第4話 きりさめいろ

 同じようないじめは、東京の小学校でもあった。特定の子におかしなあだ名を付けたりして、仲間はずれにするのだ。

 ターゲットは、必ずしも何か明確な理由があって選ばれるわけではない。

 言動が変わっている。

 持ち物がみんなと違う。

 先生に気に入られようとして良い子ぶっている。

 なんとなくムカつく、気に入らない。そんなはっきりしない理由でリーダー格の子から目を付けられることで、それは始まる。


 確かに夕希には、少し変わったところがある。最初は奈々実だってそう思った。独特のしゃべり声や笑い方、そんなちょっとした特徴が、あの大谷たちには気に食わなかったのかもしれない。

 漫画雑誌を何も買っていないと言った夕希。あのときの様子に、奈々実は今さら合点がいった。みんなと同じではないということは、夕希を仲間はずれにする格好の材料だったに違いない。

 歯抜けになった色鉛筆セット。たぶん嫌がらせで抜き取られたのだろう。だから、だいだい色を肌色の代わりにしていたのだ。


 ごみ捨て係に付き合わされている奈々実を『可哀想』だと、夕希なんかと一緒にいる奈々実を『優しい』と、大谷は言った。

 そのことがどうしてだか、とてもショックだった。


 杉浦さんも、あいつには気を付けやぁよ。

 あの言葉は、親切心からだろうか。

 いや、違う。あれは――。

 胸の中に、ひやりとしたものが入り込んでくる。

 奈々実を気遣うかのようなセリフ。

 その端に載せられた、夕希への蔑み。

 三人の大きな笑い声。様子を伺う、他の女子たち。

 交わされた言葉に含まれた毒が、すうっと溶け込んでいくような教室の空気。まるでそれが暗黙のルールだとでも言うように。

 ――あれはつまり、警告なのだ。

 みんなが守っているルールに従わなければ、次はお前がターゲットだ、という。



「ななみちゃん、おはよー!」


 翌朝。風邪の治った夕希が、いつものように挨拶してくる。


「あ、うん、おはよ……」


 奈々実は首だけをわずかに夕希のほうに動かし、しかし後ろを向くことはせずに、小さく返事をした。すぐに机の上に視線を落とし、教科書を読むふりをする。

 教室のざわめきが、ふいに途切れる。大谷のグループや他の女子たちが、奈々実のことを監視しているように思えた。無意識に呼吸が浅くなる。

 幸い、すぐに渡辺先生がやってきて、朝はそれ以上に夕希から声をかけられることはなかった。


 しかしやはり、休み時間がくるたびに、夕希は背中をつついてくる。


「ななみちゃん、お絵描きしよ」


 さすがに断り続けることもできず、奈々実はおずおずと振り返った。いつもどおり、夕希の机に自由帳を広げて絵を描き始める。


「ね、また肌色貸して」


 夕希からそう言われ、奈々実は返事に詰まった。今までであれば、気にせず貸せた。しかしあの警告を受けたあとでは、自分の持ち物を夕希に貸すことがいったい何を意味するのかを考えると、ぞっとした。


「……ごめん、今からちょっと、肌色使いたいから……」

「うん、そっか」


 歯切れの悪い返事にも、夕希は気を悪くした様子もなく、色塗りを続ける。ほっとすると同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。


 その日、帰りの会が終わると、奈々実は早足で教室を後にした。しかし東門を出てからさほども行かないうちに、後ろから甲高い呼び声が追ってきた。


「なーなーみーちゃーん!」


 あぁ、もう。無視することもできず、奈々実は立ち止まった。ブレーキのかからない心臓だけが、どくんどくんと体を急かす。


「ななみちゃん、待って!」


 回り込んできた夕希が、膝に手をついて息を切らせている。呼吸が落ち着いたころ、再び夕希が口を開いた。


「ななみちゃん、そんな急いでどうしたの?」

「うん、ちょっとね……」

「ね、今日ちょっと元気ないことない? 何かあったの?」


 奈々実は黙って首を振った。心配そうに覗き込む夕希の目を見ることができなかった。


「そっか……ね、一緒に帰ろ?」


 頷きかけて、動きを止める。

 ランドセル姿の誰かが、二人を追い越していった。

 誰かの視線が奈々実に問いかける。お前はそいつと一緒に帰るのか、と。


「あの、ゆうきちゃん」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


「ゆうきちゃんちって、西門のほうだって、ほんと?」

「えっ……誰に聞いたの?」


 ぎょろりとした目が見開かれる。奈々実は答えず、うつむいた。


「あのね、でも、大丈夫やよ。こっちから出たってそんなに距離変わらんし。やで、一緒に帰ろ!」


 ひときわ明るい夕希の声。奈々実は口を引き結び、足元を暗く染める自分の影に視線を落としていた。

 沈黙を破ったのは、夕希のほうだった。


「えっと、あの……わたしのこと嫌いになった?」


 その声はわずかに弱くなっていた。奈々実は小さく首を振る。


「……ひょっとして——」


 さらにもう一段、声が暗くなる。


「わたしが、『センダ菌』やから?」


 弾かれたように顔を上げた。夕希の静かな目が、奈々実をじいっと見つめていた。


 そうじゃない。『菌』なんてものは存在しない。

 ゆうきちゃんは『センダ菌』なんかじゃない。


 そう言いたかった。

 だけど、じゃあなぜ避けるのかと訊かれたら、何の言い訳も思いつかなかった。舌の根が強張って、言葉が出てこない。


「……ち、違うの」


 やっとのことで、それだけ言った。

 すると、ずっと奈々実に注がれていた夕希の視線が、すうっと地面へ落ちた。


「そっかぁ……」


 夕希はため息と一緒にそう吐き出して、ひどく悲しそうな顔をした。そして奈々実のほうを見ることもなく、くるりと背を向けた。

 その瞬間、オレンジ色の金魚のキーホルダーがランドセルの側面に当たって、かつんと音を立てた。

 宝物だと言っていた、仲良くなったしるしにと見せてくれた、あのキーホルダーだ。


「待って!」


 思わず口をついて出た。だけど、その先が続かない。伸ばした手も空を切る。

 夕希は足を止めることも振り向くこともなく、とぼとぼと行ってしまった。

 胸の奥が、千切れそうに痛んだ。だけどどうすることもできず、奈々実はその場に立ち尽くすだけだった。

 同じクラスの子が何人か、おしゃべりしながら奈々実を追い抜いていく。その笑い声が、痺れたような頭の中にぼんやりと響いていた。

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