第5話 くらやみいろ

 次の日は、さすがに夕希も話しかけてはこなかった。

 大谷たちがこちらのほうを――恐らく夕希のことを――ちらちらと窺いながら内緒話をしては、くすくす笑っていた。

 他の子たちは相変わらず、我関せずといった具合にそれぞれでおしゃべりをしている。

 『暗黙のルール』に従った奈々実は、教室の真ん中で一人ぼっちだった。


 その日は四月最後の平日で、一時限目の学級会では初めての席替えがあった。

 くじ引きで決まった奈々実の新しい席は、廊下側のいちばん後ろだ。

 夕希は窓際の席になった。運の悪いことに、その後ろは大谷だった。

 机を動かすとき、大谷が大きな声で「最悪なんやけどー!」と叫んで、また渡辺先生から注意された。


 教室の端に移動して夕希と離れ離れになった奈々実は、何かから解放されたような気持ちだった。これで夕希と関わることも、そして関わらないようにすることも、敢えてする必要がなくなったわけだ。

 新しい席から、教室を見渡す。夕希のいる窓際がひどく遠い。明るい光がカーテン越しに注ぎ込んでいたが、奈々実の心はしんと冷え切っていた。

 結局、夕希と口をきくこともないまま、ゴールデンウィークに入った。



 あっという間に連休が終わり、五月が始まった。半袖姿の子も増え始め、窓から見える鮮やかな新緑と初夏の強い日差しで、教室は爽やかな雰囲気だ。

 休み明けしばらくは夕希とのことが心に引っかかって、奈々実は憂鬱な気分を引きずっていた。しかし席が遠いので、あれから話をする機会はなかった。淡々と過ごすうちに、あの痛みもだんだんと薄れていった。


「杉浦さんて、絵描くの好きなの?」


 ある日の休み時間、そう話しかけてきたのは、大人しそうな感じの二人の女の子だった。

 奈々実がうなずくと、二人は嬉しそうな顔をした。


「良かったら、一緒にお絵描きしない? うちんらね、一回杉浦さんとしゃべってみたかったんや」

「でも杉浦さん、いつもずうっと千田さんと一緒におったから」


 ね、と二人は顔を見合わせる。そこに含まれる何かを感じ取って、奈々実の心の内をさっと暗いものが横切っていった。

 だけど、自分と仲良くなりたいと思ってくれたことは純粋に嬉しかった。一人で取り残されていた奈々実に、手を差し伸べてくれたのだ。救われたような気分だった。


 二人とは漫画の話もできた。あの新連載の主人公を描いてみせたら、「似てる」と感心して褒めてくれた。それ以降、その子たちと一緒に絵を描いて過ごすことが多くなった。


 正直なところ、奈々実はほっとしていた。

 これで自分も、このクラスに紛れられた。いじめっ子でも、いじめられっ子でも、一人ぼっちでもない。『その他大勢』の中に入ることができた。

 もう周囲の目を気にする必要なんてないのだ。こうしていれば、この教室で安全に生きられるのだから。


 だけど、色鉛筆を使おうとするとき、どうしても夕希のことを思い出した。遠く離れた席の夕希は、いつも一人で絵を描いていた。

 今も肌色の代わりにだいだい色を薄く塗っているのだろうか。そう考えたら、胸の奥がぐっと詰まった。でももう、今さらどうしようもないことだった。

 そうして奈々実は、後ろ暗い気持ちを隠しながら、表面的には平和な日々を送ったのだった。

 あの事件が起きるまでは。



 五月も半ばに差しかかったある日のことだった。

 帰りの会が終わり、渡辺先生が教室を出ていって、みんなが席を立ち始めたころ。


「ちょっとぉ、あんた何してくれとんのやて!」


 突然、大きな声が響き渡った。

 教室じゅうの誰もが動きを止め、ざわめきがぴたりと静まり返る。

 奈々実もびっくりして、声のした窓際のほうに視線を向けた。見れば大谷が、前の席の夕希に食ってかかっているところだった。


「あんたさっき、わざとプリント落としたやろ」


 大谷は前側に回り込み、腕組みして仁王立ちで夕希のことを睨みつけている。奈々実の位置からでは、夕希の表情は見えない。


「えりかちゃん、どうしたの?」


 いつもの二人が駆けつけてくる。夕希はたちまち三人組に取り囲まれる形となった。


「さっき帰りの会んときプリント配られたやん。千田さんがうちに回すとき、わざと取りにくくして下に落としたんやて」


 えー、何それー、と他の二人が声を揃える。夕希は首を横に振った。


「違う、それは、大谷さんが急に手を引っ込めたから……」

「はぁ? 何? うちのせいやって言いたいの?」


 強い語気に、夕希は口ごもる。


「言っとくけどさ、プリント全部落ちたから、こっから後ろの席の人みーんなに迷惑かかったんやからね。うちだけやなくてさ。あんた、それわかっとんの?」


 窓際の列の、大谷より後ろの席の子たちは、素知らぬふりをしている。そのうち一人はそそくさとランドセルを背負って教室を出ていった。


「えりかちゃんに謝んなよ、千田さん」

「えりかちゃんだけやなくて、後ろの席の人全員に謝ってよ」

「でも……」

「でもやないて! 言い訳すんな!」


 大谷が、ぴしゃりと言い放った。

 夕希はうつむき、机の上のランドセルに付いている金魚のキーホルダーを右手でぎゅっと握った。


「黙っとんなて」

「何か言えって」

「人に迷惑かけといてその態度とか最低やね」

「ふざけとるわ」

「ちゃんと聞こえとんの?」

「それか、言葉の意味がわからんの?」

「ほんっとムカつくんやけど」


 責めの言葉が容赦なく浴びせられる。夕希が黙り込めば黙り込むほど、三人の口調はどんどん厳しくなっていく。キーホルダーを握ったまま、夕希はじっと耐えていた。


「あぁ、もう、そんなもんばっか弄っとんなて! こっち見なよ!」


 ひときわ声を荒げた大谷が、夕希の右腕を掴んだ。ご丁寧に、服の袖があるところを選んで。

 しかし夕希は頑なに下を向いたままだ。大谷が、掴んだ夕希の腕を乱暴に揺すり始めた。


「何とか言いなよ! さっさと謝れ!」


 夕希は口を閉ざし続ける。どれだけ揺すられても、キーホルダーを離そうとはしない。


「いい加減に……!」


 大谷がさらに息を巻いたときだった。

 ぷつり、と。

 鎖の切れる音がした。


「あっ……」


 驚いて力を緩めた夕希の指から、千切れたキーホルダーがすっぽ抜ける。

 オレンジ色の金魚は、放物線を描いて教室の後ろのほうへと飛んでいった。


「あっ、やばっ」


 大谷が、しまった、という表情をした。他の二人は、ちらちら視線を交わし合っている。


「……あんたが悪いんやからね!」


 捨て台詞を吐いた大谷は、「行こ!」と二人を連れ立って、足早に教室を出ていってしまった。

 さぁっと波が引くように静寂が訪れたあと、いつもよりも控えめな下校時のざわめきが戻ってくる。

 席に座ったままの夕希は、身じろぎひとつせず、ランドセルに残った鎖をじっと見つめていた。


 奈々実もまた、自分の場所から動けずにいた。まるで罵りを受けたのが自分であるかのように、心がズタズタだった。

 どうしてあんなにひどい言いがかりを付けられるのだろう。大谷たちの神経が理解できなかった。


 一人、二人と荷物をまとめて、教室から去っていく。席を立たずにいるのは、奈々実と夕希だけだ。

 他の誰もが、何ごともなかったかのように帰っていってしまう。まるでこんなふうに痛みを感じることすら、ルール違反だとでも言うように。

 やがて教室には誰もいなくなり、野球部のかけ声や吹奏楽部の楽器の音が聴こえてきた。

 取り残された奈々実と夕希は、二人とも一人ぼっちだった。

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