残業

水瓶と龍

残業

この前さ、残業してた訳よ。月末に棚卸しってあるの分かるかな?在庫と出庫が合ってるかとか、まぁ製品の数合わせだな。


それでその日も棚卸しがあって、棚卸しは業務が回ってる時には出来ないからさ業務が終わってから、ウチだと18:00就業だからその後に行う訳よ。

んで、その時は後輩と2人で事務所の中の備品を数えてたのね。コピー機のインクが〜、とか、パソコン周りの備品が〜、とか。結構地味な作業で誰でも出来るんだよ。ただ数を数えるだけだからね。


それでその日はまぁまぁ時間がかかっちゃって日付を跨いじゃう位になっちゃたのよ。一緒にやってた後輩が新人ってのもあって教えながらやってたからさ。


それで、遅くなっちゃったから後輩を車で送っていくことにしたんだ。後輩は歩いて30分位かけて通勤してるって言うからね。


後輩の家は会社から近くの大通りをずっと南下していってコンビニの先を西に曲がったトコにあるって言うのさ。俺はその大通りの北に自宅があるんだけど、まぁ、そんな遠くないし、遅くまで残ってもらったのに歩いて30分はしんどいだろうなって思って送って行ったのよ。


それで後輩の案内で大通りを左折して、後輩をアパートの前で降ろして、自宅に帰る為にまた大通りに出て今度は北上する形で車を走らせて行ったんだ。


それでね、大通りを10分くらい走ったトコで赤信号で止まって、ふと助手席を見たら後輩がバッグを忘れて置いてっちゃってたんだよ。俺は内心「うわー、面倒くせぇなぁ」って思って後輩に届けるか少し悩んだんだけど、もし後輩の大事なもの(例えば財布とか携帯とか)が入ってたら明日困るだろうなぁ、って思ってさ、中身は勝手に見るわけには行かないから、しょうがなくその大通りをUターンして、また大通りを南下して行ったんだ。まぁ、10分くらいで着くし、後輩のアパートはコンビニの一本先で左折すればすぐで覚えやすかったからさ、まぁいいや、って感じでね。


それで大通りを南下してちょっと行ったらある道の角の所で女が手を挙げてんだよ。

それもタクシーを気軽に止める感じじゃなくてかなり体を道路に突き出したような感じでさ。

俺は通り過ぎた後に気がついて、何か必死な感じでちょっと気持ち悪いな、って思ったんだ。

そしたらさ、またその先の角でもその女が同じようにして手を上げてるんだよ。

身をぐぅ、って道路に突き出して手を挙げてさ。それでその女は髪が長いから、顔が髪に隠れてよく見えないんだけど、その必死な感じが怖くてさ、しかもさっきいたのにまたその先の角にいるわけないじゃん。俺は初め「えっ」って訳わかんなくて、またその女を通り過ぎたらすげー怖くなって来てさ、早いとこ後輩に荷物届けて帰ろうって思ったんだ。ついでにこの事も話して、ちょっと怖いのをお裾分けしてやろう位に考えてたら、また居るんだよ。その女が。次の角に。

俺はもう、背筋がっつうか、脊椎から氷水でも流れて来たんじゃないかって位もうぞっとして怖くなってさ、アクセル踏んでる足もちょっと震えて来て、もう目線を前に固めたまま女を見ないように通り過ぎてさ。次もいたらどうしよう、とか、車の中に入って来たらどうしよう、とか色んな事考えちゃって、ちょっと涙目になってたね。

それで次の角も来る訳だけど、どうしても目線にはそこが入っちゃうんだけどなるべく前だけ見るようにして過ぎて行ったんだよ。もう一点集中って感じで。なんか視界の隅にチラッと見えた気がしたけど、自分に「見えてない見えてない」って暗示をかけながら目印になるコンビニまで着いたんだよ。これで「あぁ、この先を曲がればやっと着くわ」って、コンビニの明かりで安心してちょっと力が抜けてさ、コンビニ通り過ぎる時にその俺を安心させてくれる人工的な光を求めてコンビニの方をチラッと見たんだよ。

そしたら、コンビニの駐車場の入り口で女がこっち見ながらめっちゃ笑顔で入れ入れって手招いてるのよ。今までは前のめりで髪が顔にかかって良く見えなかったんだけど、目を両手で思いっきりひん剥いた様な感じめちゃくちゃ大きい目でさ、口を大きくパクパクさせて「こっちこっち」って言ってんの。もう声が聞こえなくても分かるくらい口をパックパクさせてさ。

俺はもうパニックになって後輩のカバンなんかどうでもいいやって思って、直ぐにUターンしてアクセルベタ踏み状態で自宅に帰ったんだよ。もうそっから先は絶対に横を見ない様にして車も自分のアパートの前に雑に止めてさ。

そんで家に帰ったら嫁がまだ起きてて、びっくりした顔で「あんたどうしたのよ!」って言うの。

んで、俺は怖くて嫁にこの事話したりして安心したかったんだけど、そんなこと言われて顔が強張ったまま玄関で靴も脱がずに固まっちゃったんだよ。嫁も驚いた顔で固まってて。それで嫁が「とりあえず鏡」って言うからゆっくり靴脱いで家に入って洗面台の鏡を見たんだよ。嫁は何か後ずさってるし。まさかあの女が。。。とか考えたら恐怖でおかしくなりそうだったけど、鏡を見たわけだ。

そしたらさ、俺一重であんまり目が大きい方じゃないんだけど、あの時の女みたいに目を両手で思いっきりひん剥いたみたいに目を超見開いてるの。

30年生きて来て見慣れた自分の顔が全然見たことない人みたいな感じでさ。俺はもう無我夢中で顔を洗いまくって目をずーっとギュってつむったままハンドソープで顔を何回も何回も洗ったの。それで10分くらいかな。わかんないけど、ハンドソープ使って泡も水もびしゃびしゃにして顔を洗いまくって、恐る恐る鏡見たら、やっといつもの自分の顔に戻ってて。安心して膝から崩れたね。

んで、嫁も俺のその顔を見てるから、普通に戻ったの見て安心して泣き出しちゃって、俺は何かごめんねってしか言えなくて。嫁を慰めながら抱き合って寝たよ。

それで次の日目覚めると嫁も俺の顔をみて安心したのかいつも通りな感じになってさ、いつも通り準備して会社に行ったんだ。


それで、後輩に文句言うついでにこの話をして嫌味の一つ二つくらい言ってやろうって思ってさ、後輩のバッグ持って出社したんだよ。そしたら会社に入るなり上司がめちゃくちゃキレ始めて俺は「え??」って感じでキョトンとしてたら周りの女子社員とかも後ずさってるし、上司が「とにかくそんなもん持ってくるな!」って怒鳴るから自分の持ってるもの見たら後輩のバッグだと思ってたのが釘を打ち付けまくってある日本人形で、俺も「うわ!」って大きな声出してそれを放り投げたんだよ。それで、まだ上司がキレてるから、後輩の忘れ物で、って説明したら上司が誰だよそいつ、って言い始めて、俺は「はぁ?」ってやっと自分も言い返す気になってさ、だって俺は後輩の忘れ物だと思って持って来てるんだから、俺が確認してなかったにしろ悪いのは後輩だろう、って言い返したんだよ。軽くキレ気味に。そしたらさ上司はまたそんな奴は知らない、って言うの。他の社員にも目をやったら皆んな気持ち悪い感じで見ててさ。それで、俺は上司と一緒に一回外に出て、昨日の一連の話をしたんだよ。

残業して後輩送って女がいて自分も変な顔になって、俺も訳わかんないからさ、一気に喋ったら上司はこう言うんだよ。


昨日は棚卸しは無い。月末に休みが被るから来週やるって言ったのに、お前は就業時間が終わっても帰らないから、最後まで残ってた俺が声かけたら「いいの、いいの、いいの」ってすげー笑顔で言うから、気持ち悪くなって先に帰ったんだと。

俺は気絶しそうになったよ。全然そんな事言った覚えはないし、確かに後輩と一緒に喋りながら仕事してたし。そこで、そうだ、って思って、あの後輩に聞けば分かる、って上司に言ったら、だからそんな後輩は居ないって。じゃあ、その後輩の名前は何だ?って聞かれてさ、思い出そうとしても全然思い出せない。よく考えると、顔もぼんやりとしてるし、喋りながらやってたのに何を喋ったのか、どうゆう声だったのか。思い出そうとする度に全然わかんなくなるんだよ。

それで、頭の中で社員の名前を数えて行ったらそんなやつ居ないんだよね。俺に後輩は3人しか居ないけどそのどれでもないし。そもそも顔も名前も思い出せない。


俺はもう訳わかんなくてまた固まってたら、キレてた上司が何か優しくなって「まぁつかれてたんだろ」って。嫁にはこの事は言えなかったけど、もうあの通りを夜中に通るのはやめたよ。

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残業 水瓶と龍 @fumiya27

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