第3話 あまぐもいろ
「ななみちゃん、絵めっちゃ上手やね!」
転校して三日目の休み時間。二人は机に自由帳を広げ、お絵描きをしていた。奈々実の絵を見た夕希が、目を輝かせてそう言ったのだ。
「そ、そんなことないよ」
「そんなことあるって! 将来漫画家になれるんやない?」
「えー、そうかなー」
そんなふうに褒められると、満更でもない。実は、絵にはちょっと自信があるのだ。
「そうやよ! この女の子めっちゃ可愛いもん。魔法使い?」
おや、と思った。奈々実はある少女漫画雑誌の名前を言った。
「ゆうきちゃん、まだ五月号見てなかった?」
「えっ?」
「これ、五月号から新しく始まった漫画の主人公なの。練習したから描いてみたんだ」
「あ、そうなんだ……」
夕希の顔が曇った。奈々実ははっとする。
「あっ、もしかしてゆうきちゃん、別の雑誌買ってるの?」
少しうつむいた夕希が、ちらっと伺うように奈々実を見た。
「あのね、ななみちゃん、わたしね……漫画の雑誌とか、何にも買ってないんや」
「えっ、そうなの?」
「うん、お母さんがだめって言うんや……」
これまで楽しそうな表情ばかりだった夕希が、見てわかるほどしょんぼりしている。
夕希の自由帳に描かれていたのは、何かの漫画のキャラクターではなかった。髪の長い、花柄のワンピースを着た女の子だ。アクセサリーや靴も凝っている。
わぁ、と奈々実は小さく歓声を上げた。
「ゆうきちゃんこそ上手じゃん。服の柄とかも、細かくてすごい。わたしもそういうの描いてみようかな。漫画のキャラじゃなくって、自分で考えたやつ」
夕希がぱっと顔を上げた。そして驚いたように目を見開いて、奈々実のことをまじまじと見つめている。やがてその表情は、きらきらした満面の笑みに変わった。頬はほのかに赤くなっている。
「あっ……ありがとう。そんなこと言われたの、初めてや」
奈々実はその反応を少し不思議に思ったが、夕希に笑顔が戻ったので、あまり気にせずにまたお絵描きを再開した。
「よし、色塗りもしよう」
新たに女の子の絵を描き上げた奈々実は、道具入れから色鉛筆セットを出した。
「……んじゃ、わたしも」
夕希もつられるように色鉛筆セットを取り出す。夕希はまず、髪の毛を黒で塗った。それが終わると、次にだいだい色を手に取った。そしてなんと、それで肌の部分を塗ろうとしている。奈々実は驚いた。
「ゆうきちゃん、それで塗るの?」
「うん、だいだい色を薄ーく塗ったら、肌色みたいに見えんかなって」
そう言って夕希は色鉛筆を寝かせ、芯の側面で薄く色を付けた。しかしやっぱり、だいだい色はだいだい色だ。
夕希の色鉛筆ケースの中身は、何本か歯抜けだった。肌色や青、ピンクなどが見当たらない。
「……ちょっとね、どっかに失くしてまったんや」
奈々実の視線に気づいた夕希が、あはは、と笑った。
「わたしの肌色、貸すよ」
奈々実が申し出ると、夕希は目を丸くした。
「えっ……いいの? ほんとに?」
「うん、良かったら他の色もいいよ。一緒に使お」
「わぁ……ありがとう! ななみちゃんて優しいね」
そしてまた、にっと歯を見せて笑う。奈々実は照れた。
「そんなことないよ」
夕希はちょっとしたことでもきちんとお礼を言ってくれる子なんだなと、奈々実は色塗りをしながら思った。
それから二人は毎日、休み時間には絵を描いて過ごし、掃除の時間にはごみ捨て係の仕事をし、下校時にはランドセルを並べて帰り道を歩いた。
転校前は友達ができるか心配していた奈々実だったが、今やすっかり新しい教室にも慣れ、楽しい日々を送っていた。
しかし四月も終わりに差しかかったある日のことだ。夕希が、風邪で欠席したのである。
夕希とばかり一緒にいた奈々実には、他に友達はいない。夕希がいなければ、奈々実は一人ぼっちだった。
一限目の後の休み時間、教室のど真ん中の席で、奈々実はぽつんと取り残されたような心細い気持ちになった。
他の女子はみんな、いくつかのグループに分かれて、楽しそうにおしゃべりなどをしている。
一人でいる自分のことを、みんな蔭で笑っているんじゃないか。そんなふうに思えてきて堪らなくなり、奈々実はトイレに立った。
二時限目が終わりに近づくと、ひどくそわそわした。どうやって休み時間をつぶそうか。そればかりを考えていた。今日はまだ始まったばかりで、休み時間はあと四回もやってくるのに。
授業終了のチャイムが鳴り、日直の号令で起立礼をして、先生が出ていく。それとほぼ同時に男子たちが教室を飛び出す。女子たちはまた仲良しグループに分かれ始める。
奈々実はぽつんと席に座ったまま、次の授業の教科書とノートを取り出して、きっちりと揃えて机に置いた。
早速することがなくなってしまって、奈々実は途方に暮れた。次が移動教室であれば良かったが、そうではないのでまたゆっくりトイレに行くか、ロッカーの中を確認するふりなんかをしてみようか。
いっそのこと、一人でも絵を描こうかな。何もせずにいるよりはマシだ。そう思って机の中の自由帳に手を伸ばしたとき、誰かに声をかけられた。
「ねぇねぇ、杉浦さん」
大谷たちのグループだった。三人は机の前に立ちはだかるようにして、奈々実のことを見下ろしている。
驚いたのと身構えたのとでうまく返事をできずにいると、大谷が口を開いた。
「杉浦さんさ、いつもあいつと一緒におるやんね」
「え?」
大谷が、奈々実の後ろの席を顎でしゃくる。
「センダ菌」
菌。
その言葉の不穏な響きに、どきりとした。それは、夕希のことを言っているのか。
他の二人がくすくす笑う。
「ほらぁ、やっぱ杉浦さん知らんかったんや」
「やだやだ、知らんうちにうつってまうよ」
「あいつの手とか、服から出とるとこ直に触るといかんのやよ」
菌が、うつる?
心臓が、ざわざわと音を立てている。
「杉浦さん転校生やもんで、狙われとるんやて。杉浦さんて、東門のほうの通学路やら?」
大谷の問いかけに、奈々実はただ小さく頷いた。
「あいつんち、西門のほうなんやよ。わざわざ杉浦さん追っかけて、東門から出とるけどさ」
他の二人が、やだー、ストーカーやん、と声を揃えた。
大谷が、哀れむような表情を作る。
「杉浦さんかわいそー。ごみ捨て係とか一緒にやらされとるやんね。嫌やったら嫌って、ちゃんと言わないかんよ」
「そうそう。あいつ三年ときもごみ捨て係やっとったんやでさ。杉浦さん、付き合うことないって」
そうやー、と相槌が入る。
「でもあいつがごみ捨て係やるようになってから、正直助かったよね。三年の最初んとき配膳係やったやん? あれほんと困った」
「ねっ! あいつの触った給食、ちょっと食べれんかったわ。実際だぁれも受け取らんかったしね」
「やだっ! 思い出しただけでキモい!」
取り巻きの一人が自分を抱き締めて、大げさにぶるりと身を震わせた。三人の笑い声が教室じゅうに響き渡る。他のグループの子たちが、こちらの様子をそれとなく伺っているのがわかった。
うつむく奈々実に、再び水が向けられる。
「でもさぁ、杉浦さんてほんと優しいよね。あいつと一緒におってもつまらんやら?」
「あいつって親から漫画とか全部禁止されとるらしいやん。そういうの見とるとバカになるとかでさ」
「えー? でも結局それってあんまし関係ないことない?」
「まぁ……ねぇ」
「てゆーか、むしろ逆に、そうやもんで禁止なんやろ」
三人の顔ににやにやした笑みが浮かぶ。どうやら成績のことを言っているらしい。確かに夕希は、お世辞にも勉強ができるとは言い難い。
大谷はまた奈々実に向き直った。
「ま、そういうわけやもんでさ。杉浦さんも、あいつには気を付けやぁよ。ね?」
諭すような、それでいてどこか威圧的な笑顔。きゅうっと、心臓が縮んだ気がした。三人は奈々実の返事も待たずに去っていった。
今聞いた話が、頭の中でぐるぐると渦を巻いていく。冷たい血が体じゅうを駆け巡る。膝の上に置いた指先が、かたかたと震えていた。
再びざわめきが戻ってくる。まるで何ごともなかったかのように。
奈々実はまた、教室の真ん中に一人取り残されてしまった。
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