第6話 ゆうやけいろ
しばらくの間、奈々実は夕希の後ろ姿を遠目から見つめていた。夕希はこうべを垂れ、席を立つ気配もない。
奈々実もまた、動き出すきっかけを掴めずにいた。
何か声をかけなくては。でも、どうやって?
グラウンドから金属バットがボールを打つ音が響いてくる。音楽室では金管楽器の通し練習が始まったらしい。黒板の右上にある丸い掛け時計はゆっくりと時を刻んでいた。
いつまでもこうしているわけにはいかない。時計が四時半を指したのを見てから、奈々実はようやく立ち上がった。
金魚のキーホルダーはロッカーの前に転がっていた。千切れた鎖をそっとつまんで持ち上げ、夕希の元へと向かう。
「ゆうきちゃん、これ……」
両の手のひらに乗せたキーホルダーを、おずおずと差し出す。
「うん……」
夕希は小さく返事をしたものの、視線を落としたまま、キーホルダーを受け取ろうともしない。
奈々実はそれを机の上の、ランドセルの隣にそっと横たえた。
「これ……キーホルダーの輪っかのとこだけ、手芸屋さんで売ってるから、それを付ければ……」
元どおりになる、と言おうとして、奈々実ははっとした。
オレンジ色の金魚に、ひびが入っていたのだ。
夕希の表情は暗く沈んでいる。胸がきりりと痛んだ。大谷たちのことを、許せないと思った。
「ゆうきちゃん、先生に言おうよ」
その言葉に、夕希は首を振る。奈々実は続ける。
「でも、こんなのひどいよ。色鉛筆のことだって……」
色鉛筆、と聞いて、夕希は少しだけ顔を上げた。
「いいよ。だって、もし、お母さんが知ったら……」
か細い声。その呟きとともに、夕希の目からぽろりと一粒、涙がこぼれた。それを合図にして、まるで堰を切ったように、たくさんの涙が次から次へと溢れ出てくる。
ランドセルを抱き込み顔を伏せてさめざめと泣く夕希を前に、奈々実は立ち尽くした。
お母さんが知ったら——。
その気持ちは、痛いほどよくわかった。前の小学校のとき、仲の良い子とクラスが分かれてしまい、しばらく一人ぼっちになってしまったことがあった。それを絶対に親には知られたくなかったのだ。いじめを受けていることなんて、なおさらだろう。
夕希が洟をすする音の合間を、調子はずれの合奏の音が横切っていく。
奈々実は一つ前の席の椅子を反対向きにして、夕希と向かい合わせに座った。
やがて、少し涙の落ち着いた夕希が、わずかに身を起こした。
奈々実はポケットに入っていたハンカチを差し出す。すると、夕希は驚いたように顔を上げ、濡れたままの目で奈々実をまじまじと見つめた。久しぶりに視線が合った気がした。
「これ、使って」
奈々実が言うと、夕希はまた一瞬泣き顔になった。
「あ、ありがとう」
受け取ったハンカチで涙を拭った夕希は、まるで独り言のようにぽつりと呟いた。
「やっぱり、ななみちゃんは優しいな……」
「……そんなこと、ないよ」
奈々実の反論に、夕希が小さく笑みを浮かべる。
「あのね、わたしね、ななみちゃんを初めて見たとき、すごい優しそうな子やなぁって思ったんや」
夕希の視線が、再びわずかに落とされる。
「だからね、わたし……どうしても、ななみちゃんと友達になりたかったんやぁ……」
一瞬、息が止まりそうになった。
夕希のその言葉は、奈々実の心に深く深く突き刺さった。
そのときになって、奈々実はようやく気づいた。自分がいったい、夕希に何をしたのかということに。
「帰る方向がおんなじだって、嘘言ってごめんね」
そんなこと。奈々実はただただ首を横に振る。
あの日。新しい学校生活が始まって間もないころ。夕希が帰り道を走って追いかけてきた、あのとき。
奈々実が転校してきてくれて嬉しいと言ってくれた。仲良くなったしるしにと、宝物のキーホルダーを見せてくれた。
今、机の上に横たわるオレンジ色の金魚には、消すことのできないひびが入っている。
奈々実は思わず、両手で顔を覆った。
ねぇ、違うんだよ、ゆうきちゃん。
わたしは全然、優しくないんだよ。
いじめっ子の大谷たちでも、知らんぷりするクラスメイトたちでもなく。
夕希をいちばん傷つけたのは、他でもない、奈々実なのだから。
『センダ菌』などとひどいあだ名を付けられて、仲間はずれにされていた夕希。
やっと仲良くなったはずの奈々実から、他の子と同じように避けられて、どんなにショックだっただろうか。
夕希を見捨てておいて。
大谷たちから理不尽に責められる夕希を、何もせずにただ遠くから眺めておいて。
同じ痛みを感じた気になるなんて。今さら優しいふりをするなんて。
最低だ。最低の、卑怯者だ。
「ななみちゃん?」
名前を呼ばれて、顔を上げる。戸惑ったような夕希の目を、見つめ返す。
謝らなくちゃ。言わなきゃいけないことが、たくさんある。
知らない人ばかりの新しい教室で夕希が声をかけてくれて、すごくほっとした。
休み時間にお絵描きして遊んで、楽しかった。
友達になってくれて、とても嬉しかった。それなのに——。
わたしは、優しくなんかないよ。
何も優しさから、ゆうきちゃんと一緒にいたわけじゃないんだよ。
伝えたい言葉は、ひとつとして出てこなかった。
目の奥が熱い。
涙を堪えようと思えば思うほど、息が詰まって、ますます声が出せなくなった。
「ごめ……さ、い……」
ようやく、どうにかそれだけを言うと、とうとう大粒の涙が溢れた。
「ななみちゃん、どうしたの? なんで泣いとるの?」
心配そうな夕希の声が、心を締めつける。抑えようとしても抑えられず、奈々実はしゃくり上げながら泣いた。
こんな自分が、嫌で嫌で仕方なかった。
「ななみちゃ……」
夕希がまた涙声になる。そして今度は、わぁわぁと声を上げて泣き始めた。
しばらくの間、放課後の教室に、二人の泣き声だけが響いていた。
涙が乾き、呼吸を整え、目の充血が治るのを待ってから、二人揃って教室を後にした。
既に部活動も終わっている時刻だ。廊下にも階段にも人影はなく、学校じゅうが静まり返っていた。
西日の差す昇降口を出て、立ち止まる。
奈々実は東門、夕希は西門だ。ここで別れるべきか、それとも今度は自分が西門から出て夕希と一緒に帰るべきか。
奈々実が迷っていると、夕希が先に口を開いた。
「それじゃあ、またね」
「あ、うん……じゃあね」
つられて、そう切り返す。夕希は暗い顔をしたまま、早々に立ち去ろうとしていた。
奈々実は思わず呼び止める。
「あっ……ゆうきちゃん! あ、あの……また明日ね!」
少しだけ振り向いた夕希は、小さな声で「ん……」とどちらともつかない返事をした。
だけどそれ以上にかける言葉も見つからず、奈々実はそのまま呆然と夕希の背中を見送った。
やがて奈々実も、ゆっくりと自分の帰路を歩き出した。地面に伸びた影が、がっくり肩を落としている。胸の中をもやもやしたものが渦巻いていた。
また明日、なんて。言うべきことは、もっと他にもたくさんあったはずだ。
わだかまりを吐き出すように、深く息をつく。うっかり気を抜いたら、また涙がこぼれてしまいそうだった。
好きなものを好きと、楽しいことを楽しいと。ただ口に出すだけのことが、どうして自分にはこんなにも難しいのだろう。
それどころか「ごめんなさい」のひと言さえも、結局うまく伝えることができていない。
思ったことを素直に言葉にできる夕希が、羨ましかった。
明日、ゆうきちゃんが学校に来なかったらどうしよう。
そう思ったら、堪らなく寂しかった。
奈々実は足を止め、肩越しに夕希をかえりみる。
眩しい太陽の光に、一瞬、目を細める。
そのとき心臓が、どくんと脈を打った。
ちょうど夕希のほうも、こちらを振り返るところだったのだ。
少し距離を置いて、再び視線が合う。
夕希の、驚いたような目。きっと自分も同じような表情をしているはずだ。
どちらからともなく、ふっと頬が緩んだ。柔らかな風が駆け抜けていき、お互いの笑みが深くなる。
とくとくと心に血が通い、ほのかに胸があたたかくなった。
二人同時に振り向いたのが、なんだかおかしくて。なんだかとても、嬉しくて。
喉の奥がぐっと詰まりそうになる。だけどしっかりと顔を上げ、お腹から声を出す。
「バイバイ、ゆうきちゃん! またね、また明日ね!」
奈々実は手を振った。どうかまた明日、会えますように。そう願って、大きく大きく手を振った。
「……うん、また明日!」
久しぶりに聞いた、張りのある高い声。なぜだか今日はそれが、心地よく耳を打つ。
泣き笑いのような顔で手を振る夕希の姿が、じわりと滲んでいく。その頭の上では、傾き始めた太陽が、西の空を淡いだいだい色に染めていた。
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