げ、その滑らかな黒髪を優雅な手つきで掻き上げる。


 ヤバイのかもしれない。いや実際ヤバイ。


 こういうポーズを取ると大体俺が何かしらのお仕置きをくらう流れになる。


「そうだとも紅華。それでいい。何事にも冷静に、理性的に、」


 俺は彼女の言葉を拾い、そのまま会話を展開する試みをしたが当然のように無視された。


「では僭越ながら、今の状況の合理的な説明を、この私が試みましょう」


「いやいや、紅華。過去のことなど水に流そうではないか。何かに執着しすぎると、人間は老化する速度を増すと言われているんだ」


「現在進行形ですが」


「過去ってことにしてくれないかな」


「そういう訳にもまいりません。目の前に探求すべき知識があり、発掘すべき真理がある時、それから目を背けるのは頭脳明晰、容姿端麗、スポーツ万能と名高い高スペック妹が取るべき行動では断じてありません」


 うむ。俺の言葉で俺を口撃することに、相変わらず手慣れている妹であった。


「では状況を整理しましょう。状況はこうです。時刻は朝五時。登場人物は十六歳の妹と十七歳の兄。場所は兄の私室です。重要物件はシャツ一枚、パソコン一台、ティッシュ一箱があります」


「異議あり!裁判長様、そのティッシュの箱は従来テーブルの上にあったし、さっきも俺がティッシュへと手を伸ばす意図は認められなかった」


「いいでしょう。認めます」


「ふう……」


「喜ぶのはまた早いですよ、被告人。自分で弁護することが許されていても、あなたがいまだ被告の席に立たされている現実に変わりはありません」


 手厳しいな、我が妹は。


「事件の発端はこうです。検事兼裁判長兼陪審員兼証人の責任感溢れる素敵な妹は、」


 おいおい。それ審判も主催者もスポンサーも自分の味方ですと宣言しているようなもんでしょ。それゲームになるのかちゃんと。


 素敵な妹の部分は同意するが。


「兄、すなわち被告兼弁護人が新学期の初めの日で遅刻しないようにと、わざわざ一時間も早く起こしにやってまいりました」


 いや、そこは被告だけでいいから。蛇足になるよ。


「妹が兄を起こそうと息巻いていたその時、事件は起こりました。ドアが開け放たれたその瞬間、妹はとんでもないものを目撃したのです」


 紅華はその目じりが少々吊り上げている、大人の色香を放つ瞳を細めた。


「彼女は、兄が名状しがたい自主発電行為に勤しむ姿を目撃したのです」


「異議あり!『名状しがたい自主発電行為』というのはあまりにも曖昧な言い方だ!罪名にはなりえない!」


「そんなにも私に言わせたいのですか、お兄様?どこら辺がコイルでどこら辺が主軸とか、そんなにも一々説明させたいのですか?妹にそんな卑語を強要する兄は人としての道を既に踏み外していると思います」


「……そのような発電行為をした覚えはないのだが、説明するのはやめていただこう。裁判を再開しよう、裁判長様……」


「よろしい。私も無暗に罪名を宣告した訳ではありません。今しがたお兄様が言及した、『現象』を意味づけるプロセスの三つのステップを踏んで、最初から事象を見ていきましょう。まずは『観察』。見たところ、十七歳の容疑者がパソコンのモニターにその視線を集中し、右手はマウスを握り、左手は何もせず、テーブルの上に置かれていました。容疑者の上半身は汗に濡れたシャツ一枚を着用しており、下半身は何も着ていませんでした」


「そこだ!そこが肝心な証言だ!」


 俺が左手に関する証言を指摘したいと思ったその時、妹は動いた。


 紅華は眉毛を吊り上げ、組んでいる両足を違う方向に組み直した。


 ……一瞬でしかない、そのタイツの下で隠されている精美なパンチラ風景で兄の思考時間を奪う作戦だと思うが、危険なだけの無駄なことと知れ!


 第一、これはまだアニメ化されていないのだから、お兄ちゃんは一時停止してそれを鑑賞することが出来ないので、細部のところは何も見えないんだ!


 それと、あなたのパンツなど、お兄ちゃんはちっとも関心を寄せていないんだ!


「セクシーな黒パンツだとおおおおおおおおお!許さん!お兄ちゃんは絶対に許さんぞ!そのパンツで学校にいくことは許さん!紅華、どこでそのような挑発的な下着を身に着けることを学んだんだ!あなたに黒パンツを売った奴を教えてくれ!お兄ちゃんがちょっと決闘を申し込んでくる!」


 ……すみません。細部までは分からないが、色ぐらいは分かるんだ。


「被告人、話題を逸らさないでください。私のパンツの色と、私にパンツを販売してくれた方と、何故お兄様の部屋にくる前に、お兄様の性癖ドストライクのタイツ、黒パンツ、そして以上の二つの装備の殺傷能力を最大限に引き上げる魔法のアイテム:長さを精密に計算したミニプリーツスカートを装着したのかについての話題は、朝食時にまだ三十分ぐらい歓談する時間がありますので、今はさっきの状況を正確に再現することの方が肝心です」


 なるほど、パンツの話題を三十分も盛り上げるつもりでいるのか。


 しかもその三種の神器は俺を狙って装備しているのか。


 あと何でそんなに自信満々に兄の性癖について詳しく語っているのか。


 まあいい。とりあえず、お兄ちゃんは今すぐその正常な高校男子の理性を蒸発させる、蠱惑的な黒パンツとタイツを剝いて、純白でおしとやかなパンツに着替えさせる衝動をグッと抑え、さっきの論点に戻るとしよう。

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